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2014/12/02

映画 『12人の怒れる男』が裁判員制度の参考になるか

141202(電車の床の食パン。映画とは関係ありません)

映画 『12人の怒れる男』(Wiki参照

オリジナルである『十二人の怒れる男』という1957年のアメリカ映画がありました。「法廷もの」に分類されるサスペンス映画で、父親殺しの少年の容疑者に対して、最初、陪審員の11人が有罪を主張している中、ひとりだけ無罪を主張するところから逆転劇は始まります。最終的には陪審員12人がそろって無罪の評決をするという内容です。

この『12人の怒れる男』は、時代や舞台設定を現代のロシアに置き換えて、容疑者もチェチェンの少年に設定した2007年公開の映画です。ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞やアカデミー外国語映画賞候補に選ばれています。

単なるリメイク版ではなくて、現代ロシアが抱える社会問題をからめるなど、かなりオリジナル性が高いと感じました。設定は同じでも映画作品としてはまったく違ったものになっています。

監督はロシアのニキータ・ミハルコフ。ミハルコフといえば、俺にとって思い出深い作品は、1991年のモンゴルが舞台になった『ウルガ』があります。『12人の怒れる男』では、陪審員2番の「芸術家」として監督自身も出演しています。

現代ロシアの問題という監督のテーマが根底にあるのでしょう。ロシア人はいつも議論して、それで終わりという問題もその中のひとつとして指摘されていました。

【ここからネタバレ注意】

議論だけしていては問題は何も解決しないということなんですが、映画の最後には、このチェチェンの少年を無罪とするのはいいとしても、それによって少年は行くあても無く路上に放り出されて、殺されてしまうかもしれないという矛盾が明かされます。陪審員たちは究極の選択を迫られます。

議論はちゃんとした、でも、それで終わりでいいのか? 結局彼らは無罪の評決を出しました。でもそれで終わることなく、陪審員2番の「芸術家」は少年を引き取り、真犯人を見つけることを決意するのでした。半歩踏み出したということですね。
 
 
ところで、日本でも裁判員制度が始まって、こういう判断がいつ自分に求められることになるかわかりません。自分の判断によって、容疑者の人生を変えてしまうかもしれない精神的ストレスは大きいと想像できます。

この映画を見ていると、「集団の判断」の諸々が見えてきます。まず最初は多数派に同調してしまうこと。そして少数派に影響を受けてしまうことです。

少数派に影響を受けてしまうことについては、モスコビッチの実験というものがあります。

6人の中に2名のサクラを入れた集団に、青色のスライドを見せたとき、この少数派2名のサクラは「緑色」と主張するのです。すると、ほかの4人の参加者も「緑色」と間違って判断する割合が高くなるという実験です。

ただし、この少数派には条件があります。まず「一貫して緑色と主張すること」です。もうひとつは「論理的であること」。そして、この色判断以外の点では共通していること、つまり周りから「変わり者だ」と判断されないこと、らしい。

映画では、少数派の意見は、最終的に正しい判断に導かれたわけですが、そうじゃない場合もありうるということですよね。

つまり間違った意見でも、一貫して主張し続けた場合、その意見に流される人たちが出てくると。しかも服装がきちんとしているとか、社会的地位があるとか、有名であるとか、「先生」と呼ばれる人の意見ならなおさらでしょう。

これ、よくわかります。マスコミに出てくるある偏った意見の持ち主がたしかにいます。こういう人は気をつけなければならないということですね。「一貫して主張する」は、本人が信じていたら手の施しようがありませんし。

いや、逆にこれを利用してみようかな。普通の人のふりするのは俺も得意だし。
 
 
 
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