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2014/12/27

画家エドヴァルド・ムンクの描く「月柱」の写真的なイメージ

130605(茨城県大洗磯前神社の月柱と鳥居)

『叫び』で有名なエドヴァルド・ムンクは、生涯にわたって「生と死、孤独、嫉妬、不安」といったイメージを絵画で表現し続けた画家です。

一時期精神科の治療を受けたこともありましたが、「作品」を発表する「画家」というよりも、自分で自分を治す「芸術(絵画)療法」の実践者であったというところがムンクの特徴だといいます。自分の中にセラピストがいたんですね。

ここがムンクに興味ひかれる理由でもあります。俺も前から「写真家」になりたくて写真を撮ったわけではないというところまでは自覚していましたが、最近、ようやく、それが自己治療(芸術療法)の実践をしていたということがわかってきたからです。

ところで、ムンクは「写真」を意識していたのでは?と思わせる部分があります。

ムンクの作品に『海辺の出会い』、『声/夏の夜』、『生命のダンス』という絵があります。(ネットで画像検索してみてください)

これらに共通しているのが、「月柱」といわれる、水面に月が映った光が柱になっているように描かれているものです。「月」は明らかに「女性」のイメージで、柱はそれに寄り添う形を取っていて、ムンクの性的葛藤のイメージとも解釈されているようです。

それはともかく、これを見てちょっとびっくりしたのですが、「月柱」のイメージは「写真的」だと思ったのです。カメラのテクニックでいえば「長時間露光」。水面が波立っていて、しかもある程度の時間が経つと「柱」の形に映るのです。

以前の記事「イベント「旧暦のリズムで棚田を味わう」で話した「田毎の月」について2014/11/08」でも書いてますが、ムンクは、「カメラは、それが天国か地獄ででも使われるのでなければ、絵具とパレットにはかなわない」と言っていたのに。

聞きようによっては、カメラ・写真批判ともとれるような言葉ですが、自分の絵にはしっかりと「カメラで撮ったようなイメージ」を描いていたわけです。

いや、わざわざこういうことを言うということは、カメラに対抗意識を持っていた可能性もあるんじゃないでしょうか。

100年前と言えば写真の大衆化が起こったころ。1925年には35mmカメラ、ライカなどが登場して、スナップ写真が広まりました。写真が絵画を駆逐してしまうんじゃないかと心配されていた時代背景もあったかな。

それこそムンクの無意識に写真(カメラ)との対抗意識、あるいは不安があったからこそ、無意識で絵に描いたということなのかもしれません。無意識内のイメージの意識化って、皮肉なことに心理療法的には、これが功を奏しているということでしょう。

ムンクの研究者さんたち、どうなんでしょうか? このあたりは・ ・ ・

俺のようなど素人がムンクの「月柱」の解釈をしてはいけないのかもしれませんが、知れば知るほど絵も好きになっているし、芸術療法の実践者・先輩として、興味が尽きない存在であり続けるのは間違いないです。
 
 
  
  
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2014/12/25

「小沢一郎の手を掴んで国会議事堂を目指していた」という夢を見た

141226

例の青酸化合物を服用させて夫などを殺害したという容疑で逮捕された千佐子容疑者が注目される中で、「後妻業」という生業が話題になっています。

人間は考えるものですね。こういった人の盲点をつくようなところに、「生業」としての可能性を発見するというのは、才能と言ってもいいでしょう。

そういう意味では、「政治屋(政治を生業とする人)」もそうかもしれないですね。

タレントや俳優が食い詰めた時に考えるのが「政治屋」への道だというのも、前に聞いたことがあります。確かタレントのNSさんがトーク番組で、ポロッと本音をしゃべったときだったと思いますが。

どう考えても政治なんかには無縁だったような俳優やタレントが、世間に忘れられるっていうタイミングで「政治屋」を目指す。現役時代は、スポンサー等を怖がっていっさい政治的発言なんかなかったのに、関係なくなった途端に「政治屋」になるって、まさに生業を見つける天才です。

全国的に知られるようになった地方議員のずさんな使われ方をしている政務活動費も「政治屋」の問題ですね。野々村竜太郎元兵庫県議の「号泣会見」で有名にならなければ、これからもこっそりと「政治屋」がネコババし続けたでしょう。

政治を生業にする「政治屋」の大物と言えば・ ・ ・。

小沢一郎氏は前から言われていた人ですが、小渕優子氏もそう見えますね。

小渕氏の方は「家業を継ぐ」という表現の方がいいでしょうか。

いずれにせよ、政治を生業としている人たちです。ちゃんとした「政治家」を求めるなら、地元の有権者も恥ずかしくもなく小渕氏に投票することなどないんでしょうが、これは彼女の「家業」を継ぐことと考えれば、周りで得する商売人たちもいっぱいいるんでしょうから、「小渕屋の身代を潰してはなりませぬ、お嬢様」とばかりに「小渕屋」の後継ぎであるお嬢さんに投票するのは、分かりやすいといえば分かりやすい。責任は番頭に押し付けて。大韓航空の「ナッツ姫」のほうがまだマシと思えるほどです。

前にこんな夢を見たことがあります。

俺は誰かの手を掴んで国会議事堂を目指していた。途中、その誰かは、韓国語でおばさんに何かしゃべったので、顔を見たら小沢一郎と彼の奥さんだった。

俺が手を掴んでいるにもかかわらず、小沢一郎はにこにこしていた。こんな笑顔を見せるんだなあと思った。小沢一郎は、「また営業できるようにする」と、さっきのおばさんに約束したのだという。どうもおばさんは、飲食店を閉めさせられたらしい。ということは、ここは韓国なのだろうか?

しばらく行くと、ビルの屋上みたいな場所に出た。そこで、ある女性が床から上半身を出した。そして俺をみつけてバケツの水をかけた。俺は、それをよけた。なぜそんなことをされるか、俺には薄々分かっていたようだ。小沢一郎が、その女性をなだめていた。

というもの。何でしょうか、これ?

「あなた、小沢一郎の手を放しなさいよ」という意味で、その女性は俺にバケツの水をかけたのではないかとは思いますが。この夢は「政治屋」と関係あると思われます。

今度は「亀井屋」と「小沢屋」が合併するのかな?
 
 
 
 
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2014/12/24

映画『エレベーター』と、閉じ込められた男の現実の恐怖体験

141223

カナダ・トロントの高級マンションでエレベーターに閉じ込められた男の恐怖体験が話題になっているそうです。

エレベーターに閉じ込められたのは、そのときの様子をビデオで撮っていたこの本人と、もうひとりの男がいました。その男が最悪だったのです。

いらいらして扉をたたいたり、扉をこじ開けようとしたり、中で騒ぎ始めたらしいのです。「そのうち救助がくるからおちついて」といってなだめましたが、おさまりませんでした。

結局90分後救助されたのですが、閉じ込められたのでさえ怖いのに、もうひとりの男が騒ぐので怖さが増したと言っています。

エレベータに閉じ込められるという事故は、たまにあると思いますが、普通ならニュースにもならないでしょう。今回の件は、まぁ、映画のような最悪の状態にならないだけマシだったとは言えるでしょう。

2011年のアメリカ映画『エレベーター』というのがあります。これはエレベーターに閉じ込められた9人の人間が極限状態でとんでもないことをやってしまうという、サスペンス(ホラー?)映画です。

「これがデビュー2作目となるノルウェー出身の新鋭スティーグ・スヴェンセン監督が、エレベーターに閉じ込められた9人の乗客たちを待ち受ける戦慄の運命を描く密室サバイバル・スリラー。ウォール街の超高層ビルで、投資会社CEOヘンリー・バートンを含む9人の男女が乗ったエレベーターが、地上200メートルの高さで緊急停止してしまう。突然の事態に動揺しながらも、すぐに解決するものと悠長に構えていた乗客たち。しかし救助の到着は遅れに遅れ、おまけにあと2時間で爆発する時限爆弾の存在が明らかとなり…。」(allcinema参照)

この映画を観ようと思ったのは、閉じ込められた人間がどんなふうになっていくのか?という心理劇を期待したからなのですが、こういうふうになるんだろうなぁという予想通りのストーリーがしばらく展開していきました。

乗客の中に時限爆弾を体に巻き付けたおばさんがいた設定は意外で、その爆弾を処理する方法にいたっては、ここがこの映画のホラー的醍醐味なのかもしれませんが、このあたりから、俺はついていけなくなってしまいました。

でも、もしかしたら現実でも、個人で考え行動することより、団体で考え行動することの方が、極端に走りやすいという心理学的な実験結果はあるらしく、「ありえない話ではないかもなぁ」とも一方では思いました。

カナダでのエレベータでも、冷静に考えれば、何分か我慢すればいいものを、我慢できずに騒いでしまうことは現実に起こってるわけだし、もし、俺が閉じ込められた時のことを考えても、いっしょに乗り合わせた客の中に、この男のように冷静さを失って騒ぎ出す人が乗り合わせたら、俺もブチ切れるような気もします。

そしてそれをきっかけに、騒いだ人を、他の人たちが集団でこてんぱんにやっつける心理状態にならないでもないなぁと思うわけです。俺だけ冷静にいる自信はないです。

「事実は小説より奇なり」というし、最近の「事実」は、ほんとうに「奇」が多くなっているようにも感じるし、映画『エレベータ』のような結末も、あるかもしれないなぁと考えると、薄ら寒くなります。
 
 
 
 
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2014/12/23

函館-青森のフェリーで出会ったアメリカ人親子の旅行記 『スコット親子、日本を駆ける: 父と息子の自転車縦断4000キロ』

150110


ヴィーノとの日本一周車中泊旅行中に、北海道函館から青森へのフェリーの中でチャールズさんとショウくん親子に偶然に出会った話は、こちらに書いています。

その時の旅行記が 『Rising Son: A Father and Son's Bike Adventure across Japan 』としてアメリカで出版されましたが、今年12月、それが日本語版として出ました。

『スコット親子、日本を駆ける: 父と息子の自転車縦断4000キロ』

英語版(オリジナル)には、俺と妻とヴィーノに会った話も出てくるのですが、日本語版ではどうでしょうか。まだ読んでいないので、どういう表現になっているか興味があります。「没」になっていたら悲しいですが。

紀伊国屋書店のページはこちら

なお、出版を記念して、「スコットさん親子 ライブトーク!!」があります。

日時|2015年1月8日(木)19時~
場所|紀伊國屋書店新宿南店3階・イベントスペース〈ふらっとすぽっと〉
お問い合わせ|03-5361-3301(10:00~20:30)
*入場無料・予約不要・通訳つき


  ☆

ライブトークに参加しました。

チャールズ・スコットさん家族のトークショー(2015/01/09)
 
 
 
 
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2014/12/22

クリスマスの起源 今日は2014年の冬至

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今日、旧暦十一月一日(新暦12月22日)は冬至です。

「二十四節気」の冬至は次の3つの「七十二候」(略本暦)に分かれます。

●初候 乃東生(夏枯草が芽を出す)

●次候 麋角解(大鹿が角を落とす)

●末候 雪下出麦(雪の下で麦が芽を出す)

新暦では毎年ほぼ12月21日か22日が冬至ですが、旧暦では、今年は十一月一日ですが、去年は十一月二十日と、年によって大きく違います。

太陽の運行で決まってくる季節(二十四節気)と、月の満ち欠けで決まってくる旧暦の日付が合わないのは当たり前なのです。そこが旧暦が使いづらいところでもあるんですが、そのふたつを合わせようとしたところに、先人の工夫と知恵の結晶を見ることができます。

はっきり言ってメンドウクサイ暦なのです。バカでは使えません。(だから俺も使いこなせていません) でもメンドウクサイからこそ、いちいち今日の日付や二十四節気を確かめてしまうのです。「日」と「季節」を意識するのです。意識しないと見えるものも見えません。

旧暦の話はもうやめておきます。それよりもクリスマスの話を。

北半球では一年のうちで昼が最も短く、夜が最も長くなる日が冬至です。

冬至を祝うところは多く、実はクリスマスも冬至祭が起源なのだそうです。新暦(グレゴリオ暦)の1年の元旦と、クリスマスが、冬至の日に近いことも偶然ではないそうです。実際、冬至を1年の始まりにした暦がありました。

だからクリスマスの起源を探っていくと、キリスト教以前の、もっとむかしから続いていた信仰や伝統があるわけで、キリスト教徒ではない日本人がクリスマスを祝っても不自然ではないという理屈になるのでしょう。

ただ名前が違っているだけ。だから「クリスマス」じゃなく「冬至祭」でもいいと思います。アメリカでは多宗教の事情から「メリークリスマス」とは言わず「ハッピーホリディ」と言うようになっているらしいし。

言い訳しながらクリスマスを祝わなくてもいいと思いますが。

それとキリスト教以前、冬至祭(クリスマスのルーツ)は、「死と再生」の儀式であったかもしれません。異界の国から異界の者が「煙突」を通ってやってきて、贈り物を届ける話なのです。

ここで「煙突」がキーワードでしょう。狭くて暗い、すなわちこれは異界との通り道。「煙突」は比較的新しいイメージなので、昔は「洞窟」や「穴」だったかもしれないし、異界の者は神と解釈できるかもしれません。

古い年が死んで、新しい年がやってくる。その新しい年が贈り物なのではないでしょうか。

聖人ニクラウスがモデルになったサンタクロースはその後に作り上げられた話なのではないかなと。

勝手に解釈してみました。本当かどうかわからないですよ。

 
 
 
 
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2014/12/21

「STAP細胞はあります」の小保方さんは宗教家を目指すべき

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けっきょく、小保方さんの騒動はなんだったのか?と思います。

小保方さんは21日付で理化学研究所を退職するそうですが、退職して終わりで済むんでしょうか? 小保方さんを信じて(あるいは恨んで)自殺した笹井さんのことを考えれば、小保方さんの責任は重いと思うのですが。

それから、こういう時、問題の人間ひとりを「スケープゴート」にしてしまう、ということも考えなくてはならないかもしれません。「小保方さんは特別な人だからこんな問題を起こした」と、小保方さんひとりを悪者にして幕引きをはかってしまっては、理研や、もっと言えば、科学界あるいは日本全体の問題を、うやむやにしてしまうことになるのでは?と思うからです。

こういうことが起こってしまう背景には、きっと俺たちもかかわっているのです。そしてこの問題が解決されないかぎり、第二、第三の小保方さんが現れるだろうし、俺も環境しだいではそうなってしまうかもしれません。人事ではないはずです。

ところで、STAP細胞はあるのか、ないのか。

第三者もこれ以上の実験は無意味であると結論づけた以上、今の時点でSTAP細胞はないということでしょう。

だから小保方さんがあれだけ自信をもって「STAP細胞はあります」「200回以上作製した」と言っていたことに、ある種、気味悪さを覚えます。

みんなが作れることが科学なのであって、ひとり(小保方さん)しか作れないのであれば宗教というしかありません。

彼女は本当に信じていたのかもしれないのです。彼女にとっての「心の現実」。でなければ、あれだけの自信のある言葉と態度が生まれないと思うからです。「嘘」をつこうと思ってついている感じがしませんでした。(そのあたりは佐村河内氏の場合と違います)

好意的に見ればですが、小保方さんは、自分で意識しないところでミス(他の万能細胞が混入するなど)を冒していた可能性はあるのではないでしょうか。

意識すると「嘘」になってしまうから、自分でもそれを無意識にしまい込んでいたということです。そうすることによって、華やかな表舞台で、自分も後ろめたさが無く、賞賛を浴びることができるのです。その快感は俺たちには想像できない大きなものでしょう。もしかしたらノーベル賞さえ頭にあったかもしれません。

その快感が大きければ大きいほど、自分のミスは無意識の深いところに沈んでゆき、偽りの自信だけが現れてきたといえるのではないでしょうか。3ヶ月間にわたる第三者立ち合いの元での再現実験は、いってみれば、小保方さんの「自分のミスの意識化」だったのかもしれません。

自分でミスを意識したからこそ、実験は失敗であり、理研を辞めることにも同意したのでしょうし。もし、これでもSTAP細胞の存在を信じるなら、また会見でも開いて、自分の主張を訴えていたはずです。

そうしないのは、自分で「わかった(意識した)」からだと思います。

小保方さんに抱いた俺の第一印象は「科学者というより宗教家のようだ」といったのは、結果として当たっていたように思いますが、彼女は科学者ではなくて、宗教家を目指したら、もっと人を幸せにできるような仕事ができたのではないかなと思います。人それぞれ向き不向きはあるし、何も「科学」だけが真理追求の道ではありません。

いや、これからでもできるでしょう。笹井さんのためにもそうしたほうがいいと思います。 
 
 
 
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2014/12/19

「ナッツリターン」は、韓流ドラマを見ているよう

141220(夜の韓国慶州路地裏)

今、韓流ドラマの『製パン王 キム・タック』を観ています。24話過ぎたので、あと6話残っています。韓国では2010年に放送されたもので、日本でも放映されたそうです。

公式サイ

そんなとき、この「ナッツリターン」騒動が起こりました。

まるで「韓流ドラマそのものだ」と思ったのは俺だけではないでしょう。大韓航空のナッツ趙前副社長が、マスコミの前で謝罪するシーンなど、まるでドラマのワンシーンではないかと思えるほどでした。『製パン王 キム・タック』の中に挿入されても違和感がないくらいです。

韓流ドラマには、典型的な「財閥( or 金持ち・権力者)」がやりたい放題やって、主人公がいじめられるという設定が多く、まぁ大げさだけど、ドラマだからそういう演出なんだろうと思って観ているのですが、どうも、このスキャンダルを見ると、韓流ドラマがなぜそういうワンパターンとも言える構図を取るのか、かわかるような気がしてきました。

韓国の人たちの中には、日ごろから財閥や権力者や富者に対する不満があるわけですね。ドラマでは財閥の人間が悪として描かれ、最後は、正義の主人公が勝つというところで溜飲を下げるということなのでしょう。

『製パン王 キム・タック』では、財閥ではなくて、製パン会社なのですが、会長の奥さんと息子マジュン、マジュンの本当の父親でもあり会長の秘書でもある社員の男が悪役なんですが、そこまでやるか?というほどの傍若無人ぶりなのです。

「人間が平等だと思っているの?」「お金で解決できないものはない」「殺してやろうか?」なんていうセリフは日常茶飯で、これでもかというほど主人公たちを苦しめます。(危ない目に遭っても警察と救急車は絶対呼びませんが) 会長の娘が警察に捕まっても裏から手を回し賄賂を贈って釈放させます。札束で人の頬をたたいているような感じで、それが今回はナッツの入った袋だったということです。

ところで、ナッツ前副社長の謝罪会見について、「韓流ドラマそのものだ」と書きましたが、謝罪会見が、どことなく日本とは匂いが違うような気がします。日本よりも「ドラマチック」ではないでしょうか? 日本では大げさにやると、逆に嘘っぽく感じるというのがあるような気がするのですが。

ナッツ前副社長の、まるで絵に描いたような落ち込んだ姿に、俺は少し嘘っぽさを感じてしまったからです。でも、たぶん韓国では、あれくらい大げさに表現しないと許されないのかもしれません。それは謝罪だけではなく、悲しみの表現や、嬉しさの表現もそうです。

日本の謝罪会見で求められるのは「誠実さ」ではないでしょうか。芝居がかった姿を見せることではありません。現にあの 野々村元兵庫県議の「号泣会見」は、笑えはしますが、誠実さのかけらも感じられず、謝罪にもなっていませんでした。「号泣会見」は韓国以上かもしれませんが。

もちろん、だからどうだという話ではありませんが、韓国と日本では謝罪会見についての感覚が違うんだなぁという俺の個人的感想です。
 
 
 
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2014/12/18

2015年も雑誌「栄養と料理」の連載「きょうも旅の空の下」続く

141220

雑誌「栄養と料理」の連載「きょうも旅の空の下」が、来年2015年も1年間続くことになりました。

1月号は発売中(上に掲載の表紙)ですが、「愛媛県伊予市 犬寄峠」、2月号は「岩手県遠野市 遠野の雪景色」、3月号は「宮崎県高千穂町 神降る里」と続く予定です。

今年の連載はヴィーノの登場が少なくなったので、2015年はもっと多くなる予定です。1月号はさっそく「犬」の付く地名「犬寄峠」です。

他人の海外旅行の記念写真と、他人の飼い犬の自慢話ほどつまらないものはないと常々思っているので、原稿でもその点については意識しています。

とくに犬好きではない読者もいるということを念頭に置いていますが、それは俺も過去「犬苦手人間」だったからです。程よい距離感というのが大切なのではないでしょうか。

それにしても10数年前から始めた日本国内の旅に、これほどはまるとは思ってもみませんでした。「海外旅行」から「国内旅行」への移行は、俺ばかりではなく、日本人全体の傾向でもあるかもしれません。

連載の最後(2015年12月号)は、出身地の山形県河北町で締めくくりたいと思っています。学生時代に田舎を飛び出し、何十年後、長い長い旅からようやく帰るみたいなイメージですね。
 
 
 
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2014/12/17

ドラマ 『ホームランド』の拷問シーンはフィクションではなかったのか

141217

衝撃的なニュースが飛び交っています。

アメリカのブッシュ前政権下で、対テロ活動のCIAが容疑者らに拷問をしていたというニュースです。

さっそく、鬼の首でも取ったと言わんばかりに、中国政府はアメリカの拷問を非難しましたが、噴飯ものですね。拷問をやっている両国が、お互いに非難しあう図というのは笑えます。

テレビドラマ『ホームランド』については、以前書きましたが(「気がかりなニュース シリア帰りの若者が欧州を脅かす」)、容疑者の拷問シーンも、「これはドラマだから」と思って観ていたのですが、実はフィクションではなかったということですね。

水攻めの拷問はずいぶんリアリティがあるなぁと思っていましたが、まったくこの通りだったのです。

『ホームランド』でも、拷問を受けて容疑者は口を割るのですが、その情報は正しかったり、嘘だったりします。結果的に「拷問は何の効果もなかった」という報告書通りなのです。

たとえば、俺がテロ活動の容疑者になって拷問を受けたとします。俺は苦痛には弱いので、けっきょく耐えられず「口を割る」でしょう。

でも、ここが問題です。もし俺がテロ活動に関わっていなかったらどうでしょうか?

情報は知らないので、俺は「嘘」を言うでしょう。つまり俺が本当にテロに関わっていなくても、なんでもいいから「口を割って」その場の苦痛を逃れようとするはずです。

拷問それ自体が非人道的ですが、テロに関わっていない(潔白)の人間に拷問するのは、まったく意味がありません。

報告書には「こうした手法で得られた虚偽の供述をたどった結果、テロ捜査が行き詰まることもあった。CIAが拷問などによって入手した情報は容疑者らの作り話か、すでに他方面から入っていた内容ばかりだった」(CNN 参照)という。

ブッシュ政権は、そんなあやふやな情報で、イラクを大量破壊兵器を保有するテロ支援国家と非難するなどして、戦争に突入しました。今の世界的なテロの頻発の原因のひとつがアメリカのこういう情報収集にあったとすると、本当に馬鹿らしく思えます。

それでも救いは、というか、アメリカは、こんな自国に不利になることでも(反米感情が高まるリスクを冒しても)、情報が出てくるというところは、まだマシだなと思います。

中国なんかはまったく出てこないし、もしかしたら、秘密保護法が施行された日本でも、こういった情報は出なくなってしまうかもしれません。他人ごとではない気がします。
 
 
 
 
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2014/12/15

JTBのMOOK 『はじめての感動に出会える! 日本の絶景』が出版

141215(上の写真は、表紙と、「星峠の棚田/新潟県」のページ)

JTBのMOOK 『はじめての感動に出会える! 日本の絶景』が12月15日から全国の書店にて発売中です。

amazonのページはこちらです。

ムック: 160ページ
出版社: ジェイティビィパブリッシング
言語: 日本語
ISBN-10: 4533101283
ISBN-13: 978-4533101281
発売日: 2014/12/15
寸法: 21 x 14.8 cm

この本は、7人の写真家の日本の絶景の写真で構成されたものです。三好和義氏、富田文雄氏、宮嶋康彦氏、中井精也氏、石川直樹氏、丸田あつし氏と、俺(青柳)です。

青柳は、「日本の原風景」の、「星峠の棚田/新潟県」、「西海の養殖場/愛媛県」、「大蕨の棚田/山形県」、「椹平の棚田/山形県」、「ころ柿の里/山梨県」、「下栗の里/長野県」、「東後畑の棚田/山口県」を掲載しています。

絶景の解説と、データ(住所、問い合わせ先、アクセス方法など)も掲載されていますので、ガイドブックとしても使えると思います。

日本にはこんなにもすばらしいところがあるんですね。

「絶景」とは、「すぐれた景色」(広辞苑)、「ほかにたとえようもない,すばらしい景色」(大辞林)のことですが、これは一般的な意味で、俺個人にとってのパーソナルな意味はというと・ ・ ・。

「絶景」とは「非日常」です。「絶景」の「絶」という字面、それと「ぜっ」という発音、何かそこに「非日常」を感じないでしょうか。

普通の景色が、時間、季節によって「絶景」に変わる瞬間があるわけです。だから逆に言えば、「絶景」というのは、いつ行っても見られるというものではありません。

じゃぁ、どうすればいいか。それは「絶景」になるまで時間をかけて待つしかないのです。

だから「絶景」には時間の観念も含まれているように感じます。長い時間をかけないとその一瞬には出会えません。偶然に撮影されたものもありますが、その偶然をものにできるのも、時間をかけているからです。

写真家は、他の人に代わって「絶景」に立ち会う代理人なのです。待った時間の集大成として「絶景」を褒美として与えられていると言ってもいいかもしれません。

だからこれだけの「絶景」が1冊になっているのはすごいことではないでしょうか。どれだけの時間がこの1冊に込められているか、わかっていただけるとうれしく思います。(自画自賛?) ぜひ、各写真から「時間」も感じてみてくださ。

ところで俺は今まで、文化的景観(人間が自然とともに作り上げた景観)をメインに写真を撮ってきたので、これからはもう少し幅を広げて撮影してもいいかもしれないと、この本をめくりながら考えました。
 
 
 
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2014/12/14

ヒトがfacebookにはまる理由

141205

「9000年超前の人骨出土 沖縄で、埋葬の可能性」のニュースがありました。(日本経済新聞http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG11H6M_R11C14A2CR0000/参照

埋葬と確認されれば、国内最古級になる可能性があるという。「埋葬」というのもかなり高度な文化活動だと思います。

ヒトはどういう生き物か?というテーマは奥が深いですね。

昔は、ヒトは万物の霊長で、特別な存在であるという考えが主流で、「言葉を話す」とか「道具を使える」とか「文化を持つ」特別なサルと習ったような気がします。ヒトを特別視(特権視)したがる考えは今でも健在ですが。

でも今となっては、ヒトを特別視する根拠はなくなっているそうです。「言葉」も「道具」も「文化」も、ヒトに特別なものではなく、他の動物にもあることが証明されて、ヒトと動物は、連続的な存在であるということがわかりました。だから「特別なサル」ではなくて「風変わりなサル」にすぎないというのです。

じゃぁ、ヒトがヒトである最後の砦というか、一番の特徴というのは何なんでしょうか?

それは、「教え教えられる」、「模倣するのが得意」な種であるというところらしい。

そしてもうひとつ、自己と他者の違いはわかりつつ、その垣根を越えて、共感したがるというのがヒトの特徴であるらしい。とくにポジティヴな感情を共有したがるのは。

これを聞いてピン!ときました。

そう、「いいね!」ですね。

どうして「いいね!」(共感)がはやるのかわかった気がします。どうしてヒトがfacebookにはまるのか、です。

facebookのアカウントは持っていますが、この1年はほとんど更新していない俺が言うのもなんですが。

「共感」にそれほど関心が無い性格なので、たぶん俺は典型的なヒトではない、つまり変わり者だということなのでしょう。心的には、類人(チンパンジーやボノボ)に近いのかもしれません。それは否定しません。

実際、チンパンジーは犬よりも社会的サインに鈍感だそうです。他人が何をしようとしているかとか、嬉しそうにしているとかに鈍感で、犬とは違って、他人のことはあまり気にしない個人主義らしいので、このあたりも俺の性格と似ているといえます。

ところで、faceとは何でしょうか? 英語で「顔」「表面」「外見・見かけ」の意味です。

精神分析家の土居健郎氏に「オモテとウラ論」というのがあります。オモテとは対人・対社会関係で外に見せるもの、ウラとは外に見せないで内々にしておくもので、日本の古語では「オモテ」は「顔」を、「ウラ」は「心」を意味していたと指摘しています。

ということは、faceというのは、外に対しての見せかけであって、本心ではないということを暗示しているわけですね。いや、創始者のマーク・ザッカーバーグ氏がそのことを意識してfacebookと名づけたのかどうかはわかりませんが。無意識がそうさせたのかもしれません。

facebookには、たしかに本心・本音は隠し、表面的な部分で「いいね!」しあっているところはあります。見ず知らずの「友だち」にやたらに本心・本音を見せないというのは、動物であるヒトの生存本能としては当然のことでしょう。

俺も本心・本音を見せるのは面と向かって話をする人に対してです。このブログも本心・本音を100パーセントオープンにしているとは言えないし、ましてやネット上だけで知り合った「友だち」に対してオープンにすることはありません。

ただ、本名ではなく、匿名ならまた違ってきます。匿名だったらfacebookでも本心・本音を語れるのではないかと思うのですが。それについては、またの機会に書きます。

とにかく、facebookというのは、表面的ではあれ、他人とポジティヴな感情を共感できる、ぴったりな場なんですね。ヒトがヒトらしくいれる場だということがわかりました。
 
  
  
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2014/12/11

フランス人写真家ERIC BENARDの写真集『Marguerite Duras, des journees entieres en Indochine』

141211

友人のフランス人写真家エリックが2年ぶりで日本にやってきたので、久しぶりで会いました。

飛騨高山、金沢、富士山など周って東京に戻ったところでしたが、なかなかホテルが取れなかったといっていました。外国人観光客が増えたせいでしょうか。

有楽町で待ち合わせて、サラリーマンで混雑するガード下の飲み屋街に入りました。この独特の日本的光景をエリックも気に入ったのか、あとで分かれてからまた写真を撮りに戻ったらしい。

1冊の写真集をもらいました。

今年の秋にフランスで開催された『Marguerite Duras, des journees entieres en Indochine』展では、マルグリット・デュラスが暮らしていたベトナムなどの写真が展示されました。エリックがこれまで撮影してきた写真です。同展の写真をまとめた写真集でした。

エリックがメコン河を撮り始めて時間が経ちましたが、確実に前進しているのはうれしい限りです。日本だけではなくフランスでも、写真集を作るのは難しいことは同じ状況ですが、時間をかけて見つめ続けてきたものが、1冊の写真集としてまとめられることは、写真家にとってはこの上ない喜びです。

表紙の写真、女性の後姿だけ見ると、どこだろうな?と思うのですが、ハノイの湖。ベトナム人女性だそうです。いわゆる「ベトナムらしい写真」もありますが、どことなくヨーロッパのようなシーンを探しているのはフランス人の感性なのでしょうか。そういえば、ベトナムはフランスの植民地でした。

俺もメコン河を撮っていたので、この地域には愛着があるし、毎年というわけにはいきませんが、写真集『メコン河 アジアの流れをゆく』を出版した後もメコン流域には足を運んでいます。今年はラオス・タイを再訪しました。そのうち、昔と今のメコンの対比で写真展やれたらいいかな。エリックとの合同展などというのもいいかもしれません。いつやるかは、タイミングですね。

ところで、マルグリット・デュラスは、フランスの小説家、脚本家、映画監督で、1914年、フランス領インドシナ(現ベトナム)のサイゴンに生まれました。

『愛人/ラマン』は現地で知り合った華僑青年との体験を元にした自伝的小説で、1992年、フランス・イギリス合作で映画化されました。当時、俺もこの映画を観ました。

俺がベトナムのミトーで小舟を雇い、メコンを下り、南シナ海に出たのも1992年だったと思います。


Eric Bénardの公式サイト

http://www.ericbenard.com/

サイトの中にTokyoの街を撮影した写真ギャラリーもあります。フランス人が見たTokyoの印象です。
 
 
 
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2014/12/08

和太鼓奏者 富田和明さんの独演打会『 鼓かくさず叩きます 2014』

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20歳で佐渡島に渡り鬼太鼓座に入座してから、今年太鼓芸能生活37年を迎える太鼓打ち・富田和明さんの独演打会が先週金曜・土曜日の2日間、ティアラこうとう小ホールで行われました。

今回は、天才アメーバ芸人・玉姐さんこと鈴南玉恵さんが特別ゲストに迎えられた2人公演でした。玉姐さんの話芸と富田さんの太鼓のコラボレーションです。

やっている舞台は見た目めちゃくちゃ「和」なんですが、どこかコスモポリタンな雰囲気がありました。玉姐さんは東京葛飾出身でロンドン育ちなので英語で、富田さんは中国留学経験があるので、中国語でやったりして、そのあたりのことが理由なんでしょうね。

舞台には演者の人間性が現れるのは当然だろうし、「和」というローカルなものの中に普遍的な感覚を発見しようとする二人の姿勢が見えます。

最後は重量162キロの長胴大太鼓でしたが、一打一打の音がズシーンと胸に迫ります。今年1年間の邪気を一気にはらってくれるような音でした。

富田さんのfacebookにも公演の写真が掲載されています。

富田和明 facebook
 
 
 
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2014/12/06

ブラジルタウン群馬県大泉町のレストラン「ブラジル」の「フェイジョアーダ」

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今年の9月、「大泉カルナバル」のとき、大泉町へ行った話しは書きました。

このときヴィーノは連れて行きませんでした。でも、来年雑誌で「ブラジルタウン大泉町」を取り上げるつもりですが、ヴィーノの写真も必要となるかもしれないので、先日、ヴィーノを「モデル犬」として連れて行ってきました。ヴィーノの写真のためにだけ行ったといってもいいかもしれません。

昼はレストラン「ブラジル」で。

カルナバルでは焼肉「シュラスコ」を食べて写真も撮ったので、今回、俺は、黒豆・牛肉・豚肉・ソーセージ・ベーコンなどを煮込んだ「フェイジョアーダ」。妻は、ブラジル特有ジューシー燻製ソーセージと目玉焼きの「カラブレーザ」。ポテトと鶏肉のコロッケ「コシーニャ」。それと、ライス・サラダバー・フェイジョンのセットを。飲み物はインカコーラ&マテ茶で、おなかいっぱいになりました。

店主にOKをもらい、食事後、店の前でヴィーノの記念撮影。それから場所を移動し、前回も寄った、ブラジルふうスーパーTAKARAの前でも撮影。(いったいどんな意味があるのかな?)

ヴィーノには何のメリットも無いブラジルタウン旅行だったかもしれませんが。
 
 
 
 
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2014/12/05

昭和の「旅人のアイドル」 高倉健さんと菅原文太さん

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高倉健さんが亡くなったと思ったら、今度は菅原文太さんも亡くなりました。

昭和の映画界を担ってきた2大スターを一気に失って、さらに昭和が遠くなった気がします。

文太さんは息子さんの死をきっかけに映画界から距離を置いて、最近では農業にはげみ、日本の芸能人にはめずらしく、政治や社会問題に対して自分の意見をはっきりと表明していました。それと若手俳優たちの職業意識の低さや、CG映画に「映画ではない」と腹を立てていたそうです。(nifty NEWS参照

だから俺にとっては、トラック野郎シリーズの映画を観ていたわけではないので、最近の文太さんの方が馴染みがあるし、注目もしていました。

政治批判や科学技術批判や文明批評など、必ずしもすべてうなづける意見ではありませんが、そういう人もいていいのではないでしょうか。それが文太さんであることに違和感はありません。

健さんと文太さんは同じくやくざ映画に出ていたからなのか、比べられることも多かったらしい。二人はお互い意識もしていたようで、競演したくなかった。それでも会社の方針だったのか競演作もあります。ただ質の違う二人の俳優の競演は難しかったろうなと思いますが。

でも、俺はこのふたりには共通項を感じます。健さんについては「まじめで不器用なアイドル」、「旅人のアイドル」と書きましたが(健さんの追悼番組の映画『あなたへ』&NHK 「プロフェッショナル 仕事の流儀」)、文太さんも「旅人のアイドル」です。

この「旅人のアイドル」というイメージは、文太さんのトラック野郎など、ロードムービーが頭にあるから、というほかに、健さん同様、アウトロー的な生き方にあるのは間違いありません。

アウトローには「旅」や「放浪」が似合うのです。そういう意味で、二人に加えて、ふうてんの寅さんもそうです。俺にとっては3大アイドルです。

でも「旅のアイドル」が成立するのは昭和という時代だったからなのではないか、ということも感じます。「旅」や「放浪」にあこがれを抱くのは昭和の人間だから、ではないかなと。感覚は時代とともに変わります。

でも正直であろうとすると、文太さんのような物言いになるのでしょうね。ちょっと過激な不満表明。そこまではできないと思う俺と、文太さんとの「格の違い」がここにあります。
 
 
 
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2014/12/04

はやぶさ2の探査で、生命の起源に迫る

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はやぶさ2が無事に打ち上げられ、軌道に乗りました。

発射時は少し雲があって、地上からの映像では、雲で隠れてしまいましたが、上空8000mから撮影された映像はすごかったですね。こういうロケット発射シーンを今まで見たことがあったかなと思います。

はやぶさ2は、地球から約3億キロ離れた小惑星「1999JU3」を目指し、長い航海が始まりました。帰ってくるのは東京オリンピック開催年の年末らしい。無事帰ってくることを祈ります。

ここで採取予定の岩石には、生命の起源に迫る、水や有機物を含んでいると期待されています。30億年くらい前の地球は水ばかりで生命の誕生には不向きな環境でした。だから地球の生命の起源は、小惑星などの衝突によって有機物がもたらされたのではという説があります。

もし生命の起源が見つかれば、大ニュースであることは間違いないし、地球とか生命とか人生とかを考える思想や哲学にまで、変化を及ぼしてしまうでしょう。

たとえば、宇宙船からの映像で、初めて青い地球を知ってから、俺たちは、地球の全体をイメージできるようになりました。「温暖化問題」などはその典型でしょう。

だから地球外に生命の痕跡があることを知って、俺たち人類は初めて、「地球人」としてのアイデンティティに目覚めるのだと思います。民族・国家間の争いや、領土についての感覚も変わるはずです。

そうなって人類は次のステップに上がれるのではないでしょうか。いや、今の世界の閉塞感を救うのは、それしかないのかもしれません。

はやぶさ2が人類に与える影響は、科学的好奇心を満たす以上の、もっと大きな意味があるように思います。
 
 
 
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2014/12/02

映画 『12人の怒れる男』が裁判員制度の参考になるか

141202(電車の床の食パン。映画とは関係ありません)

映画 『12人の怒れる男』(Wiki参照

オリジナルである『十二人の怒れる男』という1957年のアメリカ映画がありました。「法廷もの」に分類されるサスペンス映画で、父親殺しの少年の容疑者に対して、最初、陪審員の11人が有罪を主張している中、ひとりだけ無罪を主張するところから逆転劇は始まります。最終的には陪審員12人がそろって無罪の評決をするという内容です。

この『12人の怒れる男』は、時代や舞台設定を現代のロシアに置き換えて、容疑者もチェチェンの少年に設定した2007年公開の映画です。ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞やアカデミー外国語映画賞候補に選ばれています。

単なるリメイク版ではなくて、現代ロシアが抱える社会問題をからめるなど、かなりオリジナル性が高いと感じました。設定は同じでも映画作品としてはまったく違ったものになっています。

監督はロシアのニキータ・ミハルコフ。ミハルコフといえば、俺にとって思い出深い作品は、1991年のモンゴルが舞台になった『ウルガ』があります。『12人の怒れる男』では、陪審員2番の「芸術家」として監督自身も出演しています。

現代ロシアの問題という監督のテーマが根底にあるのでしょう。ロシア人はいつも議論して、それで終わりという問題もその中のひとつとして指摘されていました。

【ここからネタバレ注意】

議論だけしていては問題は何も解決しないということなんですが、映画の最後には、このチェチェンの少年を無罪とするのはいいとしても、それによって少年は行くあても無く路上に放り出されて、殺されてしまうかもしれないという矛盾が明かされます。陪審員たちは究極の選択を迫られます。

議論はちゃんとした、でも、それで終わりでいいのか? 結局彼らは無罪の評決を出しました。でもそれで終わることなく、陪審員2番の「芸術家」は少年を引き取り、真犯人を見つけることを決意するのでした。半歩踏み出したということですね。
 
 
ところで、日本でも裁判員制度が始まって、こういう判断がいつ自分に求められることになるかわかりません。自分の判断によって、容疑者の人生を変えてしまうかもしれない精神的ストレスは大きいと想像できます。

この映画を見ていると、「集団の判断」の諸々が見えてきます。まず最初は多数派に同調してしまうこと。そして少数派に影響を受けてしまうことです。

少数派に影響を受けてしまうことについては、モスコビッチの実験というものがあります。

6人の中に2名のサクラを入れた集団に、青色のスライドを見せたとき、この少数派2名のサクラは「緑色」と主張するのです。すると、ほかの4人の参加者も「緑色」と間違って判断する割合が高くなるという実験です。

ただし、この少数派には条件があります。まず「一貫して緑色と主張すること」です。もうひとつは「論理的であること」。そして、この色判断以外の点では共通していること、つまり周りから「変わり者だ」と判断されないこと、らしい。

映画では、少数派の意見は、最終的に正しい判断に導かれたわけですが、そうじゃない場合もありうるということですよね。

つまり間違った意見でも、一貫して主張し続けた場合、その意見に流される人たちが出てくると。しかも服装がきちんとしているとか、社会的地位があるとか、有名であるとか、「先生」と呼ばれる人の意見ならなおさらでしょう。

これ、よくわかります。マスコミに出てくるある偏った意見の持ち主がたしかにいます。こういう人は気をつけなければならないということですね。「一貫して主張する」は、本人が信じていたら手の施しようがありませんし。

いや、逆にこれを利用してみようかな。普通の人のふりするのは俺も得意だし。
 
 
 
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