画家エドヴァルド・ムンクの描く「月柱」の写真的なイメージ
『叫び』で有名なエドヴァルド・ムンクは、生涯にわたって「生と死、孤独、嫉妬、不安」といったイメージを絵画で表現し続けた画家です。
一時期精神科の治療を受けたこともありましたが、「作品」を発表する「画家」というよりも、自分で自分を治す「芸術(絵画)療法」の実践者であったというところがムンクの特徴だといいます。自分の中にセラピストがいたんですね。
ここがムンクに興味ひかれる理由でもあります。俺も前から「写真家」になりたくて写真を撮ったわけではないというところまでは自覚していましたが、最近、ようやく、それが自己治療(芸術療法)の実践をしていたということがわかってきたからです。
ところで、ムンクは「写真」を意識していたのでは?と思わせる部分があります。
ムンクの作品に『海辺の出会い』、『声/夏の夜』、『生命のダンス』という絵があります。(ネットで画像検索してみてください)
これらに共通しているのが、「月柱」といわれる、水面に月が映った光が柱になっているように描かれているものです。「月」は明らかに「女性」のイメージで、柱はそれに寄り添う形を取っていて、ムンクの性的葛藤のイメージとも解釈されているようです。
それはともかく、これを見てちょっとびっくりしたのですが、「月柱」のイメージは「写真的」だと思ったのです。カメラのテクニックでいえば「長時間露光」。水面が波立っていて、しかもある程度の時間が経つと「柱」の形に映るのです。
以前の記事「イベント「旧暦のリズムで棚田を味わう」で話した「田毎の月」について2014/11/08」でも書いてますが、ムンクは、「カメラは、それが天国か地獄ででも使われるのでなければ、絵具とパレットにはかなわない」と言っていたのに。
聞きようによっては、カメラ・写真批判ともとれるような言葉ですが、自分の絵にはしっかりと「カメラで撮ったようなイメージ」を描いていたわけです。
いや、わざわざこういうことを言うということは、カメラに対抗意識を持っていた可能性もあるんじゃないでしょうか。
100年前と言えば写真の大衆化が起こったころ。1925年には35mmカメラ、ライカなどが登場して、スナップ写真が広まりました。写真が絵画を駆逐してしまうんじゃないかと心配されていた時代背景もあったかな。
それこそムンクの無意識に写真(カメラ)との対抗意識、あるいは不安があったからこそ、無意識で絵に描いたということなのかもしれません。無意識内のイメージの意識化って、皮肉なことに心理療法的には、これが功を奏しているということでしょう。
ムンクの研究者さんたち、どうなんでしょうか? このあたりは・ ・ ・
俺のようなど素人がムンクの「月柱」の解釈をしてはいけないのかもしれませんが、知れば知るほど絵も好きになっているし、芸術療法の実践者・先輩として、興味が尽きない存在であり続けるのは間違いないです。
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