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2015/01/25

雪に対しては「嫌いだけど、好きだ」という感情

150125

雪下ろしをする夢を見ました。文章にするとなんてことはない普通の夢なんですが、映像は印象的でした。

大雪が降った翌朝。雪は止んで天気は回復した。そこで俺は雪下ろしをしていた。屋根に積もった雪が薄い庇のように垂れ下がっていた。俺は数mの長さのポールで庇を突いたらドサッと落ちた。ポールを継ぎ足して長さを2倍にして、もっと落とそうとした。

今年は暖冬なんでしょうか? 12月は雪が多かったような気がしますが、昔よりも雪が少なくなってきた印象はあります。

気象学者じゃないので、このことが、地球温暖化のせいなのかどうかわかりませんが、もしそうならば、雪国は「温暖化」で助かっているところもあるんだなぁと思います。ただ、ひとつのメリットよりは、全体的に考えなければならないだろうし、たとえば農作物が温暖化でできなくなったり、できるようになったりという変化もあるし、雪が少なくなったからいいという単純な話ではありません。

雪国の除雪費の負担は莫大なものです。雪下ろしは大変です。かといって、雪がまったくなくなったら、これもどうかなと思います。

雪が多いというのを逆手にとってスキー場などをやるなど、雪による経済的メリットはあるし、山に積もった雪は、ゆっくりと融けて田畑を潤してくれる貴重な水資源になるし、なにより、雪景色の美しさを知っているのも、雪国の人たちです。

妻からはさんざん「あなたは雪国の出身なのに、極端な寒がり」と言われるくらい寒がりを自覚している俺ですが、「寒さ」=「雪」ではないんですよね。

しいて言えば、雪に対しては、「嫌いだけど、好きだ」という感情でしょうか。そのことについては雑誌2月号「栄養と料理」にも書いています。

俺は矛盾するふたつの感情を、雪に対しては持っているようなのです。

とくに好きなのは、前日雪が降って、翌朝晴れたときの雪景色の美しさといったらないですね。
 
 
 
 
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2015/01/24

ゾンビが気になってしまう、ブラッド・ピット主演の映画『ワールド・ウォーZ』

150119(Jerusalem, Israel)

率直に感想を言わせてもらえば、映画を見終わったときの、このもやもや感はなんだろう?と思いました。

大量のゾンビを殺していくシーン、とくに、エルサレムの高くそびえる壁を乗り越えてくる何千、何万というゾンビたちに人々(感染していない人々)が襲われるシーンは圧巻ではあったのですが・ ・ ・。

映像的には迫力あるシーンに握手を送りたいとは思うのですが、一歩引いて内容を考えると、ゾンビは「敵」なのか?という疑問が浮かび上がって、物語りにのめりこめなくなってしまいました。

たぶん俺の「ゾンビ」に対するイメージというか、偏見でしょうが、ブラピがどうしてゾンビ映画に出たのだろう?と疑問も浮かびました。俺がゾンビ自体に、ある種の「ばかばかしさ」を感じてしまうのは、アメリカの土葬と日本の火葬という文化の違いもあるのかもしれません。幽霊やお化けと違って、「死体」が動き回ることにリアリティを感じないのです。

彼らは「病人(感染者)」じゃないかなと思うと、「ゾンビ」とレッテルを貼られた人間が有無を言わずに殺されるというのが違和感だったのです。まず「病人(感染者)」を助けるのが筋じゃないのかと。

いや、そこが俺の勘違いなのだと後でわかりました。映画で描かれていたのはすでに死んだ「ゾンビ」なんです。噛まれたらすぐに感染して死んでしまい、その結果としてすぐにゾンビになるということらしいのです。だから「病人(感染者)」という状態の人間は存在しません。

ゾンビは動き回わりはしますが、あくまでも「死体」なので、問答無用に殺しても(死んだ人間を「殺す」という表現は変ですが)罪悪感は生まれないということになります。

「ゾンビ」にあまりにもフォーカスを当て過ぎるとこの映画の良さを見誤るかもしれないし、だから「ゾンビ映画」と呼ぶのは間違っているのかもしれません。

謎のウィルスが突然世界に蔓延し、パニックに陥る「パンデミック・パニック映画」と捉えれば、ブラピが出演したことも腑に落ちるというか、ブラピ自身はこの映画にほれ込んでいたようだし。

【ここからは少しネタバレ】

ブラピ演じる主人公は、元国連捜査官で、韓国やイスラエルでウイルスの正体を調査します。でも、正体はわからずじまいで、人間とゾンビの戦いが続いていくようなのです。

とりあえず有効なのが、ある「病気」になると、ウイルスの宿主として役に立たなくなって、ゾンビから襲われなくなるという応急処置が発見されたのでした。

つまり、この映画の続編が作られるということを暗示しているのでしょう。


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2015/01/23

「自己責任論」は政府に都合が良いことに加え、自分がテロには遭わないという安心感を得る

150123

先日も触れましたが、「自己責任論」を主張する人たちは、自分たちはテロにはまったく関係ないという部外者意識を感じます。当事者感が薄いのです。

「自分はそういう危険なところへは行かない、だから、テロには遭わない。テロに遭うようなところに行くのが悪い。その責任は本人にある」ということでしょうか。

「個人に責任がある」と言いたがるのは、「自分は彼らとは違うんだ」と思い込むことで、自分がテロに遭う不安を和らげてくれるからかもしれません。

でも、もうそういう状況ではありません。どこにいても日本人がテロに遭う、人質になる可能性はあるということなのです。日本にいたら大丈夫だという保障はありません。

なるべく危険な場所には近づかないというのが身を守る術ではあると思うので、彼らにまったく責任がないと言っているわけではありませんが。

ただ後藤さんは悔しいのではないでしょうか? 当然すべては「自己責任」でイスラム国へ行ったのでしょうが(残されたビデオメッセージからも彼の決意を感じます)、自分が人質になってしまったことで、日本人に申し訳ないと思っているのではないかなと。

そもそも「イスラム国」はまともな集団ではないということを忘れてはいけないでしょう。「イスラム」という名前もはずして呼ぶべきかもしれません。単なる過激思想集団、犯罪集団、カルト集団なのです。

「自己責任論」には、「そこにさえ近づかなければいい」といった消極的なニュアンスも感じますね。

じゃぁ、「自己責任だ」といって、日本人ふたりを切り捨てて、それで何か安全になりますか? なりません。テロの脅威は続くのです。

批判するなら日本人じゃなくて、まずイスラム国でしょう?

昔もありましたね、自己責任論が。偶然なのでしょうか? 政府側が責任を回避するためなのか、どうか。少なくとも「自己責任論」が盛り上がることは政府にとっては都合がいいとは言えるのではないでしょうか。(断っておきますが、「首相責任論」というのも俺は違うと思っています。あくまでも相手は犯罪集団)

2004年、イラクでの高遠さんたちの人質事件が起こったときです。すごかったですよね。人質になった本人たちと家族へのバッシング。命が助かったのに、同じ日本人から批判されるという異常さは海外でもニュースになったほどでした。

日本人も日本政府も「自己責任論」が好きなのかもしれません。「彼らは特別なんです。あなた方は安心していいですよ」と言いたい、思い込みたいからなのかもしれません。

「自己責任論」で大騒ぎするのは日本独特の現象、そしてそのルーツが10年前の人質事件にあったようだということ。こちらが参考になります。

NAVERまとめ 「自己責任」って騒ぐのは日本人だけなのか調べてみた

日本人は「お上の言うことを聞け」という体質(お上も下々の人も)があるようです。やっぱりみんな横並びで大人しく生きるのが日本人の特徴とは言われますが、この「自己責任論」もまったくこの特徴のひとつの表れと言ってもいいようです。

これは当時書いた記事です。
イラクでの高遠さんたちの人質事件に対する「自己責任論」(2004年4月25日)

 
 
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東北の咲【わら】う桜 (30) 福島県飯舘村 いいたてスポーツ公園他の桜

130211_1(いいたてスポーツ公園 ↑:2011年4月30日  ↓:2012年5月3日)

130211_2(飯舘村 2011年4月30日)

130211_3(大雷神社 2011年4月30日)

130211_4(2012年5月3日)

130211_5(2012年5月3日)

130425_1(2013年4月25日)

130425_5(2013年4月25日)

130425_2_2(2013年4月25日)

130425_3(2013年4月25日)

130425_5(2013年4月25日)
 
 
 
 

より大きな地図で 東北の咲う桜 を表示
 
 
東北の咲う桜 プロジェクトのページ
「東北の咲【わら】う桜」
 
 
 
 
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2015/01/21

予想されていたはずの、イスラム国による日本人人質殺害予告

150122

とうとう起こってしまいました。いや、誰もが予想していたことです。時間の問題でした。

政府は、日本人の心情を考え「イスラム国と一切交渉しない」とは断言できないでしょうが、腹は決まっているのではないでしょうか。

そもそも湯川遥菜氏がイスラム国に捕まった時点で、こういうことが起きるのは予想できたし、だから政府もちゃんと対策は考えていて、粛々と実行に移しているだけではないでしょうか。仮にそうじゃないとすると、日本の危機管理は甘いといわざるをえません。

ジャーナリストの後藤健二氏については仕事でもあるし、しかたないですが、これだけ危ないとさんざん言われているところに行った湯川氏はどうなんでしょうか。いくら自分では「自己責任」で行くと言っても、こうなってしまっては、「自己責任」では済みません。それくらいは当然本人も自覚していたと思いますが。

一人の行動が日本全体を危うくしていると見えなくもない。少なくとも本人の意志とは関係ないとは言っても、結果的に「イスラム国の宣伝」に貢献しているのは事実です。

とは言え、彼らを個人的にバッシングしても、何も変わりません。「自己責任論」で、「彼らが悪いんだ」と、個人に全責任を負わせることは、ある部分を見えなくさせてしまう恐れがあります。「自己責任論」を主張する人たちには、自分たちはテロにはまったく関係ないという部外者感を覚えます。それと批判するなら日本人じゃなくて、まずイスラム国の方でしょう。 

目の前に人質になってしまった日本人がいれば、あらゆる手段で助ける努力をするのは当然のことです。いつ自分の番になるかわからないのです。

もう、イスラム国に行かなくても、日本人がどこかで人質になる可能性はある世の中だと覚悟しなければならないでしょう。中東にはどれだけの日本人が働いているかを考えても、彼らが人質になるリスクは高まってると思います。中東以外でも可能性はあります。

それはもう個人の問題というより、日本人が選択した欧米とともに歩む決断をした日本の方向性の問題です。大きな流れの中に俺たちは入ってしまったということを感じます。「彼らが個人的に悪いんだ」といった「自己責任論」は、自分がテロに遭う怖さを和らげる効果はあるとしてもです。

だから俺たちも、対岸の火事として傍観しているのではなく、「日本でもテロは起こる」と、腹をくくる時期に来たのです。今回の事件はそれを日本人に意識化させました。

ところで、安部首相の表明した2億ドル支援が、人道目的であろうがなかろうが、関係ないと思います。「ちゃんと説明すればわかってもらえる」などと考えても意味がありません。

イスラム国はまともな集団ではないのです。そんな理屈は鼻から通じない過激なカルト集団・犯罪集団なのだということ、そういったやっかいな集団と対決していかなくてはならないということです。
 
 
 
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2015/01/20

今日は二十四節気「大寒」、旧暦十二月一日

150120_1(ヴァンビエン)

150120_2(ヴァンビエン)

150120_4(ヴィエンチャン)

150120_5(ルアンパバーン)

150120_6(ヴィエンチャン)


今日から、ようやく今年最後の一ヶ月(師走)に入りました。旧暦十二月一日です。

そして二十四節気は「大寒」です。見るからに寒そうな節気。実際毎日寒いです。

大寒の期間の七十二候:

 初候: 款冬華(ふきのはな さく)

 次候: 水沢腹堅(さわみず こおりつめる)

 末候: 鶏始乳(にわとり はじめて とやにつく)


去年はタイとラオスにいたなぁ。暖かかったなぁ。

今年は用事があって出かけられません。なので、去年を思い出して、ラオスの写真をアップしておきます。
 
 
 
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2015/01/19

「つまようじ犯罪風ショートフィルム」に振り回された大人たち

150119(この写真のどこが変なのか?)

大人と子供の感覚の違いが露呈したような「つまようじ犯罪風ショートフィルム」をYouTubeに動画投稿した事件。

「表現」と「犯罪」の境目があいまいだということがあらためて知らされた事件です。

こういう「表現」は、一言「フィクションです」とか「演出です」と、どこかに表示しておけば、「犯罪」ではなく「表現」になるわけです。巷にあふれる映画、ドラマ、小説ともに、「犯罪」を「表現」として日常的に俺たちは楽しんでいるわけだし。

もちろん今回少年が問われる「建造物侵入」とか「業務妨害」の部分に関しては間違いなく「犯罪」に違いないのですが。

こういう「表現」が影響力を持ってしまうのが、良くも悪くも「今の時代」を象徴しているのだと思います。技術や環境が、こういう「表現」を可能にしたので、そういう意味でネット社会と関係はあるでしょうが、ただ「犯罪」を「表現」する人間は昔からいました。「こころ」の問題としては古典的と言ってもいいのではないでしょうか。

少年にとっては「遊び」にすぎないのでしょう。大人の頭には「グリコ森永事件」など深刻な事態を想像してしまったということはあったのかもしれません。

いや、笑えないのは、マスコミもこの「遊び」に踊らされてショートフィルムのPRに貢献してしまったこと。これが影響が大きくなった一番の原因かなと思います。マスコミは少年の「遊び」にまんまと乗せられてしまいました。

動画を無視することが、少年に対する「報酬」を与えないという大事なポイントであったはずですが、少年が理想とする形の「報酬」を与えてしまいました。もっともあれを「表現」だと見抜ける人はいなかったと思いますが。俺もまんまと騙されたくちです。

劇場型犯罪は、もっともらしい動機が語られることが多いような気がしますが(今回は少年法改正を訴える)、だから、それを真面目に聞く必要はまったくない、それどころか無視すべきでしょう。

でないと、少年はますます「報酬」を得て、勘違い人間になってしまいますよ。「自分は世の中を変えられる」と。これを阻止しないと、少年もそうだし社会が不幸になるだけです。
 
 
 
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2015/01/17

「Asian Dogs アジアの犬」の写真ギャラリー

150117(広西チワン族自治区龍勝県 龍脊の棚田の犬)

「Asian Dogs アジアの犬」の写真ギャラリーです。

これまでブログにアップしてきた、中国広西チワン族自治区、貴州省、ネパール、インドネシア、ラオス、タイ、スリランカのわんこの写真をまとめたページです。半分は「飼い犬」、半分は「地域犬」です。

並べてみると、国ごとに風景も違うし、犬の姿もそれぞれ特徴が感じられます。

「Asian Dogs アジアの犬」(facebook)

 
 
 
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2015/01/16

夢の覚え方にも「コツというか、ある種のレシピのようなものがあります」

150113

夢日記をつけるようになって3か月ほどになります。

夢を見ていたことは覚えているものの、どういった内容か忘れてしまう日も多く、なかなか夢を覚えておくのも難しいなぁと思う今日このごろ。

覚えておくのに一番いいのは、枕元にノートを置いておいて、目覚めてすぐメモすること。でも、これをやり始めると、以前の失敗(熟睡できなくなる)と同じことを繰り返しそうなのでやりませんが。

それで夢の内容をいったん言葉にしてつぶやくことにしました。そうするとじゃっかん覚えやすくなるようです。たぶん無意識からのメッセージであるイメージそのままで覚えておくというのは難しく、言葉にすることで、意識の世界に取り込めるのだろうと、勝手に解釈しています。

ところで、夢の記録を使って、面白い論文を書いた人がいます。

まだはっきりとはわかりませんが、俺が夢の記録をしているのは、「原風景」、「棚田」、「田園風景」といったものがどうして人間を癒すのかを知りたいというのがあります(そればかりではありませんが)。この人の研究が参考になるのでは?と漠然と感じました。

自然と無意識の関係を研究した心理学論文なのですが、自然に触れ合うことで、自分の夢の内容がどういうふうに変化していったかというものです。

ここで意外というか、面白いなぁと思ったのは、自然に親しめば親しむほど、夢に自然に関するものが少なくなっていったことです。この結果はこの人も予想外だったようです。

どうして自然に親しむと、夢に自然が出てこなくなるのか、この人なりの考察も納得できるもので、つまり、自然に親しむことで、外の自然が自分の内側の自然になることで、ことさら外の自然に関心を寄せる必要がなくなったのではないか、というものでした。

なるほど、と思います。

足りないものは増やそうとするし、多いものは減らそうとするという、夢の補償作用を考えても理屈に合うし、たぶんそうなんだろうと思います。

と、いうことは、夢で自然のことばかり見ているうちは、まだ自然に親しんでいないということでもあります。

最近の俺の夢の傾向としては、「外国」「壁」「旅」「舞台」というキーワードが多いような気がします。「外国」「旅」は最近外国旅行をしてないからだろうと思います。

風景にはとうぜん田園風景も出てくるのですが、意外にも「棚田」は出てきません。この3か月皆無です。下に書いた今日の夢も「大平原」であり「畑」です。

と、いうことはもしかしたら、俺にとってはもうすでに俺内部に「棚田」を持っているからなのかもしれません。「棚田病」を自認しているくらいだから当然そういうこともあるでしょう。

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【夢日記 ロシアの国境を越える】

そこは国境だった。狭い未舗装道路を下り、トラック数台の脇を抜けてたどり着いたところは、うっすらと靄が漂う広大な畑だった。インドか南ネパールの大平原のようにも見える。少し寒そうに毛布を頭からかぶった人たちが、畑に点在して立っていた。俺は、ここはどこですか?と手前にいた女性に聞いた。女性は、ロシアですよ、と答えた。そうか国境はもう越えたのか。俺はヴィザが欲しいんだがどこへ行けばいいのか?と聞いたら、向こうの建物を指さした。俺は建物を目指したが、どの道を通ればいいのかわからない。建物はなかなか見つからなかった。スペイン人ツーリストのカップルと出会ったのでヴィザのことを聞いたら、すでにヴィザは取ったという。

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2015/01/15

面白くないユーモアの原因を相手のせいにする

150115(PARIS, FRANCE 1980)

言論・表現の自由を掲げ、フランスでのテロし対して大規模なデモが行われました。フランス人が何を大切にしているかわかったデモにもなりました。

ただ日本人的な感覚からすると、ちょっと違和感もあります。言論・表現の自由は守らなければならないとすれば、その結果に対する責任も負わなければならないでしょう。当然こういう結果も予想されていたはずで、一般市民を巻き込んだ出版社の責任も重いのではないでしょうか。

イスラム最高権威、仏紙風刺画を批判 「憎悪かき立てる」
(Yahoo NEWS http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150114-00000003-jij_afp-int参照)

何でも言っていい、何でも描いていい、というのは傲慢な感じがします。しかもユーモアを強制されても笑えないです。

去年の秋、フランス週刊紙「カナール・アンシェネ」が2020年の五輪開催地に選ばれたことを風刺する漫画を掲載し、日本が抗議したというニュースがありました。

その反論は、「ユーモアを表現しているからといって、被災者の皆さんを侮辱していることにはならない。ここ(フランス)では、悲劇に対してはユーモアを持って立ち向かうものだが、どうやら日本ではそうではないようだ」というものでした。「日本人はユーモアがない」と非難しているわけですね。

これは日本人として不快な表現ですが、まぁ「表現の自由」として認めるとしても、何よりユーモアを強制するのはどうかと思いますよ。

子供のころ、ウケなかったとき「おまえ、ユーモアわかんないやつだなぁ」と言って、面白くないユーモアの原因を相手のせいにしていたのを思い出します。

言論・表現の自由といいますが、これが真理かどうかはわかりません。これもひとつの価値観であることは間違いないでしょうが。自分の価値観を押し通そうとすることは、テロリスト側と同じ理屈であることに気がついているのでしょうか。
 
 
 
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2015/01/14

コリアンダー(パクチー)への好みは嗅覚の遺伝子が決め手?

130622(プランターで栽培中のパクチー)

150114(パクチー等の香菜を入れて食べるラオスの米麵)

だいぶ前のことになりますが、薬学博士の池谷裕二氏のツイッターに、

「コリアンダー(香菜・パクチー)への好みは遺伝である程度決まっているそうです。この論文→ goo.gl/Q7Jc4I (味覚でなく嗅覚の遺伝子が決め手だったのが意外といえば意外です。確かに噛むとカメムシっぽい香がしますよね。私があの臭さが堪らなく好きです) 」

とあって興味が出て、その論文を見てみました。

なぜこの記事に反応したのかというと、以前、パクチー(コリアンダー)は、「高収入者に好きな傾向がある」という説を読んだことがあったからです。

そんな馬鹿な、とその時思いました。「収入」というより「食べる機会の多少」が関係しているのではないかと思ったのでした。俺もそうだし、俺の周りの人にもパクチー好きが多いですが、みんな低所得者だし。当てはまらないなぁと思っていました。

でもこれはDNAレベルの話だったんですね。

嗅覚受容体遺伝子の近くに遺伝子変異体は、コリアンダーの好みに影響」という研究。
「これらの結果は、コリアンダーの味覚に遺伝的要素があることを確認し、コリアンダーの嫌悪が嗅覚受容体における遺伝的変異から生じることを示唆している。 私たちは、嗅覚受容体遺伝子のクラスターの1、多分OR6A2は 、ヨーロッパの集団でコリアンダーから石鹸臭いの検出に貢献する嗅覚受容体であり得ることを提案する。」

google自動翻訳なので、変な日本語ですが、内容はだいたいわかります。

コリアンダーの香り(匂い)が「石鹸臭」と表現されていますが、つまりこういうことですか?

「嫌いな人は、石鹸臭がするようになる嗅覚受容体を持っているので、食べると石鹸臭がしている」と解釈できそうです。

もしそうなら、俺はパクチー好きなので、嫌いな人とは別な香りを感じているということになるのでしょう。

それでようやく、嫌いな人たちの異常なまでの嫌い方がわかったような気がします。もともと、パクチーには「石鹸臭」を感じてしまっているわけですからね。これを「おいしい」と感じるわけがないんです。人によって好き嫌いがはっきり分かれるのもわかります。

パクチーの和名は「カメムシソウ」ですが、嫌いだと言っていた知人がよく「カメムシの臭いがする」と言っていたのを思い出します。大げさだなぁと思っていたのですが、その人にとっては、「カメムシの臭い」そのままだったわけですね。疑って申し訳ありませんでした。

これってけっこう刺激的な内容ですね。同じ食品を食べても「同じ香り」を感じていないということであれば。パクチー以外の食品でもそういうことがあるんじゃないかと思ってしまいます。

今までも「こんなにおいしいのに、どうして嫌いなの?」という場面に出くわすことがありましたが、意外と問題はここだったりして。

これは衝撃的は話だと思うのですが、そんなふうに思うのは俺だけでしょうか? けっきょく人の感覚は人それぞれだという単純な話でもあるかもしれませんが。
 
 
 
またパクチー栽培に挑戦しました。

1週間で出てきたパクチー(コリアンダー)の葉っぱ(2015/07/18)

 
 
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2015/01/12

手が4本ある生き物。「犬が見ている人の姿」の想像図

150112

今まで読んだ犬や心理学の本を参考にして「犬が見ている人の姿」の想像図を描いてみました。あくまでも「想像図」ですが、犬にならない限り実際はわかりません。ひとつ参考になるのは子供の絵ですが、子供は人間の頭と足だけの「頭足人」を描くそうです。関心のある部分だけ描くのでしょうね。

犬が見ている色覚は2色型。70cm以内のものはピントがぼけるようです。

形については、人の脳は物を見るとき全体を優先する「全体優先処理」をするそうで、それに比べて、犬は、全体よりは細部にこだわっているらしい。だから人を、俺たちが認識しているようないわゆる「人の形」には見ていない可能性がありそうです。

犬は飼い主の顔は覚えています。ただどこを見て覚えているのかはまだ研究段階のようです。だからこれはあくまでも俺の想像なんですが、ヴィーノを注意して見ていると、俺や妻の目をちょくちょく見ているのがわかります。だから目には一番関心がありそうです。それと声を出すとき動く口もわかるのではないでしょうか。

鼻や耳は見えてない(関心が無い)かもしれません。(人の「嗅覚も聴覚も、犬にしたら取るに足らない能力だろうし)

それと人が犬と接するときは、手を使うので、犬にとって人の手は、かなり大きな関心事ではないかと思います。だから手は一番大きく感じるのではないでしょうか。子供の絵も(古代の絵も)、線遠近法は無視され、関心が高いものは大きく描かれます。つまり大きく見えているから、といってもいいのではないでしょうか。

手と足の区別はつかなく、「4本の手」、「4本の突起物」に見えているかもしれません。

俺はヴィーノを「足でなでる」ことがあります。(蹴っているのではないし、きれいな足のときだけですが) 妻は当然嫌がるのですが、俺はヴィーノにとって足と手は「4本の突起物」でどれも同じと感じていると思っているので、決して失礼なこと、かわいそうなことをしているつもりはありません。むしろ犬の気持ちに寄り添いたいし、「犬の常識」を知りたいので、あえてこういうことも試してみます。

「足でなでる」のが「行儀が悪い」「可愛そう」と思うのは、あくまでも人の常識、感覚で、しかも、「足を使う」ことに関しては、生物学的にはもちろん、文化的な感覚の方が大きいのではないかと思っています。足は地面に着くから「不浄」という文化的感覚です。

たとえば、サルの場合を考えてみるとよくわかるのですが、サルが器用に足でバナナを掴んだりしますよね。それをたとえば他のサルに渡そうとしたとします。そしたら渡されたサルは「足を使ったから失礼だ」とは考えないでしょう?

つまり俺の結論はこうです。人は二足歩行になって、足先が器用に使えなくなってしまったことで、「足」と「手」の機能が大きく分かれてしまったのではないか、ということです。だから「手」と「足」を特別違ったものと感じるようになった動物ではないかなと。

言い訳する必要はないかもしれませんが、俺が「足でなでる」のは「犬の常識」「犬の本当の気持ち」「犬の見ている世界」が知りたいからなのです。
 
 
 
 
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2015/01/11

食品異物混入の「情報」と「感情」が完璧にコピーされて伝わること

150111

異物混入事件が増えています。いや、むしろ昔に比べたら、管理もしっかりされて少なくなっているのではないでしょうか。

多くなったように錯覚するのは、ネット社会になって、「情報」と「感情」がすぐネットで拡散するからです。しかもその「情報」も「感情」も、完璧にコピーされたものです。

昔は、もし異物が出たら、店と当人の話し合いで、菓子折りなんかもらって終わり、ということでした。

実際俺も、スーパーで買った紙パックの飲み物に、カビの塊のようなものが入っていたのでよく見たらパックの角に穴が開いていたことがあって、店にもっていったことがあります。そのときも菓子折りで終わりでした。

この話を友達にしたかもしれませんが、その友達がさらに別の友達に伝えるなんていうことはなかったと思います。「情報」と「感情」は自然消滅してしまったのです。

こんなふうに、異物混入のトラブルも、昔なら、口コミで広がる以外にはなく、人から人へ遠方へ伝わるにつれて、情報の内容もあやふやになるし、感情は薄められて、そのうち消えてしまったのです。

そもそも体によほど害になるものでなければ、いちいちクレームなんかつけませんでした。

ところがデジタル社会では、オリジナルの「情報」と「感情」が完璧にコピーされて伝わるわけで、どんなに離れていようと、時間が経とうと、その生々しさと怒りは残ってしまいます。薄まっていかないのです。

ネットでは異物混入の話題で、まるで自分のことのように怒っている人たちに、「あなたの周りにそういうトラブルに遭った人がいるんですか?」と聞いたら、ほぼゼロではないでしょうか。遠方の誰だかわからない人の情報で怒っているわけです。

異物混入は食品会社にあってはならないことだし、原因を突き止め、ゼロにする努力はしてもらわなければなりませんが、完璧になくすのは不可能です。

だったら、俺たちはどうすればいいんでしょうか。

まず冷静になるしかないでしょう。過剰反応することで、日本全国すべての食品が危ないようなイメージを作るのは迷惑な話です。

安心して、おいしく食べられなくなるのはそのイメージを作ってしまうからです。そのことは、異物混入以上に不幸なこと。自分で自分の首を絞めるようなことはバカらしいことです。

「話題」になるからといって、そういうことをネットで公開したり、マスコミに知らせるのは、自分では「いいこと」「正義」をしているつもりなんでしょうが、迷惑な部分もあります。店なり企業なりと個人的にやり取りすればすむ話なんだから。

まぁ、そのうち異物探しも飽きてしまうでしょうが。いつものことです。

ただ、発見されるケースが多くなり、公になるのもネット社会だからで、企業、店側に緊張感が生まれ、再発防止に役立つという側面があることは俺も認めます。
 
 
 
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2015/01/09

チャールズ・スコットさん家族のトークショー『スコット親子、日本を駆ける: 父と息子の自転車縦断4000キロ』

150109_2(ショウ君、チャールズさん、チャールズさんの奥さん、右端には冒険で使われた同じ型の自転車)

チャールズ・スコットさんのトークショーが紀伊國屋書店新宿南店で行われました。

この本は、日本列島縦断の冒険譚ですが、父と子の関わり合いが大きなテーマとして流れています。そして面白いのは、同じものを見ても、同じことを体験しても、ふたりの見方、感じ方が違っていて、そのちぐはぐさが妙にリアリティがあるのです。たとえば、本の帯に書かれたエピソードがこれです。

「北海道の人は、世界で一番親切だと思う」 ショウが言った。ぼくは、人々の寛大さは、客を大切にする日本文化とも関連があるが、なかでも厳しい自然のなかで暮らす北海道では、困っている人を助けることが社会全体にとってとても重要なことなのかもしれないという自説を展開した。ショウが言った。「違うよ、パパ。みんなが親切なのは、ぼくがすごく可愛いからだよ!」(翻訳:児島修氏)

子供は子供なりに世界を見ているし、それが大人よりも「劣っている」などということはまったくないんだ、むしろ子供らしい見方、感じ方に大人側がハッとさせられます。ショウ君のセリフが効いていて、クスッと笑ってしまいます。「ショウ君語録」ですね。それを楽しんでいるチャールズさんの姿も伝わってきます。

旅を通じてショウ君が成長していく姿を愛情を持って見守る素敵な父親のチャールズさん。紀伊國屋書店HPの紹介文には「親向けシティガイドの「レッド・トライサイクル」は、彼を「ニューヨークで最もカッコいいお父さんの1人」と呼ぶ。」とあります。たしかにそうですね。

チャールズさんがショウ君と冒険旅行することにしたのは「自分が息子に残せるものは何だろう?」と考えた結果でもあったようです。

旅のゴール、鹿児島県の佐多岬でチャールズさんがショウ君に言うセリフがまたいいんです。

「この本はショウのために書くんだ。それはパパがショウのことをどれだけ愛しているかを説明する長い手紙みたいなものさ」

この本はふたりで作り上げた冒険の大切な記録であり、ショウ君に対する贈り物でもあるんですね。

それとこの本が、日本人のある特徴をあぶりだす「日本人論」にもなっている点が面白いと思います。

各地でいろんな人からショウ君の冒険について、大丈夫か?とか、危険では?とか、無理なんじゃないか?と言われ続けるのです。

こういうことを日本人が一番気にするということは、つまり危険なことは子供にはやらせない、冒険させないことの裏返しでもあるのでしょう。もしかしたら、同じ冒険旅行を日本人親子がやったら、大バッシングを受けてしまうのかもしれません。

「冒険しない日本人」に対しての強烈な皮肉とも取れます。「安全」だけが突出して優先される最近の風潮については、俺も疑問を持っているところなので、チャールズさんのいら立ちはわかるつもりです。

もちろんチャールズさんはそれを声高に叫んで日本人を批判しているわけではない、ということも、誤解がないようにちゃんと断っておきたいと思いますが。それと事前に日本の道路事情を研究したり、自転車の修理を学んだり、体力を付けたり、キャンプするときは地元の人に「熊出没情報」を聞くなど、危険を回避するありとあらゆる努力をしているというところを見逃してはいけないでしょう。

子供は親が思っている以上にいろんなことができるし考えることができる、それを信じてやり、環境を整えてあげるのが親の勤めであるとチャールズさんは親の側に言いたいのではないかなぁと思います。

チャールズさんとはトークショーの3日前にも妻と3人で渋谷で会いましたが、ショウ君とは久しぶりです。当時8歳だったショウ君も今や13歳。だいぶ背も高くなり大人っぽくなっていました。

ショウ君に質問してみました。5年前の冒険旅行はどうだった?と。

「面白かったし、精神的に強くなって、簡単には諦めなくなったと思う。今やっているサッカーにも役立っています」とのこと。
 
 
 
ところで、渋谷で会ったとき、いろんな話をしましたが、驚いたのはチャールズさんの口から心理学者S.フロイトとC.G.ユングの名前が出たことです。

彼らは、ファミリー冒険家として、「ナショナル・ジオグラフィック」にも載るほどの有名な家族ですが、いろんなところで講演をしているそうです。そのとき、チャールズさんは、参加者たちに「あなたの本当にやりたいことは何ですか?」と聞くそうです。

常識やら世間体やらにこり固まった表側の「顔」の裏側に潜む本当の気持ち、内なる声を意識させることで、「本当にやりたいことがあるならやってみてください」と、ちょっとだけ後押ししているのです。

実際、会社のCEOなどビジネスマンの鎧をまとった人でも、講演が終わったあとこっそり「実は〇〇がしたいんです」と打ち明ける人もいるそうです。

チャールズさん自身、インテルに務めていたとき、自分の中で「何かが違う」という内なる声がして、その声に押されるように冒険家になったということでもあったようです。自分の体験からのアドバイスなんですね。

これはユングがフロイトと決別し、6年間ほど方向を見失ったとき、無意識と向き合い、内なる声を聞き、無意識に身をゆだねることで「新しい私」に変わっていく過程と共通するところがあると感じたし、講演で行っていることは、参加者の無意識に眠っている本当の気持ちを意識させることなんじゃないかなと思ったので、「チャールズさんは、ある意味セラピストですよね」と言ったら、チャールズさんはそれを意識しているようで、ここでユングの名前が出てきたのです。

妻が言うには、俺とチャールズさんは似ているというのですが、北海道からのフェリーで会ったときジョン・スタインベック著『チャーリーとの旅』の中の、歳を取って落ち着くかと思いきや、そんなことはなく、旅人はいつまでたっても旅人だ、年齢なんて関係ないという言葉に、お互い共感していました。今回ユングの話まで出てきて、ますます共感したのでした。

そして俺はチャールズさんから確実にエネルギーをもらいました。

冒険家の一番の仕事は、冒険家自身のエネルギーを、出会った人々に伝染させることかもしれません。それはたぶん、芸術家も同じなんだろうなと思いました。
 
 
150110


なお、原書(英語版)はこちらです。こちらの方にも、俺、妻、ヴィーノの話が載っています。

日本一周車旅の途中、チャールズさんと息子のショウ君ふたりに出会った話は、こちらに書いています。
 
 
 
 
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2015/01/07

夢日記 『月柱』 のショートムービーをYouTubeにアップ

夢で見たようなイメージをショートムービーにしてみました。

「女性」の象徴である「月」。月光が海面との反射で作るのが「月柱」です。「月柱」については、こちらで。

異界の魔物(仮面)と交合する「月柱」を表現してみました。
 
 
 
 
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2015/01/05

埼玉県こども動物自然公園のカピバラの温泉入浴ショー

150105_1(コアラ)

150105_2(考えるカンガルー)

150105_3(オウギバト)

150105_4(カピバラの温泉入浴ショー)


埼玉県こども動物自然公園へ行ってみました。

http://www.parks.or.jp/sczoo/

意外とと言っては失礼ですが、大人も楽しめる動物園でした。

ホルスタインの搾乳体験は柔らかいおちんちんを絞っている感じで面白かったし、人気のカピバラの温泉入浴ショーは大盛況でした。打たせ湯をやるカピバラもいます。カンガルーには触ることもできます。

この動物園には、トラやライオンなどの猛獣はいませんが、「触れ合える」というところに特化した動物園らしく、そこが良さだと思いました。

ところでオウギバトは、ニューギニア島北部と周辺の島々に棲んでいる大型のハトだそうです。高貴で繊細な頭飾り。個人的には、この動物園で一番美しいと思った動物です。

 
 
 
 
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2015/01/04

2015年の「初夢」は、「イラクの旅で瀕死のヴィーノが助かる」

150104

正月早々やってしまいました。ストーブのタンクから石油をあふれさせイラン製の絨毯を石油まみれにしてしまい、ヴィーノも初めて布団の上でおしっこしてしまい、翌朝は、玄関わきの花瓶を倒して廊下を水浸しにもしました。

こういうとき、「ボタンの掛け違い」ほどでもないのですが、何か微妙なことが以前とは違っていて、自分の行動がそこからちょっとだけずれている感じがします。いつもは何事もない庭で、突然小石に躓くような違和感ですね。その違いが行動をぎこちなくしてしまってトラブルを起こしているんじゃないかなと。

ただ俺はそこに悪い意味だけを感じているわけでもありません。自分の中で何かが変わっているからこそ、以前とは違う行動をするのだろうし、それがいい方向に変わっていったら面白いかなと感じています。

2015年の初夢はイラクを旅する夢でした。「旅」は「人生」の象徴でしょうし、動かなくなった「ヴィーノ」は俺の「こころ」なのかもしれません。ヴィーノは心臓マッサージで復活します。俺の「こころ」も復活する希望のある夢だと解釈しましたが、楽天的過ぎるでしょうか。

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リアカーを引いて、犬(ヴィーノ)連れでイラクを旅をしていた。

「Q」の付く名前の埃っぽい町に到着した。誰かに道を聞こうと、あるビルへ入った。廊下を進んでいくと、階段に突き当たってしまった。これではリアカーは進めない。どうしようと思っていたら、ここでゲストハウスを経営する日本人が現れた。別な通路を教えてくれて、ようやくビルの外へ出ることができた。

この旅も目的地に着いたら終わってしまう。なんとなく名残惜しくなって、もう一度同じルートの一部を歩いてみようかという気になった。

そういえば、ヴィーノがいないと気がついた。どこへ行ったんだ? 向こうから女の人が来てバス停で立ち止まって俺の方に何か叫んだ。俺は悪い予感がして急いで行ってみたら、椅子の上、新聞紙に包まれたヴィーノが横たわっていた。「ヴィーノ! ヴィーノ!」と叫んだ。

ヴィーノの体が椅子から地面に落ちた。俺は急いで心臓マッサージを始めた。ちょっとだけ動いた。助かるだろうと俺は望みを持った。

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2015/01/03

タイムスクープハンタースペシャル「お正月パニック!改暦大騒動」

Edoreki02( 江戸暦画像提供: 旧暦・和のこよみ http://koyomi.wafusozai.com/

昨日「タイムスクープハンタースペシャル」で、明治6年の改暦騒動をやっていました。天保暦(旧暦)からグレゴリオ暦(新暦)へ変わった日です。

新暦を採用するのは日本が西洋にならい、近代化するには必要だったのかもしれません。でも、改暦にはもうひとつ、政府の財政事情があった話は『旧暦棚田ごよみ』を作るとき調べていたので知っていました。

明治時代になってから役人の給料は年俸制から月給制に変わりましたが、明治6年は閏月が入った13か月の予定。12月に「翌年」にしてしまったので、政府は12月分の給料と、翌年の「閏月」の分、合計2か月分の給料を払わなくてよくなったということです。

新暦についての解説書、福沢諭吉の書いた『改暦辨』がベストセラーになったことも。

外国の新聞にも日本の改暦についてのニュースが掲載されていて、人々は突然の改暦で混乱しているが、楽しんでいるようだと書かれていたようです。

それと「おばけ暦」という作者不明の暦が出回ったらしい。当局の許可ない暦は違法です。でも人気があったらしい。

というのも、政府の発行した新暦には「暦注」がかかれていなかったからです。科学的ではないという理由で、迷信や占いなどの「暦注」がなかった。庶民の不満は高かったんですね。

改暦に乗じて一儲けしようとする「おばけ暦」の製作業者たち。なかなか面白い話でした。
 
 
 
 
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2015/01/02

新年快楽、恭喜発財 。ヴィーノの犬舞

Mg_5181

新年快楽。恭喜発財 。

今年、皆さんに幸福が授かりますように、ヴィーノの獅子舞ならぬ、犬舞をお届けします。

100均で買ったプラスチックの絵をくり抜いて獅子の代わりにヴィーノに顔を出してもらいました。
 
 
 
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2015/01/01

明けましておめでとうございます。2015年年賀状は「ハビテスタ」の絵

150101(空想上のヒツジ「HABITESTA ハビテスタ」)

2015年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

去年までは旧暦で年賀状を出していたので、新暦の元旦に「おめでとうございます」が言えなくて正直苦しかったですね。

でも今年は新暦で年賀状を出しました。まぁそれほど深い意味はありませんが。
 
ところで、上に掲載の絵は翼を持った「ハビテスタ」という名前の架空の(俺の夢に出てきた)ヒツジのような動物です。

夜飛び回る魔物でもあります。ハビテスタから襲われた人間は、口、目、鼻などに分解されてしまいます。

分解された部分を自分の中で再統合して、まともな「顔」に戻すのが今年の目標です。

 
 
 
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