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2015/02/27

『秩父学への招待』をラジオで聴いて

150227_0(江戸巡礼古道)

150227_2(清雲寺のしだれ桜)

150227_3(札所一番 四萬部寺)

150227_4(札所三十二番 法性寺)

武蔵大学名誉教授の黒澤英典氏の『秩父学への招待』という話を、昨日ラジオで聴きました。黒澤先生は、地元、秩父生れなんですね。

『やさしいみんなの秩父学』(さきたま出版会)という本が出ていて、俺も雑誌で『秩父桃源』という写真・文章を連載したときは、参考文献(というよりも必需品)としてこれを買って勉強しました。「ちちぶ学検定公式テキスト」にもなっています。

平成10年4月23日には、ついに、日本三大峠のひとつで、難所といわれた雁坂峠にもトンネルが開通し、山梨県とは楽に往来ができるようになりましたが、それまでは、東京の方から行くと、山の中のどん詰まりといったイメージで、「秘境」でもあったのです。

でも、そのイメージは、ここ最近のことで、昔は山梨県、長野県、群馬県とも交流があって、別に「どん詰まり」ではなかったということをこの本で知りました。養蚕業が盛んなときはとくに。今でも当時の「秩父往還」の痕跡はところどころで見ることができます。

また、秩父札所の起こりは1234年3月ですが、江戸時代、秩父札所巡りがブームになりました。全行程は90~100kmになり、江戸から出発すると10日間ほどの旅程だったそうで、比較的短時間で巡礼ができること、関所、大河、高山がないこと、風光明媚で鉱泉宿があるなどの理由が人気を支えました。

札所の34カ所の番付が何度か変更されたという話もあります。四萬部寺は二十四番だったのを、現在のように一番に変更したのは、江戸から来る巡礼者の便宜を考えてのことだったといいます。(江戸の方から山越えすると四萬部寺が最初の寺になる) こうした地元の「営業努力」もありました。

だから巡礼は、純粋な観音信仰のほかに、現代のトレッキングやスタンプラリーに通じるレジャーの意味合いもありました。現在はアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』の聖地巡礼も行われています。

秩父盆地の西側に陽が落ちるとき、どこかに極楽浄土があるのでは?という希望と夢を感じさせたのではないかといいます。江戸時代ばかりではなくて、今でも現実の生活の厳しさの中では、どこかに希望や夢がなければ生きていけません。

たしかに秩父盆地は、「程よい規模の盆地」、「日本の縮図とも言われる小宇宙」であることは俺も通っているときから感じていたし、そういう意味で雑誌連載と写真展のタイトルは『秩父桃源』にしたくらいです。

黒澤先生は、いくつかの集落が消えていく中で、この風土にある文化を再発掘し学ぶこと。地域学を見直すことが秩父地域の活性力を生み出すこと、とおっしゃっていました。

これは秩父に限らず、日本の地方がかかえる問題でもあるようです。
 
 
 
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2015/02/26

フジテレビ系全国放送「感動地球スペシャル・中川翔子のボルネオ」

150226(Kuala Lumpur, Malaysia)

ボルネオ研究の日本第一人者、安間繁樹さんがかかわった番組の案内です。

特番「感動地球スペシャル・中川翔子のボルネオ」

公式HP
http://www.sut-tv.com/show/borneo2015/


テレビ静岡製作・フジテレビ系全国放送
2015年3月1日(日)
16:05~

「しょこたん」中川翔子さんが案内役となり、アジアゾウ、オランウータン、イリエワニ、群れる熱帯魚、ウミガメの放流、越冬中の日本からのツバメなど、ボルネオ島の自然を紹介する番組とのことです。

コタキナバル市街地やマレー料理も登場します。安間さん本人も出演します。しょこたんをジャングルクルーズで案内するようです。

ちなみにボルネオはインドネシア・マレーシア・ブルネイ3か国の領土になっていますが、今回はどの国でしょうか。

いつか行ってみたいと思っていますが、以前安間さんに尋ねたとき、水田は多いが、棚田は小規模のしかないような話を聞いた気がするので、当分行く機会はないかもしれません。番組を見て行った気分に浸りたいと思います。

   ☆


番組観ました。

「感動地球スペシャル・中川翔子のボルネオ」で聞いた言葉「森の皮肉」(2015/03/02)
 
 
 
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2015/02/24

ももクロがラッツ&スターと顔を黒塗りしてパフォーマンスしたことで巻き起こった議論

150224

先日、ももクロがラッツ&スターと共演で顔を黒塗りしてパフォーマンスしたことに議論が巻き起こった、ということをこちらに書きました。人種差別じゃないのか、という批判ですね。

ももクロ「黒塗りメーク」にNYタイムズ記者批判  「罪のないパフォーマンス」ではすまされない?
J-CASTニュース http://www.j-cast.com/2015/02/15227869.html参照)

俺はこの差別うんぬんについて、ちょっと問題ありだと思っています。この常識は「世界の常識」なのかな?と書きました。「世界の」ではなくて「白人が作った」ではないのかな?と。

たまたま『色を探究する('13)』を聴いていたら、これに関係する話題が出てきました。

肌の色で人間を分ける「黒人」という人種の概念が現れたのは、17世紀のヨーロッパらしいんですね。世界各地を植民地にしていった過程で、支配者(ヨーロッパ人)と、非支配者(現地人)を区別するために生まれたものではないか、ということです。

そもそも「黒」に対しては、悪いイメージを持っていたヨーロッパ人は、現地人を「黒人」とラベルを貼って、「劣っている人」、「無知な人」という意味まで付け加えてしまったということがあるようなのです。正当化したかったんでしょうね。「白人」たちは優秀だから、現地人「黒人」たちを支配してもいいんだと。

現地人と自分たちは本質的に変わらないということを無意識的に感じていたからこそ、「黒人」「白人」という区別を無理やり作ったといえるかもしれません。怖さの裏返しとも取れます。

人種「黒人」「白人」という分類は科学的にはまったく意味がないそうです。「紫外線が強い地域に住むメラニン色素が多くなった人」と言ったらいいでしょうか。

俺だって、普通の日本人よりは黒いし、海外に行ったときはもっと黒くなります。まぁ俺のことは「黒人」とは呼ばないでしょうね。いや、もっといい呼び方がありました。「黄色人種」です。

「黄色」も「白人」にとっては、「卑怯」「危険」という意味があるそうです。皮膚が黄色いから俺たちアジア系を「黄色人種」といったのではなく、もっと「卑怯」「危険」という意味的な呼び方であった可能性もあります。「黄禍」なんてもろにそうじゃないでしょうか。どうみても俺たちの肌が実際に「黄色」ではないと思うし。

さて、ももクロとラッツ&スターは、もちろん差別なんていう意識もなく(差別される方が「差別」と感じたら差別なんだという主張にも、俺は?です)、むしろリスペクトでもあったはずです。もともと日本には「黒人差別」などなかったし。

西洋では「白」に対するプラス・イメージが多く、「黒」に対するマイナス・イメージは、「死、無知、悪、罪、悪魔」など多くあると指摘されています。西洋では白黒=善悪はっきりしているわけですね。

でも、もともと「白人」が作ったラベル「黒人」でしたが、今では、「紫外線が強い地域に住むメラニン色素が多くなった人」自身が「黒人」を意識し、「黒人」というラベルを自分で認めてしまっているところも問題は深いなぁと思います。

最初蔑称であったものが、非差別者自身の「名前」として受け入れている例もあることを考えると、この問題は、そう簡単ではなく、難しいところもあります。

それと、ネットが普及して、「世界の常識」を無視できなくなってきたことも、今回の騒動では関係していて、どこまで「世界の常識」を意識しなければならないのか、これもけっこう問題です。
 
 
 
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2015/02/22

次の「交替劇」を描いている映画『猿の惑星:新世紀(ライジング)』

150222(Cappadocia, Turkey)

映画『『猿の惑星:新世紀(ライジング)』 原題:Dawn of the Planet of the Apes を観ました。

オフィシャルサイトはこちら。

http://www.foxmovies-jp.com/saruwaku-r/movie/

前回の 『猿の惑星 創世記』 については前に書いていますが、今回もエンターテインメントとしては優れた映画だとは思います。

ただやっぱり俺には1968年の『猿の惑星』、1970年代の『続・猿の惑星』、『最後の猿の惑星』の衝撃を越えるものはありませんでした。昔の映画にこだわり過ぎるのも、不自由な話ですが。

もちろん違う映画としてみれば、十分楽しめるのですが。とくにVFXの技術はさらに進化し、エイプス(類人猿)たちの本物と区別がつかないほどのリアリティには驚きます。

【ネタバレ注意】

ストーリー展開は、こうなっていくんだろうなと思ったとおりの展開で、ちょっと残念でした。もっと「神話」が生まれるワクワク感がほしかったなぁと思うわけです。

今後このシリーズは続いていくはずなので、現在のエイプス(類人猿)のリーダー、シーザーが亡くなったあとを引き継ぐのは息子ブルーアイズと思われますが、ブルーアイズのキャラクターが今一はっきりせず、カリスマ性があるとも思えません。

むしろ今回「クーデター」に失敗したコバのようなエイプスがリーダーになっていくのだとすると、面白かった(俺好みの神話だった)かな思います。

シーザーはどうみても「善」なのです。それに対してコバは「悪」です。でも、タブーを冒し「善と悪」「光と影」を意識したところから人類の歴史が始まったと同じように、エイプスにとっても「善と悪」「光と影」を意識するのが必要でしょう。

まぁ今回のラストでは、「エイプスはエイプスを殺さない(エイプスは仲間を殺さない)」と言っていたシーザー自身が、コバを助けなかった(殺してしまった)ということが、「善と悪」の意識化の始まりと言えるかも知れませんが。

自らの手によって、エイプスのタブーであった「仲間殺し」を、多くのエイプスたちの目の前で実行して見せて、みんなに「善と悪」を意識させたことは、禁断の果実を食べたアダムとイヴと同様、神話に登場するにふさわしいリーダーなのだと思います。

けっきょくシーザーが生き残り、コバは死んでしまいますが、コバはシーザーにとっての「善と悪」の「悪」の面、「光と影」の「影」の面であると言ってもいいのかもしれません。コバは死にましたが、シーザーの中にコバは生き続けることになるのでしょう。「善と悪」「光と影」の両面を持って初めて「人間」いや、シーザーの場合は一人前の「エイプス」になるわけです。
 
 
映像的にすばらしいだけではなく、ヒトに一番近いチンパンジーのことをよく描いていて、そこもリアリティに貢献している点かもしれません。

1960年代から70年代にかて、チンパンジーの言語研究が行われましたが、残念ながら喉の構造の違いからヒトのような言葉をしゃべるのは難しいようです。ただ、2、3語組み合わせて手話で会話できることがわかりました。映画でも、エイプス同士は手話で会話していましたね。

チンパンジーはヒトよりも優れた能力もあります。とくに、子供のチンパンジーの、直感的な映像記憶力は、ヒトよりも優れているそうです。運動能力もそうですね。

実は、チンパンジーとゴリラの関係よりも、チンパンジーとヒトとの関係のほうが、系統的により近い種であるらしいのです。

だからチンパンジーからみたら、ゴリラよりヒトに近く、自分が「イエプス」側に入れられているのは不本意かもしれませんね。(ヒトをエイプスに含む分類もあります)

エイプスたちが、人間が暮らしている町に攻めてきたとき、人間のリーダー格の男は銃を持って叫びます。

「生き残るのは人間で、あいつらは獣だ」といった意味のことを。

人間と獣を分けるという発想じたいが人間だけのものですが、二者を分ける根拠がほとんど無くなってきていることをうすうす感じている人間のあせり、と聞けなくもありません。

人間は特別優れていて、獣は劣っている。だからこの地球を支配するのは人間なのだという考えには何の根拠もなくなっています。人間が特別優れているわけでもないし、人間以外の生物が地球を支配しても(「支配」という言葉も当たってないかもしれませんが)、何も、誰も、困らないのです。

ネアンデルタール人が滅び、ホモ・サピエンスが生き残ったことを「交替劇」と専門家たちは呼んでいますが、この映画は種を越えた次の大きな「交替劇」を描いていると言えるかもしれません。
 
 
 
 
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2015/02/20

旧暦正月の初夢は、「「ライフ」と爆弾」

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2015年新暦の初夢はヴィーノとイラクを旅する夢でしたが、旧暦の初夢は、残念ながらあまり楽しいものではありませんでした。

【夢日記 「ライフ」と爆弾】

大きな抱き枕のような黄色い模様の袋に入っていたのは、「ライフ」というものと爆弾だった。何だかわからなかったが、「ライフ」はいいものらしい。それをいっしょに取り出さなければならないと、誰かがしきりに俺に説明している。それも何度も何度も。その説明がしつこいなぁと感じながらも、俺は取り出す自信はあった。

というもの。

この初夢をどんなふうに解釈しようかな。

夢全体のイメージは、映画『ハート・ロッカー』のようだったので、またイラクかどこか中東の空気を感じます。

どうして今朝見たかというと、「爆弾」については、一昨日だったか、その前だったか、ニュースのテロ対策訓練で、爆発物処理をするシェパード犬の映像がすごく印象に残っていたからではないかなと思います。失敗したら犬はどうなるんだろう?と一瞬頭をよぎったのでした。

でも、夢の解釈は、ポジティヴ・シンキングがいいかもしれません。結局は。
 
 
ところで中国では「春節」といい、新暦の正月よりもにぎやかです。

日本もこれから、良くも悪くも春節を無視できなくなるのではないでしょうか。

中国人観光客が春節休みを利用して、日本にやってきて爆買いしてくれるという経済的なメリット。そして同時に、中国人観光客だらけになって、どこも観光地やホテルは混雑するというデメリット。

俺もネパールやスリランカでは、春節や国慶節の連休に当たってしまって、たいへんな思いをしました。中国人の連休を知らないと、旅の予定を決められなくなっているくらいです。

これからはもっと「旧暦」のことを意識しないと。そもそも東アジアの国で旧暦を使うのをやめたのは日本(沖縄以外)だけです。

ますます「旧暦棚田ごよみ」の需要は増えていくかな。少なくとも「春節」の認知度は日本でも上がっていくでしょう。
 
 
 
 
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2015/02/19

今日は旧暦一月一日、そして二十四節気の「雨水」

150219


今日は旧暦一月一日、旧正月です。そして二十四節気の「雨水」です。

ようやく「旧暦棚田ごよみ」を架け直すことができました。

一月(睦月)の棚田は、佐賀県唐津市「蕨野の棚田」。撮影は新暦の3月。桃の花が咲いています。田んぼの黄緑は、ひこばえ(蘖)です。新春らしいかなと思って、この写真が採用になりました。

フランス・パリ、デンマーク・コペンハーゲンでのテロ事件、アイシルの日本人人質事件など、きな臭いニュースで終わった2014年でしたが、今年はどんな年になるのでしょうか。

今日から心機一転、いい年にしたいものです。
 
 
 
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2015/02/18

デンマークの首都コペンハーゲンで起こったテロのニュース

150217(この写真はニュースとは関係ありません)

デンマークの連続テレビドラマ『THE KILLING/キリング(原題:Forbrydelsen)』全20話を観終ったばかりです。

デンマーク史上最高視聴率を取ったドラマなのですが、そんな偶然もあって、今回デンマークの首都コペンハーゲンで起こったテロのニュースが耳に入った時、敏感に反応してしまいました。

フランスのパリで週刊新聞「シャルリー・エブド」が襲われたテロと似ています。イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画に対する反発の可能性が高いようです。

風刺画を肯定する人たちは「表現の自由」といいます。

俺も表現者の一人でもあるので、「表現の自由」は大切だとは思います。でも絶対の価値か?と言われれば、俺は疑問です。「表現の自由」を御旗にして、自分の行為を正当化するのは、どうかなと思います。

だいたいにして、たとえば「お前を殺す」と言ったら犯罪です。言葉だってなんでも表現していいわけではないことは子供でも分かるのに、どうしてそれが「絵(風刺画)」になるとすべてが許されると考えるのでしょうか。

「表現の自由」には、範囲があるのでは?と思います。たとえば、こんな例も・ ・ ・

最近、ももクロがラッツ&スターと共演で顔を黒塗りしてパフォーマンスしたことに、議論が巻き起こっています。

今までなら(日本国内だけの話なら)、もちろん本人たちに人種差別などという意識もないわけですが、ネット社会になって、「外国の常識」を無視できなくなってきたということでもあります。つまり「顔を黒く塗る」という表現は、人種差別になってしまうかもしれないのです。(まぁ、俺はこの差別うんぬんについてはちょっと疑問ありですが。この常識は「世界の常識」なのかな?と。なぜ金髪にしても顔を白くしても差別ではないのに、肌を黒にしたり鼻を高くすると差別になるのか?とか) 

これと、若者の「ふざけた写真の投稿」と似ていると感じます。今まで仲間内にはまったく問題ない行動も、ネットで繋がったとたん、もっと広い常識に晒されて批判されるという意味で。

「表現の自由」が冒すべかざる絶対的価値だなどと言えるのかな。それは同じ文化、同じ土俵、仲間内など「範囲のある価値」なのではないでしょうか。「自分の表現は絶対だといいながら、他人の表現は認めない」というのは論外で、傲慢としか言いようがありませんが。

心配な出来事があります。第三書館がシャルリー・エブドの風刺画を転載した本を出版しようとして、在日イスラム教徒から反発を受けています。第三書館の言い分は、「どういう表現なら認められるのか問題提起したい。現物がないと議論が深まらない」だそうですが、そんな理屈をイスラム教徒が納得するのかどうか。

もっとも、第三書館は確信犯的にやっているのでしょう。
 
  
 
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2015/02/15

「車中泊公認施設が年内には100か所ぐらいまで増える」のニュース

090808_1

150215

うれしいニュースです。

キャンピングカー市場が拡大 クルマ旅文化が日本でも定着へ
(nifty NEWS http://news.nifty.com/cs/economy/economyalldetail/postseven-20150214-303877/1.htm

記事の中に、「全国の道の駅やオートキャンプ場などと連携した車中泊公認施設(RVパーク)が年内には100か所ぐらいまで増える見通し」とあります。

ヴィーノを連れて日本一週の旅をした数年前から、「車中泊を意識した施設にはビジネスチャンスがある」と言ってきましたが、ようやくその通りになってきたようです。

今までは道の駅も、「休憩」が原則なので、「宿泊」はグレーゾーンといってもよかったのです。でもこれで「公認」なら、大手をふって車中泊を楽しめます。

あとは、その施設で、電気、風呂(シャワー)、ごみの問題が解決できればなおいいですが。車中泊で一番困るのはごみの問題です。だから、ごみ処理代金や充電代金など、多少の料金がかかってもいいです。風呂(シャワー)があったらこれも重宝します。ついでにコインランドリーも。

ちゃんとしたキャンピングカーは、けっこう高価です。でも、「旅をしたい」という思いは、お金持ちの特権ではありません。キャンピングカーがなくても、車中泊の旅はできます。俺たちがその証明です。犬と妻と3人で、1年かけて日本の全都道府県を旅行できたのだから。

狭い車内をうまくベッド・ルームに変えてしまうなどの特殊技能は、さすが日本人だと思います。「ウサギの寝床」だとか「鳥小屋」だとか揶揄されてもひるまない「伝統」を持っている国民なのです、俺たちは。

もちろん余裕のある人は、ちゃんとしたキャンピングカーを購入すればいいと思いますが、ただ、大きい車は、狭い山道は行けないし、駐車スペースに困るということは覚悟しなければならないでしょう。

これを俺は「ヤドカリの矛盾」と言っています。ヤドカリは家が大きいほど快適か?というとそうじゃなく、ようは、その人の旅で何にポイントを置くかで、普通車でやるかキャンピングカーでやるか変わってくるとは思います。

妻と犬連れ3匹の、日本一周車中泊の旅 (87) ヤドカリの矛盾 (2009/08/08)

あとは「やる気」です。それと「群れの法則」を知っていれば。意外にこの「群れの法則」は大切です。とくに長期で旅するのであれば。俺たちも群れの危機が何回かありました。一人旅で、この点は関係ありませんが。

妻と喧嘩になってしまったあとに書いたのは、

「・ ・ ・この車中泊という旅の常識がふたりで共有できるまでにならないと、なかなか喧嘩は収まらないのだった。
そしてもうひとつ、誰がボスになるか、ということも重要だ。つまり、この三頭の群れのボスが決まらないと、群れは安定しないのである。船頭は一人でいい。・ ・ ・」

と、いうことなのです。

もし良かったらそのあたり、『妻と犬連れ日本一周、車中泊の旅』 [Kindle版]を参考になさってください。(結局宣伝か?)
 
 
 
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2015/02/14

【夢日記 白っぽい動物】 夢と現実の相似

150213

先日、ヴィーノを連れてドッグランに行ったとき、「あっ! あれだ!」と思ったシーンがありました。

数日前に見た夢の「白っぽい動物」のイメージとぴったりと合っていた犬の後姿を見たからです。そしてその犬が近づいてきたとき、知っての通り俺は昔犬が苦手だったので、「咬まれるかも」と思う気持ちは一生なくならないようで、このときもそう思いましたが、この犬は温厚で、もちろん咬むこともありませんでした。

【夢日記 白っぽい動物】
町の郊外で軽トラックのような乗り物の荷台に乗っていた。周りが畑で、農道が大きくカーブしているところで、突然白っぽい動物が現れて追いかけてきた。その動物は犬のようにもアザラシのようにも見えた。でも、目も鼻も耳も見当たらない。丸っこいぬいぐるみのようだ。追いつかれてしまったら俺はこの動物から手を噛まれるだろうと覚悟した。痛いんだろうなと思った。でも、動物は俺の手のところまで来たが、噛まれた感覚はなかった。

夢と現実の相似を体験たのです。(もちろんこれを「予知夢」だとは思っていませんが)

今回ドッグランで見た白い大きな犬は飼い主と似ているデブで、背中のほうから見ると、とくに丸っこいぬいぐるみみたいでおもしろいなぁと思って写真に撮ったのでした。

数日前の夢「白っぽい動物」は、普通なら忘れてしまうような印象の薄い夢です。あとで思い出して日記に書くのが難しかったほどです。

だからこの夢の印象が強かったから、今回写真に撮ろうとしたわけではありません。逆に、撮った直後に思い出したのです。

と、いうことは、無意識内にあるイメージが夢の中で意識できるのと同じように、写真を撮ることで意識できるということもあるような気がします。今回の件で言うならば、「犬」に対する俺のイメージが、夢と現実で、どちらも同じようだった、ということの確認にもなるでしょう。

心理療法には「写真療法」というものもありますが、表現することで、無意識のイメージが現れやすいということがあり、絵画ならそういうことはあるだろうと思っていたのですが、実際写真もそうなのかもしれないと思いました。

自分で実際体験してみないと、本当なのかどうなのか確信が持てなかったのですが、今回の体験で、写真を撮るということは、自分の無意識内にあるイメージの意識化でもあるんだなぁと、あらためて思います。「夢を見る」と「写真を撮る」ことの相似と言ってもいいかもしれません。

今まで長年写真を撮り続けてきて、どうしてこの写真を撮ったんだろう?と不思議に思う経験も数多くあります。それは自分ではわからない、無意識内のイメージが自然に出てきてしまったと考えることもできるのかもしれません。
 
 
 
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2015/02/09

「都会人の冷たさ」の見方が変わる本、『冷淡な傍観者―思いやりの社会心理学 』

150209

ビブ・ラタネ、ジョン・ダーリー 著『冷淡な傍観者―思いやりの社会心理学 』という本があります。

1964年にニューヨークで起こった婦女殺人事件「キティ・ジェノヴィーズ事件」というのがありました。たくさんの目撃者がいたにもかかわらず、誰も警察に通報もせず、助けなかったというこの事件をきっかけに、心理学者がある仮説を実験して確かめたという話です。

結論は、緊急事態の現場に居合わせた人の数が多いほど、助ける人が少なくなるというもの。これを「傍観者効果」と呼ぶそうです。

その後、癲癇発作や、煙が出るなどの実験でも確かめられました。

どうしてそうなってしまうんでしょうか? 大きく2つの理由があるそうです。

【責任の分散】 人数が多いほど、自分よりも援助に適した人がいるはずだ、自分がやらなくてもいい、ほかの人にも責任はあると考えてしまう。

【集合的無知】 みんな同じことを考えていることを知らず、自分の考えはほかの人とは違うのではないか。自分では緊急事態なのかもと思っても、周りの反応を見ると、他の人たちは何もしようとしていないのをみて、緊急事態ではないんだと思い込んでしまう。みんながそう考えてしまうので、誰も助けなくなってしまう。 

これを知ってなるほどと思いました。一昨年と去年、俺も2回の「緊急事態」に遭遇しました。火事と、発作を起こした男です。

近所の火事での意外な行動(2013/08/17)

素人に応急処置は難しい(2014/09/15)


火事が目の前に起こっていても、俺は大声も出さずに、不自然なほど冷静でした。それが自分でも不思議だったのですが、この「傍観者効果」が働いている、ということなのかも。

火事の現場にはすでに他の人間がいたので、もう誰かが消防に通報したんだろうと思ったし、彼らがあまりにも冷静だったので、「俺が思っているほどこれは緊急事態ではないかもしれない」などと考えてしまったのでした。

もうひとつ、発作を起こした男のときも、俺は緊急救護の知識がないので、自分よりも適した人がいるはずだとは思って、ちょっとだけ助けに向かう時間は遅れたということも事実です。

その場には、俺のほか6人ほどいましたが、男の異変に気がついても、みんな何もしようとしませんでした。でも、たぶん、内心は俺と同じだったのかもしれません。

たとえば、電車内でトラブルがあっても誰も助けてくれなかったなどと、「都会人の冷たさ」を非難しますが、たぶん、これも「傍観者効果」と関係があるのかもしれません。個人的には親切な人も、大勢の中では傍観者になってしまう。でもそれは「冷たい」からではない、むしろ「やさしさ」や「思いやり」かもしれないんだぁと、ちょっと見方が変わってきますね。

「傍観者効果」というのを知って、とっさの場合どうすればいいかのか、少し肩の荷がおりた感じがします。とにかく、わからなくても、助けようとすればいいこと。その行動につられてほかの人も動き出す(同調行動)だろうし、その中には自分よりも緊急救護の知識を持った人もいるかもしれません。とにかく他の人が動いてなくても、自分が動けばいい、ということですね。

ちなみに、もし自分が助けてほしいときは、「だれか助けてください」ではなくて「そこのあなた助けてください」と頼んだほうがいいそうです。

ところで「田舎の人は親切だ」というのも、もしかしたら錯覚なのかなとも思います。要するに、親切な人は都会、田舎にかかわらないということなんでしょう。
 
 
 
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2015/02/08

映画 『リミットレス』 を観て思った、脳を100パーセント使うこと

141214(羊の脳みそサラダ トルコ・イスタンブール)

『リミットレス』
アラン・グリンによる2001年製作の小説『ブレイン・ドラッグ』(原題: The Dark Fields)を基に、レスリー・ディクソンが脚本を書き、ニール・バーガーが監督を務めた。(wiki参照

【監督】 ニール・バーガー
【出演者】 ブラッドリー・クーパー(エディ・モーラ)、ロバート・デ・ニーロ(カール・バン・ルーン)、アビー・コーニッシュ(リンディ)
【製作年/国】 2011年/アメリカ

通常20%しか使われないといわれる人間の脳を100%使える薬を手にした主人公エディが、成功とともに謎の存在に狙われる立場になるというサスペンス映画です。

映画自体はそれほど面白いと思いませんでしたが、このストーリーの設定には興味が引かれました。禁断の新薬「NZT-48」という超覚せい剤とも言える薬を飲むとスーパーマンになれるという話です。

脳が薬によって100パーセント使えるようになるからですが、逆に、実際の人間の脳はなぜ100パーセントは使われていないんだろう?と考えてしまいました。

人間の脳がほかの動物と比べて体重の割には巨大なのは、複雑な社会生活での問題を解決するためだとする説があります。これを「社会的知性仮説」と呼ぶそうです。

でもせっかく大きくなった脳を20パーセントしか使わないのはどうしてなのでしょうか。それを考える前に、脳が20%、あるいは10%しか使われていないというのは俗説らしいです。ただいつも100%使われているわけではないという意味では、ある程度の目安なのかもしれませんが、10%や20%に科学的根拠はないそうです。(「知能と心の科学」Newton参照)

「将来に対する保険」であるかもしれないなぁとも思います。これから何万年、何十万年存在し続けるかわからないですが、人類がこれから起こるだろう数々の困難を解決できるように余力を残しているのではないかと思うんですよね。もし100パーセント使ってしまっていたら、今の時点ですでに限界でしょうから。

そしてそもそも、100パーセント使うことが「良いこと」あるいは「進化した状態」なのか?という疑問もあります。

余力を残すということと関係するのかもしれませんが、100パーセントではない、ということにはやっぱり意味がありそうです。こういう状態でバランスしているのではないか。むしろ、100パーセントにならないように「進化」したのではないかと。

前にも書きましたが、実際こういう話があります。

オリヴァー・サックス著『妻を帽子と間違えた男』には、麻薬を大量に服用して犬の夢を見て目覚めたとき、犬並みに嗅覚が鋭くなっていた医学生の話が出てきます。まるでカフカの『変身』のようなことが起こるのです。原因ははっきりしないらしいのですが、抑制が外れて、もともと持っていた能力が使えるようになったということらしい。

人間の嗅覚が犬より劣るのは、能力が無くて劣っているのではなくて、抑えているから、という説だそうです。でも、匂いを感じる受容体の数そのものが違うだろうし、単なる脳の活動だけの問題ではないようにも思います。俺がウサイン・ボルトのように走れないのは、筋肉や体力がないからであって、いくら脳を活性化させても速く走ることはできないでしょう。

だからこの説には疑問ですが、ただ、こういうことは言えるのではないでしょうか。その能力は、その時代、その環境で、絶妙にバランスを取っているに過ぎないのではないか、「能力が優れている」ということは「進化」とは関係ないのではないかという気がしてきたのです。

だから人間は、「脳を100パーセント使いたいのに使えない」のではなくて「100パーセントは使いたくないから使わない」だけなのではないか、ということなのです。

もし脳の使用率が変わってしまったら、別なところも変わらざるをえず、それが人間にはマイナスとなるのかもしれません。

考えてみれば、自分の周りの環境のすべての刺激に対して、100パーセント脳をフルに使っていちいち反応していたら、たいへんなことになるのではないかと想像はできます。疲れてしまうでしょう。人間はある程度「鈍感」になるように脳を適応させているのかもしれません。

「なるべく無駄なエネルギーを使わない」というのが生物の進化の方向性でもあるようなので。
 
 
 
こちらに『ルーシー』について書いています。

映画 『ルーシー/LUCY』 脳の機能を100パーセント使うこと (2017/02/05)
 
 
 
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2015/02/06

タイのオネエの日本人専門詐欺で3億円の被害

150206_1(Khaosan Road, BANGKOK 2014)

150206_2(Khaosan Road, BANGKOK 2014)

150206_3(Khaosan Road, BANGKOK 2014)

このニュースを聞いて驚きました。

タイで日本人男性ばかり狙う詐欺 被害総額は3億円超か
livedoor NEWS http://news.livedoor.com/topics/detail/9725927/参照

こういう古典的手口、まだあるんですね。

実は俺も30年前バンコクで、この手の詐欺師に2回遭遇しています。今回のオネエは「寸借詐欺師」らしいです。俺の場合、もっと手が込んでいたようですが、未遂で済んだので、真の被害がどうなるかはわかりません。

今回逮捕されたオネエは昔、日本人の男とある島に行ったとき、一人置いてけぼりにされた、ひどい目に遭わされたので、その復讐のために日本人をだまし続けたという動機(?)をしゃべっていましたが・ ・ ・。

これは嘘でしょうね。いや、もしかしたらそういう体験は実際あったかもしれませんが、主な動機ではないと思います。動機は、「バカな日本人は騙しやすい」というだけでしょう。

俺の場合はこうです。

手口と対策を参考までに書いておきます。(30年前の話がまだ参考になるというのは驚きですが)

バンコクの中心街を歩いていると、一人のオネエ(あるいは本物の女性?)が近づいてきます。2回とも外国人を装って英語で声をかけてきました。

「すみません。あなたタイ人?」

ここでタイ人?と聞いてくるのが巧妙ですね。彼女は当然俺が日本人だと知っていてあえて「タイ人?」と聞くのです。そのことは後で知ったわけで、この時点ではわかりません。

それで俺は、

「いいえ、日本人です」

と英語で答えました。すると彼女は、

「そうですか。私も外国人なんです。シンガポールから来ました。私、タイは初めてなんですが、ここへはどうやって行くんでしょうか? わかりますか?」

と、地図を見せて、どこかを指しました。俺もバンコクは2回目くらいで詳しくないので、

「ちょっとわかりません」

と答えました。

「そうですか。ありがとうございます。ところで、これからどこへ?」

と聞かれたので、

「食事でもしようかとレストランを探しているんですが」

「良かったら私の知っているレストランへ行きますか?」

と聞いてきたのです。俺も当時は若かったし、下心が無かったとは言えず、

「いいですね。そのレストランはどこですか?」

と聞いたのです。すると彼女は、

「ツクツクで行きましょう」

と言いいました。俺はまず場所を知りたかったので、

「この地図のどのあたりですか?」

と、地図を示したのですが、彼女は、

「とにかくツクツクに乗りましょう」

との一点張り。このあたりから俺は「あれっ?」と怪しみ始めました。車に乗ってしまったらどこに連れていかれるかわからないので、断り続けました。

すると彼女は無理やり俺をツクツクに乗せようとしたので、「これは何かやばい!」と思って、走って逃げました。

これが1回目。

そして翌日、まったく同じような手口の詐欺師に遭遇したのでした。もちろん、前日とは違う詐欺師です。

俺は「ははぁ、こういう手口がはやっているんだな」と気がつきました。それで俺は騙されたふりをしてみようと思ったのです。

昨日の詐欺師と同じような展開になって行き、「私の知っている店に行きませんか?」と聞かれたとき、「いや、あそこで食事するつもりだったので」

と、俺はとっさに、近くにレストランがあったので、そこを指差しました。そしたら彼女の表情が少しイラッとしたようですが、俺はそれにはまったく気がつかないふりをして、彼女といっしょに食事ができる嬉しさを演技し続けました。

「わかりました。あそこで食事しましょう」

と、彼女は乗ってきました。

食後、彼女は、「これを見ててくれますか?」といって、わざわざ自分の財布を俺に預けて、トイレに立ったのでした。たぶん、これは俺を信用させよう思った行動なのでしょうが、初対面の人間に財布を預けるなんて不自然です。彼女も、このあたりはいつもの展開ではなくなっていたので、あせっていたのでしょう。それでとっさに考え付いた方法だと思います。

トイレから帰ってきた彼女は、

「ありがとう。あなたを信用していたから財布を置いていったの」

などと、聞いてもいないことを彼女は俺に言いました。

「これから私の知っているレストランに行きますか?」

と聞いてきました。

「おなかいっぱいですが、いいですよ。ぜひ行きましょう」

と俺は笑顔で言いました。

支払いは彼女がやってくれました。

レストランの表に出たら、昨日とは違って、黒塗りの車が止まっていて、彼女は、

「これで行きましょう」

と言ったので、

「えっ? これで? 嫌ですよ」

俺が拒むと、腕を取って、無理やり乗せようとしたので怖くなり、彼女の手を振り払って逃げました。罵声がしたので振り返ったら、なんと車から怖そうな男が降りてきて、彼女と二人で、俺に向かって何かを叫んでいました。俺は「バイバイ」と叫びながら走って逃げました。二人は激怒していたようです。

という体験です。

参考になりましたか? なりません? 詐欺師を騙した俺も詐欺師なんでしょうねぇ。いずれにしても時効ですが。

俺の場合、グルの男が車で待っているなど、かなり危険な状況だったのだと後で知ったわけで、詐欺師を騙そうなどという気は起こさず、詐欺師に会ったら、即、立ち去った方がいいですね。
 
 
 
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2015/02/04

今日は、立春は立春でも「年内立春」

150204

今日は、二十四節気の「立春」です。「春」の初めです。

まだ寒さは続きますが、これからは春に向かいます。いや、向かってほしいですね。寒がりの俺としては。

掲載の写真(↑)は雪解けのしずくが凍ったものですが、どうして中にこんな泡の模様ができるのか、不思議です。

旧年十二月(または閏十二月)の立春を「年内立春」、年が明けてからの立春は「新年立春」といいます。

だから今日の「立春」は「年内立春」です。

旧暦の新年は新暦2月19日からで、今日はまだ旧暦十二月十六日。だから「年内」です。

立春と元日が重なるのは珍しく、「朔旦立春」といいますが、1992年にあった以降は、ずっとなくて、2029年までなさそうです。(Wiki参照)

春の初め、「立春」期間中の七十二候は次の通り。

●初候 東風解凍(東風が厚い氷を解かし始める)

●次候 黄鶯睍睆(鶯が山里で鳴き始める)

●末候 魚上氷( 割れた氷の間から魚が飛び出る)

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2015/02/02

後藤健二さんの死を無駄にしないための日本の「テロとの闘い方」

150202_1(2002年インドネシア・バリ島爆弾テロの追悼集会)

150202_2(2002年インドネシア・バリ島爆弾テロの追悼集会)

まずは、犠牲になった後藤健二さんのご冥福をお祈りします。

今回の件は他人ごとではないし、日本人に「テロ」や「格差問題」や「貧困問題」を考えさせるきっかけになるのではないでしょうか。後藤さんの願いでもあったはずです。

巷では「テロに屈しない」とか「テロリストと闘う」とか、勇ましい言葉が躍っていますが、後藤さんの真意とはズレがあるように感じます。

たぶん、戦闘によって傷ついた市井の人々に寄り添った後藤さんの気持ちからすれば、自分の件をきっかけにして「力には力で」という考えに走ることは不本意だろうと思います。

後藤さんのISILアイシル(イスラム国)潜入直前のビデオメッセージ、「シリアの人たちに責任は無い。すべて自分の責任で」と言っている通り、後藤さんは自己責任を覚悟で潜入しました。

本人は、状況判断を誤って人質になったというのは仕事上のミスなので、しかたないと思ったのではないでしょうか。諦めるしかありません。(政府は後藤さんに渡航中止要請していたという) ただ、自分が人質になって、政治的、国レベルの問題になってしまったのは悔しかったと思います。

もちろん相手は犯罪集団であるので、後藤さんは「自己責任」を覚悟していたので、それでいいとしても、残された家族や俺たちが納得できる話ではありません。百歩譲ってテロにも理屈はあるでしょうから、これはテロでさえありません。単なる殺人であり犯罪です。

身代金が取れないとわかったから、「テロ」を装って、日本国の「アベ」を批判してみたり、ヨルダンに収監されている死刑囚の要求までしてみせましたが、そんな要求は鼻からどうでもよかったということが、今となってははっきりしました。

後藤さん個人としては「自己責任」なのでしょうが、「日本人が人質になる・殺害される」ということになってくると、自己責任論では片付けられません。日本人のだれが犠牲になってもおかしくないからです。

それはもう10年以上前から予想されていたことでした。欧米とともに歩むと決断したときから、日本は大きな流れの中に入ってしまったということです。だから突然人質事件が起こったようですが、起こる原因はすでにあって、それがいつ起こるか、という時間の問題だったのではないかなと思います。

アメリカの同時多発テロ911が起こり、テロと戦うといって武力行使したことは、テロを拡大させる結果になってしまいました。

後藤さんの仕事は、つまり、こういう暴力の連鎖は人間を不幸にしているということを訴えているのです。テロや過激思想を防ぐには、暴力に頼ってはだめで、ほかの手段を使わなくてはいけないんだということを、命をかけて示してくれたと言えるのではないでしょうか。

俺は2002年インドネシア・バリ島での爆弾テロのときバリ島にいて、1週間ほど被害者から話を聞きまわっていました。

犠牲になった人たちのことを悪く言うつもりはありませんが、本当に彼らは100パーセント被害者なのか?という疑問が沸き起こり、その後、頭から離れません。もちろん俺はテロや過激思想を認めるわけではないですが、テロを起こしたくなる彼らの気持ちも少しは分かる気がしたのです。

昼間から裸になってどんちゃん騒ぎしながら酒を飲んでいる姿は、敬虔なイスラム教徒にしてみれば、とんでもない堕落にも映ったはずです。そして世界各地での、現地のやり方を無視したような欧米化も反発の対象でした。

欧米のやりかたに対する長年の不満が今の時代に「過激思想」となって爆発したと見えます。やりほうだいにやってきた欧米(それに加担した日本も)の付けが回ってきたということなのではないでしょうか。

それと、当時ボランティアの学生が言ったことは印象的でした。

「クタ(爆弾テロ事件の現場)は、外国人が死んだからこんなに注目された。でも、インドネシアではしょっちゅうテロが起こっているが、外国では無視される。それは問題では?」

バリ島のテロは多くの欧米人が死んだから国際的なニュースになりました。中東や東南アジアやアフリカでは、何人が死ねばニュースになるのか、彼が突き付けてきた国によって命の価値に格差があるように見える世界の現実に俺は何も言えませんでした。

付けを払うのは時間も労力もかかるのです。爆弾落として終わり、テロリストを殺して終わり、というわけにはいきません。

そうすると日本の進む道はおのずと決まってきます。

今回ISIL(アイシル)からは「日本人を見つければ殺戮を続ける。日本にとっての悪夢を始めよう」と、名指しされてしまいましたが、この脅しにひるむことなく、やっぱり中東、イスラムの国々に対しての人道支援を地道に続けるしかないのかもしれません。

そしてテロリスト予備軍や過激思想集団予備軍を作らないということによって、時間はかかるかもしれませんが、これが日本の「テロとの闘い方」になるのではないかと思います。

後藤さんの死を無駄にしないためにも。
 
 
 
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