次の「交替劇」を描いている映画『猿の惑星:新世紀(ライジング)』
映画『『猿の惑星:新世紀(ライジング)』 原題:Dawn of the Planet of the Apes を観ました。
オフィシャルサイトはこちら。
http://www.foxmovies-jp.com/saruwaku-r/movie/
前回の 『猿の惑星 創世記』 については前に書いていますが、今回もエンターテインメントとしては優れた映画だとは思います。
ただやっぱり俺には1968年の『猿の惑星』、1970年代の『続・猿の惑星』、『最後の猿の惑星』の衝撃を越えるものはありませんでした。昔の映画にこだわり過ぎるのも、不自由な話ですが。
もちろん違う映画としてみれば、十分楽しめるのですが。とくにVFXの技術はさらに進化し、エイプス(類人猿)たちの本物と区別がつかないほどのリアリティには驚きます。
【ネタバレ注意】
ストーリー展開は、こうなっていくんだろうなと思ったとおりの展開で、ちょっと残念でした。もっと「神話」が生まれるワクワク感がほしかったなぁと思うわけです。
今後このシリーズは続いていくはずなので、現在のエイプス(類人猿)のリーダー、シーザーが亡くなったあとを引き継ぐのは息子ブルーアイズと思われますが、ブルーアイズのキャラクターが今一はっきりせず、カリスマ性があるとも思えません。
むしろ今回「クーデター」に失敗したコバのようなエイプスがリーダーになっていくのだとすると、面白かった(俺好みの神話だった)かな思います。
シーザーはどうみても「善」なのです。それに対してコバは「悪」です。でも、タブーを冒し「善と悪」「光と影」を意識したところから人類の歴史が始まったと同じように、エイプスにとっても「善と悪」「光と影」を意識するのが必要でしょう。
まぁ今回のラストでは、「エイプスはエイプスを殺さない(エイプスは仲間を殺さない)」と言っていたシーザー自身が、コバを助けなかった(殺してしまった)ということが、「善と悪」の意識化の始まりと言えるかも知れませんが。
自らの手によって、エイプスのタブーであった「仲間殺し」を、多くのエイプスたちの目の前で実行して見せて、みんなに「善と悪」を意識させたことは、禁断の果実を食べたアダムとイヴと同様、神話に登場するにふさわしいリーダーなのだと思います。
けっきょくシーザーが生き残り、コバは死んでしまいますが、コバはシーザーにとっての「善と悪」の「悪」の面、「光と影」の「影」の面であると言ってもいいのかもしれません。コバは死にましたが、シーザーの中にコバは生き続けることになるのでしょう。「善と悪」「光と影」の両面を持って初めて「人間」いや、シーザーの場合は一人前の「エイプス」になるわけです。
映像的にすばらしいだけではなく、ヒトに一番近いチンパンジーのことをよく描いていて、そこもリアリティに貢献している点かもしれません。
1960年代から70年代にかて、チンパンジーの言語研究が行われましたが、残念ながら喉の構造の違いからヒトのような言葉をしゃべるのは難しいようです。ただ、2、3語組み合わせて手話で会話できることがわかりました。映画でも、エイプス同士は手話で会話していましたね。
チンパンジーはヒトよりも優れた能力もあります。とくに、子供のチンパンジーの、直感的な映像記憶力は、ヒトよりも優れているそうです。運動能力もそうですね。
実は、チンパンジーとゴリラの関係よりも、チンパンジーとヒトとの関係のほうが、系統的により近い種であるらしいのです。
だからチンパンジーからみたら、ゴリラよりヒトに近く、自分が「イエプス」側に入れられているのは不本意かもしれませんね。(ヒトをエイプスに含む分類もあります)
エイプスたちが、人間が暮らしている町に攻めてきたとき、人間のリーダー格の男は銃を持って叫びます。
「生き残るのは人間で、あいつらは獣だ」といった意味のことを。
人間と獣を分けるという発想じたいが人間だけのものですが、二者を分ける根拠がほとんど無くなってきていることをうすうす感じている人間のあせり、と聞けなくもありません。
人間は特別優れていて、獣は劣っている。だからこの地球を支配するのは人間なのだという考えには何の根拠もなくなっています。人間が特別優れているわけでもないし、人間以外の生物が地球を支配しても(「支配」という言葉も当たってないかもしれませんが)、何も、誰も、困らないのです。
ネアンデルタール人が滅び、ホモ・サピエンスが生き残ったことを「交替劇」と専門家たちは呼んでいますが、この映画は種を越えた次の大きな「交替劇」を描いていると言えるかもしれません。
にほんブログ村
| 固定リンク
コメント