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2015/06/10

映画 『永遠の僕たち』 を観て。「生」から「死」へのガイド役として加瀬亮が好演

150610(道に落ちていたセミの抜け殻。去年のもの?)

『永遠の僕たち』という映画を観ました。

不思議な映画だなぁという感想です。そして戸惑いも感じました。

「『永遠の僕たち』(えいえんのぼくたち、原題: Restless)は、ガス・ヴァン・サント監督、ジェイソン・リュウ脚本によるアメリカ合衆国の映画である。不治の病に冒された少女と、死に取り憑かれた青年の恋の物語。物語のキーとなる青年のただひとりの“友人”役で加瀬亮が出演。(Wiki参照)

俺たちは自分の都合のいいように解釈してこの世界を理解しようとしています。それは「自分の物語」と言ってもいいでしょう。

なるべく客観的に理解しようとしていますが、俺たちの周りの世界・宇宙 ・森羅万象などの物理的世界の、ごく一部しか知ることができません。

たとえば目に見える世界だって、蝶やミツバチが紫外線が見えるのに、人間にはそういう世界は見えていないし、ニワトリやエビなどは人間よりも多くの色がわかっているし、犬が匂いで知っている世界も人間にはわかりません。人間は知らないことだらけです。 

そんな中でも俺たちは世界をなんとか理解したがります。ほとんどは「そうかもしれない」という可能性に過ぎませんが、それを「自分の物語」と呼ぶのでしょう。間違ったことも偏ったこともいっぱいありますが、それしか今のところ、理解の方法はないのです。

だからこの映画のように、「自分の物語」にはなかったものが入ってくると、最初は身構えます。それが映画に感じた「戸惑い」です。

まず、「葬式に参加する」のが趣味の主人公イーノックの設定、死にかけたあとに現れ、唯一の友人でもある日本の特攻隊員の幽霊・ヒロシなど。

ガン末期患者のアナベルとの短いけれども濃厚な愛の時間や、ふたり(と一人の幽霊)でいっしょに死を受け入れていく姿はあまりにも自然過ぎます。

死については永遠の謎です。どのようにして死を迎え入れたらいいか、今まで真剣に考えたこともないし、むしろ考えないようにしてきました。

この映画に表現されていた「死」は「生」と境目がない感じがしました。ここまですんなりと「死」を受け入れられたらいいのですが、俺にはまだ難しいと言わざるをえません。まだ「生」と「死」にははっきりとした断絶したイメージしかないので。

世界の解釈の違いを見せ付けられることは、戸惑いもありますが、いいことでもあります。「なるほど」とか「そういう解釈もできるのかぁ」といった気づきを与えてくれるからです。そしてそれによって「自分の物語」も少し変わってきます。それが心地いいことでもあります。昔、ヨーロッパやアフリカやアジアに行って、それまでの「自分の物語」が大きく変わったときと同じような快感です。

そういう意味で、衝撃はないのですが、「良さ」が後になってジワ~ッと染み込んでくるような映画です。俺の「自分の物語」にも死へのガイド役としてのヒロシのような友だちが現れる日がいつかくるのでしょうか。
 
 
 
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