芸術作品は、「自己表現」などではなく「世界表現」
「芸術は自己表現のような小さなものではなく、より根本的なものであり、一言で言えば、芸術とは、世界表現である」
と、美学・芸術論の青山昌文先生は『色を探求する』のかなで主張されています。
芸術作品が「自己表現」だというのは、長い人類の歴史から見れば、ごくわずかな期間の一部の価値観だそうです。
古代エジプトから始まる芸術の5000年の歴史を考えても、芸術作品が「自己表現」というくくりで評価されることになったのは、たかだか200年だといいます。
そうだったのかぁ。芸術作品は自己表現だと思っている現代人は、芸術に対して思い違いをしているということなのかもしれません。俺もまったくそう思い込んでいたし。
そうであるならば、200年前からの近代絵画は、新しく「自己表現」の価値を作り出し、その試行錯誤の過程は、印象派、新印象派、そしてキュビズムなどの表現の変化に表れていると考えられるということなのでしょう。
上野の国立西洋美術館に行ってきました。
中世末期から20世紀初頭にかけての西洋絵画が展示されています。フラッシュや三脚を使わなければ写真はOKです。
ところで、国立西洋美術館は、近代建築の巨匠、フランス人建築家、ル・コルビュジエが設計したものだそうで、今、フランスなど6か国と共同で世界文化遺産に推薦しているそうです。ニュースになっていました。
西洋絵画は、カメラが写し取った世界と同じような、線遠近法を取り入れた風景を目指してきましたが、印象派あたりから、その方向性が大きく変わってきます。
ふたたび絵は、写真のようなものではなくて、もっと人間性を重視した心の現実を描いた絵のほうに舵を切ることになります。昔に戻っていったともいえるでしょう。
2階の展示室にある印象派から、1階に下りると、新印象派、そしてキュビズムへと、絵の変遷は、展示室を移っていくことで実際に感じることができます。「自己表現」の試行錯誤の過程を見ることになります。
印象派のクロード・モネの「舟遊び」や「睡蓮」。ポール・ゴーガンの「海辺に立つブルターニュの少女たち」も平面的な色使いが浮世絵のようで印象的です。好きな絵です。
新印象派ポール・シニャック の「サン=トロぺの港」は「錯覚の科学」にも出てきた点描の「視覚混合」。近くで見ると絵具の点々が並べられているだけですが、約7m離れてみたら点が見えなくなりました。これも一種の錯覚なのです。
最後はピカソの絵が何点か展示されています。
西洋絵画の歴史が写真的な絵からふたたび「心の現実」を描いた絵に回帰したわけですが、ピカソはその行程を自分一人で実現した画家でした。
多視点の作品、さまざまな時間をねじ込んだ作品という意味では、歌川広重の『六十余州名所図会』の「信濃 更科田毎月鐘台山」(嘉永六年八月)や『本朝名所』の「信州更科田毎之月」などの「田毎の月」なども、まさに多視点の絵であると言えるのでしょう。
光学的には、月はひとつしか映りませんが、自分が動くか、あるいは時間が経過すれば、他の田んぼにも月が映り、それを一画面の絵で表現すると「田毎の月」の絵になるのです。広重は「田毎の月」を描くことで世界の表現をしたわけですね。
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