中国のトイレで、知らない男と並んでウンコする方法
『心理学とは何なのか』(中公新書 永田良昭著)という本を読んでいたら、太平洋戦争末期にビルマで捕虜生活を体験した歴史学者会田氏の話が載っていて、俺も同じような体験をしていたことを思い出しました。
「英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信頼されているのかとうぬぼれた。ところがそうではないのだ。(略) イギリス人は大小の用便中でも、私たちが掃除しに入っても平気であった。(略) その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音に後ろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。
「ひと」を人と思わない状況では、相対する人々が互いに相手の意図や感情・情動をもつ存在とは思わない。相対する一方だけが相手を「人」と見ない場合には、他方は、自分の存在そのものを無視された屈辱感を味わう。」
これと同じような体験です。
それは1990年ころ、香港の海水浴客でにぎわうビーチでのことです。数人の白人女性たちがやってきて、真っ裸で着替えをするのです。周りには香港人の男もいっぱいいるのに(もちろん日本人の俺たちも男だし)。このとき俺は彼女たちには、俺たち(アジア人)は、「人」に見えてないんだろうなと感じ、惨めになったというより、白人世界の現実を知ってうなだれました。
それともうひとつ、「ひと」を人と思わないことで、できることがあるんだと知った体験があります。
中国に行くようになったのは80年代半ばですが、90年代になっても、田舎に行くとトイレは個室ではなく、良くも悪くも(?)、隣の男と並んでウンコすることになります。
でも、慣れればどうってことなかったのです。それも「中国的」だと思って割り切っていました。ところが、これができなくなる場合があったのです。
ゲストハウスでのトイレで、同じ客と隣り合ってウンコをするのは苦痛でした。中国人なら平気なのです。でも隣が外国人(とくに日本人)だと、ウンコができなくて、すぐに出てきてしまいました。
俺も、中国人を「人」と思わない訓練はできていたけど、外国人(日本人)はどうしても「人」だと意識してしまうということだったんだろうなと思います。
ただ言い訳になってしまいますが、俺が中国人を「人」と思わなくなったのは、中国人でさえ、隣の人間は「人」ではないと思わないと暮らせないほど、当時の中国はプライベート空間がなく、そういった社会で暮らす術として、「人」と思わないことを生活の知恵として学んだということなのです。だから俺が特別中国人だけを差別していたわけではありません。
その応用編として、日本でも、満員電車の中で、周りの人を「人」と思わないことで、不快感を減らすという効果は日々実感しているのではないでしょうか。
でもこれは、ある意味、両刃の剣で、「ひと」を人と思わないというのは、没個人になって名前を失い、「人」ではなくなります。「人」ではないのだから、何をやってもいいし、何を言ってもいいということになりやすいのではないかと感じます。
そこで最近目立ってきたヘイトスピーチの集団です。彼らには、具体的な名前を持った個人として知っている友だちや知人はいないんだろなと想像してしまいます。
「人」ではなくて「レッテル」に対して叫んでいるだけなので、「殺す」だの何だのと酷いことも平気で言えるのでしょう。しかも集団なので、気も大きくなるわけです。
たぶん、彼らをひとりにして、実際に相手の前に立たせたら、すごくおとなしくて穏やかな人間なのかもしれません。
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