「夢の夢」を見た
この前、不思議な「夢の夢」を見ました。
去年からまた夢日記を再開しましたが、20代にやったときのように「記録しなければ」とかいった義務感はないので(ないように務めているので)、挫折せずに済んでいます。
だから覚えられない夢は、忘れるだけのつまらない夢だったんだろうなと気にすることはなくなりました。
夢の中で見たことは現実にも影響する話は前にも書いています。現に俺は夢の中で聞いたメロディ使ってヴィーノの曲『そばにいるよ』も作りました。夢の内容は覚えていないのに、しばらくの間、心臓がどきどきしていたり、悲しさや切なさで涙を流していたこともあります。
「夢は現実ではないから」という理由で夢を「とるに足らないもの」と考えるのはしかたないのですが、昔はもっと夢は重要なものだと考えられていました。
「インキュベーション」というのがありました。古代ギリシャでは、夢で主に精神的な病を治療していたのです。日本でも、長谷寺や清水寺などでは、人は篭って夢のお告げを待って病を治療していたそうです。
今考えると「なんて非科学的な」と思われるかもしれませんが、その時代では超越性が生きていて、夢治療が機能していました。でも、「神が死んだ」現代では、超越性よりも、夢の「解釈」によって治療が行われるということで、夢治療の効果がまったくなくなったわけではないようです。
それで今回見た夢が面白いのは、夢の中で夢を考えた、「夢の夢」とも言えるもので、「そうか」と気が付いたことがあります。
「突然いいアイディアが思い浮かぶときがあるが、きっと夢の中ではすでに考えたこと、見たこと、聞いたことで、それが無意識の中で眠っていて、あるきっかけで思い出すのだと俺は確信した」という夢なのです。
「天才的ひらめき」と言いますが、人間の能力はドングリの背比べで、大差はないはずで(大差がないから人類は滅びなかったのだろうし)、「無」から「有」を生み出すなんてことはないんじゃないかなとも思います。
何事も、以前の人間がやったことや考えたことを、試行錯誤で修正しながら取り入れているに過ぎないのではないかなと思います。たとえ「天才的ひらめき」でも過去の人間の影響が全くないということはあり得ないのでしょう。
「天才的ひらめき」ほどではなくても、俺たちのような凡人も、何かを突然思いつくことはよくあることですが、それも、無意識ではすでに考えていたことが、たまたま何かのきっかけがあって「思い出した」ということではないのか、ということなのです。つまり夢で考えていた、見ていた、聞いていた可能性があるのではないか。たいていの夢は忘れてしまうので、突然「思いついた」ように感じられるだけなのではないかなと。
そういう意味では、最初に、「覚えられない夢は、忘れるだけのつまらない夢」と書きましたが、意外とそうではないかもしれません。
夢というのは、自分では忘れたつもりでも、無意識の中ではちゃんと記憶されていて、それが必要になった時に思い出されるのかなと思います。人は自分が知らないところで(無意識で)、もっといろんなことを考えているのかもしれません。
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