人の顔が覚えられないコンプレックス
昔から人の顔が覚えられないことにコンプレックスを持っています。
一度会った人が、何日か後に会ったとき、前に会ったかどうかわからない、という体験が多くあります。先方は「ひさしぶりですね」と声をかけてくれるので、たぶん会った人なんでしょうが、どこで会ったかわからない。
俺は、この会場にいるんだから、この関係者に違いないと思いながら、探りを入れます。運がいいときは、それでようやく「あのとき会った人だ」と思い出すこともあるし、運が悪いと誰だかわからないまま、当たり障りの無い話をして分かれます。これはひやひやものですよ。相手が「僕のことを覚えていないんだな」ということを悟られないようにしなければならないので。
こんなことは大なり小なり、みんなにあるのかもしれないし、「俺だけそうなんだ」というのが勘違いならうれしいのですが。どうなんでしょうか。
このコンプレックス(思い込み)で、なおさら人に会うのが怖くなってしまっていたらもったいないことだとは思っています。パーティのようなたくさんの人が集まるところが苦手になったのは、このコンプレックスによる悪循環が影響しているのかもしれません。
人間はとくに人の顔に敏感だそうです。逆三角形の位置にある3点を見ると、「顔」を連想するらしい。生まれたばかりの乳児も、母親とそうでない人の顔の区別はついているらしい。
考えてみれば不思議です。人の顔は千差万別ありますが、そんなに変わりはないはずで、その微妙な差で、それが誰なのか、どういう感情なのかを、瞬時に判断しているわけです。それは神業といってもいいでしょう。
顔の判断は「平均顔」説というのがあります。たとえば日本人なら日本人の顔の平均を知っているので、そこからどれだけ外れているかの「差」で判断しているという。外国人が日本人の顔がみな同じに見えるというのは、日本人の「平均顔」を知らないからで、反対に、日本人は外国人の「平均顔」を知らないので、みな同じに見えます。
外国旅行すると、その国の滞在が長くなるにしたがって、その国の人の顔の区別がつきやすくなるという体験は俺にもあるので、この説は説得力があります。
で、最初に戻りますが、ではなぜ俺は人の顔を覚えられないのか、という疑問です。いろいろ考えてみました。
今まで学んだ心理学的知識と、俺の勝手な推理ですが、もしかしたら、自分の顔に対するコンプレックスが、関係しているのかもしれないですね。つまり顔の「差」なんて無くなってほしいと無意識で考えているかもしれないということです。「差」がなくなれば、顔の良し悪しもなくなり、コンプレックスは解消される・ ・ ・。これって、かなり深い自己分析でしょ?
当たっているかどうかはともかく、俺は人の顔の「差」に対して、何かの理由で、あまり敏感ではないということだけはいえると思います。進化的には遅れているのではないでしょうか。
「相貌失認」という病気があるそうです。近しい人や有名人の顔がわからなくなる病気です。それと「カプグラ妄想」という症状も。身近な人の顔を見て、誰だかはわかるのに、表情がわからない。だから能面のように感じ、ロボットや宇宙人に入れ替わったと本気で信じるらしい。
人の顔の判断は特別なんですね。人の顔色を窺うことか、複雑になった人間社会で生き抜くために身に着けた特殊技能なのです。
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