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2015/11/12

ふたたび「3歳半の記憶」について

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先日、ある雑誌の編集者たちと打ち合わせをしたとき、子供のころの記憶が話題に上りました。

以前、「3歳半の記憶」についてはこちらに書いています。初めは依頼された文章中に書いたことだったのですが、あとになるに従って、この「3歳半の記憶」が、ほんとうに俺が実際体験した記憶なのだろうか?と自信がなくなってきたのです。

なぜ「3歳半」かというと、3歳半離れている妹が生まれたときの記憶だからなのですが、あまりにも視覚的、聴覚的、嗅覚的に、イメージが鮮明なのです。いや、鮮明すぎるのです。だからかえって怪しいと感じるのです。

人は、想像したことと、実際にあったことの区別は、そのイメージの鮮明さで判断しているらしい。イメージが鮮明なら、ホントに体験したこと。イメージがあいまいなら想像や、夢で見たことだろうというふうに。

偽記憶を植えつけられる話は前に書きましたが、植えつけられやすい人は、イメージ力に優れた人らしい。映像関係の仕事をしていたら、その可能性は大ではないでしょうか。

記憶のイメージが鮮明なら、それはホントに体験したことなのだと信じやすいということでもあります。

そこで「3歳半の記憶」なのですが、疑うのは、稲が積み上げられた部屋を俯瞰しているイメージもあるからです。天井の方から部屋全体を見渡すような、そんな位置から3歳半の子供が見れたのか? ちょっと考えにくい。

でも、俯瞰したイメージだけは想像したもので、あとはホントの記憶だとも考えられるし、とにかく、記憶というのはあいまいで、信用できないのです。

「記憶とは水に溶けたミルクのようなもの」と心理学者のロフタスは言っています。記憶というのは、メモに書いたものを引き出しにしまっておいて、取り出しているのではないらしいのです。

そこを自覚しておかないと、たとえば、事実は違っているのに、「自分は見た」という記憶によって(思い込みによって)、事件の証言で人を冤罪に陥れてしまう恐れもあります。

自分の記憶で一番初めのものは「最早期記憶」といいます。俺の場合は、この「3歳半の記憶」か、あるいはもうひとつあるのですが、母親におんぶされているところです。だから映像的には母親の背中越しに見える光景です。仏壇に座った母親がなぜか泣き始めたという記憶です。

どっちの記憶が早いのかはわかりません。おんぶされていたので、もしかしたら、こっちの方が早いのかもしれませんが。

三島由紀夫は自分が産湯につかっている記憶があったといいます。ずいぶん早い記憶ですね。たいていの人の最早期記憶は、3歳前後らしい。その前の記憶が思い出せないのは「幼児性健忘」と呼ばれます。

なぜ、みんな3歳ごろの記憶が最早期記憶なのかといえば、そのころに自意識が芽生えることと関係があるらしい。たしかに「妹が生まれた」というのは、自分と妹は違う存在だとわからなければだめだし。

三島由紀夫の最早期記憶は、「産湯につかる」という意味がわからなければ、記憶できないような気もするし、言ってはなんですが、とても怪しい。彼の作られた記憶かもしれません。いや「嘘だ」というのではありません。そもそも記憶とは「水に溶けたミルクのようなもの」で、あいまいで不確かなもの、らしいので。
 
 
 
 
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