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2015/12/31

新しい認知行動療法「マインドフルネス」と犬の散歩

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12月25日の毎日新聞に新しい認知行動療法「マインドフルネス」のことが載っていました。

日本でも12月から従業員50人以上の事業所ではストレスチェックが義務つけられました。

それもあって、この新しい認知行動療法の「マインドフルネス」も注目されているようです。グーグル、アップルなどアメリカのIT企業も研修プログラムに採用しているものです。

「マインドフルネス」とは「一切の評価や判断を挟まない気づき」のこと。ストレス低減法で、自分でもやれる方法だそうです。

新聞には、

「自分が体験する「今この瞬間」に意識を集中することで、過去の失敗や将来への不安がもたらすネガティブな感情に気づき、それらと距離を置き、やり過ごすことができるようにする」

「認知行動療法」の教科書のP.22には、

「不適切な思考の変化を強調せず、非判断的で、受容的な注意の配り方を習得できるように援助するもの。…(略)…習慣的となって凝り固まっていた不適切な認知から自由になることが目指される」

とあります。

認知行動療法の第3世代と言われるもので、「禅」や「仏教」にも通じるところがあります。瞑想法が取り入れられて、マインドフルネス認知行動療法に発展したものです。より東洋思想に近づいたそうです。

新聞には「呼吸のエクササイズ」と「歩くエクササイズ」が紹介されています。

俺も最近は呼吸を意識するようになりました。空気が鼻孔を通るときの感覚、吐き出したときの唇内側の感覚などです。「今この瞬間」を意識すること。

そして匂いに敏感になった気もします。ヴィーノの影響が大きいです。

ある路地を曲がったとき、人の姿が見えなくても、今しがた人がここを通ったな、くらいはわかるときもあります。微かな人の匂いが感じられるのです。どれだけ時間が経っているかはわかりませんが。

犬の散歩というのは馬鹿にできませんね。ただ単に、歩くから体にいいだけではなく、より精神的な効果もあるようなのです。

それはもしかしたら「今この瞬間」を意識することが多くなったからかなぁ。犬の散歩というのは知らず知らずのうちに「マインドフルネス」を実践していることになるのかもしれません。(こじつけ?) ヴィーノはまさに「今この瞬間」を大切に生きている動物だし、気づきにも「一切の評価や判断を挟まない」のは確かでしょう。
 
 
 
 
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2015/12/30

TVドラマ『赤めだか』 落語は、「人間の業の肯定」

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(兵庫県たつの市室津から赤穂市方面の海を望む)


この前のTVドラマ『赤めだか』を観ました。

立川談志(ビートたけし)に弟子入りした立川談春(二宮和也)が主人公の師弟愛を描いた人間ドラマです。(原作は立川談春著『 赤めだか 』 (扶桑社))

談志師匠は落語についてこう言います。

それは「人間の業の肯定」だと。

たとえば、「忠臣蔵」では討ち入りに参加した赤穂四十七士が描かれるけれど、 討ち入りに参加しなかった方の浪士たちを描くのが「落語」であると。

なんだか、妙に納得できます。決して英雄ではない、きらきらした目立った存在ではない、ちょっと間抜けな人間で、でも愛おしい。良いところ、悪いところ含めて人間とはそんなもの。こういった感覚でしょうか。

ほぼ99パーセントの人は英雄にはなれません。「普通の人」です。でも、というか、だからこそなのかもしれませんが、落語を聞いていると「あなたはそれでいいんですよ」と肯定されているような安心感や勇気を覚えます。

人間の曖昧さ、愚かさ、ずる賢さ、情に流されやすさなどを肯定するという意味では心理学も同じかもしれません。

たとえば、人間が森の枝葉に幽霊を錯覚して見てしまうことも、人をステレオタイプで判断してしまうことも、権威者からこうしなさいと言われたらけっこう残酷なこともやってしまうことも、ブランドに頼ってものを買ってしまうことも、「だめだなぁ」とマイナスにだけ捉えるのではなくて、これはある意味人間が社会や環境に適応するために進化してきた能力だという捉え方に、そうなのかぁと気づかされたのです。

人間の「短所」を知ってなお、人間のことを見捨てないという感覚。「短所」は「長所」でもあるということ。

心理学が落語と似ていると感じるのはそのあたりですね。

ところで談志師匠の、

「決して落語だけを愛する観客たちの趣味の対象になるんじゃねえ」

というセリフ。よくわかるなぁ。「落語」を「写真」に替えても同じです。
 
 
 
 
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2015/12/29

JAXAが閉鎖環境実験の一般参加者を募集中のニュース

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こんなニュースがありました。

「2週間で38万円支給!JAXAが閉鎖環境実験の一般参加者を募集中、飛行士のストレス把握手法研究のため」
http://japanese.engadget.com/2015/12/27/2-38-jaxa/

「募集対象は20~55歳の健康な男性」なので、例外なしとすると、年齢制限でひっかかってしまうのでだめかもしれないですが、応募してみたいですね。

と、思ったら、すでに「受付終了しました」ですと。???

http://www.jcvn.jp/jaxa/

閉鎖環境で生きるという意味で、数年前こんな事故がありました。俺と妻とヴィーノの3人で車中泊で日本一周していたときです。

チリのサンホセ鉱山の落盤事故。地下700mの地下シェルターで作業員たちが生きていて、33人全員無事に救出されたというものでした。

救出されるまで3ヶ月、必要だったのは「希望」と良好な人間関係だったそうです。実際「エスペランサ(希望)」がキーワードになりました。

責任者の強いリーダーシップのもと団結していたらしい。それでなくても個性の強い作業員たちです。たぶん全員の意見を民主的に聞いていたら生き残れなかったかもしれません。やはり「アルファ」が必要なのだろうと思います。

ほとんどの哺乳動物は平和を維持するために進化した支配の序列をつくるらしい。自分の地位をわきまえれば争わずに済むというのです。

そこで、ボス(首位)は「アルファ」、第二位は「ベータ」といいます。

「閉鎖環境」とまではいきませんでしたが、濃密な閉鎖空間に近い車の中で、どのようにすれば争わずにすむのか、ストレスを減らせるのか、俺たちもある意味、「車中泊」でその実験をやっているようなものでした。

四六時中同じ車内で過ごすわけですからね。楽しいだけの旅ではありませんでした。時々喧嘩もしました。(だからやりがいがあったのですが)

「車中泊」という旅の常識が妻とふたりで共有できるようになると旅がスムーズになったという感じがします。

そしてもうひとつ、誰がボスになるか、ということも重要でした。つまり、この三頭(俺・妻・ヴィーノ)の群れの「アルファ」が決まらないと、群れは安定しないのです。船頭は一人でいいと言われますが、これは真理をついていることを肌身で理解しました。

ただし、俺たちの場合、いつも決まった誰かが「アルファ」であり続けるということではなくて、たとえば、食事を決めるときには妻が「アルファ」になり、目的地へ向かうルートを決めるときは俺が「アルファ」になるということなのです。

そういう暗黙のルールのようなものが、だんだん固まってくると、旅がしやすくなるというのがわかりました。

ただ、散歩をしているときは、ヴィーノが「アルファ」になっているように感じていましたが(今もそうですが)、これは「しつけがなっていない」ということなのでしょうか。(犬のしつけの本には、例外なく「飼い主がアルファにならなければならない」と書いてあるからです。でも、このことについては、あまりにも「欧米式しつけ」ではないかと俺は批判的ですが)

チリの落盤事故からも、俺たちの車中泊の「実験」からも、閉鎖環境においては「民主的」というのは意外と役に立たないものだというのがわかりました。「民主的」は理想かもしれません。でも、それは各人の意識が高く、冷静で、平和時に機能する価値観なのではないかとも感じたのです。非常時にはもろいのです。(犬に「民主的」を説いても無駄ですし)

以上、個人的な「実験」の感想なので、これが一般化できるかどうかはわかりませんよ。でもこれから長期の車中泊を考えている人がいれば参考になるかもしれません。この件は『妻と犬連れ日本一周、車中泊の旅』にも書いています。(すみません、宣伝させてもらいました)

とにかく、閉鎖環境での実験というは、拡大解釈すれば、地球という限りある空間にも通じるわけで、どんなふうにすれば人間が共存できるか?という意味では、相似形なのではないかなと思います。

将来の宇宙空間で生きる方法としてだけではなく、今、この地球上で生きる方法にも、何か新しい知見をもたらしたらおもしろいですね。
 
 
 
 
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2015/12/27

心はどこにあるか? それは棚田の中にある

151227(長野県千曲市 姨捨の棚田)

151227_2(新潟県十日町市 ハート型の田んぼ)


心はどこにあるかと尋ねられたとき、なんと答えるでしょうか。「棚田の中にある」などと答えたら「お前バカか?」と言われてしまうかもしれません。でも、この答えはあり得るという今日の話です。

普通に答えるなら、ある人は頭(脳)といい、ある人は胸のあたり(心臓)と答えるのではないでしょうか。俺も直感的には胸のあたりを指すと思います。

「認知神経科学'12」では、面白いことを知りました。

「心」の語源は「凝り(こごり)」という説があります。これは「煮凝り」の「凝り」のことでしょうか。

もともとは動物の内臓のことです。体こそが心だと思っていたようなのです。心と体は切り離せないものでした。言われてみれば「頭(脳)」と考えるようになったのは最近になってからでしょう。

古代中国でも、心は心臓、腹部、胸部に宿っていると考えられていました。(wiki参照

日本でも、心は腹にあると思っていました。だから武士の「切腹」は、心の中身を見せる、つまり心に偽りがないことを見せるためだというのです。

「認知神経科学'12」p.262には最近の研究についてこうあります。

自分の心はどこにあるかということについて、「身体内部だけではなく、外部環境とのやりとりも含めて心であるという見方もある。心は何らかの空間を占めているという実体ではなく、機能なので、心のはたらきを実現している実体を身体の外にまで拡張して考えることも原理的に可能と思われる」

Wikiにもこうあります。

「最近では、アントニオ・ダマシオらによって、脳だけで説明しようとする理論では不十分なところがあり、脳に加えて身体まで含めた総体のダイナミックな相互作用が意識や心という現象を作り出しているとすべきだ、と指摘されるようになっている」

科学が発達して、心は脳の状態と関連があるということがわかったのでしたが、でも最近では、脳だけあっても心・意識は生まれず、脳、身体、環境の相互作用で心・意識が生まれるというふうに変わってきているらしい。

自分の心・意識が自分の外にもあるという話、周りの環境も自分の心・意識の一部であるかもしれないという話は面白いなぁと思うし、世界の田園風景を旅してきた経験から、納得できることもあります。

これで以前書いたTPPによる環境の変化は、日本人の心に与える影響が大きいのでは?という話とつながってきます。環境だけが変わるわけではないというのがミソです。

TPPは経済的な問題だけではなくて、やっぱり心・意識の心理的な問題でもあるのです。そこに目をつぶって経済的なメリットに走ろうとするのは、まるで「悪魔に魂を売る」ような行為なのかもしれないですね。

金持ちには(短期的には)なれるかもしれないですが、それと引き換えに、幸福感は薄らぐのかもしれません。

「私の心は棚田にある」という答えはちょっと極端な言い方ですが、こういう意味でした。
 
 
 
 
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2015/12/26

『The people of the 80s of Xinjiang (新疆) in CHINA』


 

1980年代の中国新疆ウイグル自治区の人々のスライドショー。
 
塔什库尔干(タシュクルガン)、乌鲁木齐(ウルムチ)、吐鲁番(トルファン)、喀什(カシュガル)で撮影。

Music: Uyghur music at Turpan
  
 ☆
 
The people of the 80s of Xinjiang in CHINA [Kindle版]

http://www.amazon.co.jp/dp/B019PZTTF2
 
 
 
 
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2015/12/24

ジオラマの魅力、クリスマスのときに飾る「プレゼピオ」と「箱庭療法」

151224_1(タイ バンコク国立博物館)

151224_2(兵庫県 姫路城の天守閣)

151224_3(岩手県田野畑村 机浜番屋群の資料館)


カトリックの国イタリアでクリスマスツリーを飾るようになったのは、意外にも、第二次世界大戦末期のことで、しかも伝えたのはアメリカ兵だったそうです。

それまでカトリック教徒はツリーではなくて、イタリア発祥の「プレゼピオ」を飾っていました。

プレゼピオとは、イエス・キリストの誕生のシーンをテラコッタの人形で再現したミニチュアのジオラマのこと。(検索すれば画像がたくさん出てきます)

クリスマスは冬至祭が起源という話は前にも書きました。

ローマ帝国で信仰されていたミトラス教では、冬至を大々的に祝いましたが、それは太陽神ミトラスが再び生まれるというお祭りでした。(短くなった昼の時間が、今度は長くなっていく転換日が冬至)。

その太陽神の誕生日12月25日が、キリスト教が公認されてから「クリスマス」になったとの説が有力のようです。

ミトラス教神殿のベンチをプレゼピオと言い、それがクリスマス飾りのミニチュアを指す言葉となって残っています。

ところで、スイスでもクリスマスの時にはプレゼピオを飾っていたらしい。スイスでミニチュアを使う箱庭療法が生まれたのは偶然なのでしょうか。

箱庭療法とは、スイス人のドラ・カルフがユング心理学を基盤として発展させて確立した心理療法です。箱庭にミニチュアの人形や動物や建物や植物などを配置するもので、無意識に降りてゆき、心を癒すひとつの方法として取り入れられているものです。

日本でも、盆の上に石を置いて風景を作る「盆石遊び」など、伝統的に箱庭で遊ぶ文化があったので、箱庭療法が受け入れやすかったそうです。ちなみにノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士も子供のころ盆石遊びをしていました。

いまでも「ミニチュア(最近ではフィギュアという言い方が一般的になってきたようですが)で遊ぶ」というのが「癒し」になっているのでしょう。

ミニチュアを飾ったジオラマって魅力的なんですよね。この感覚は、棚田に立った時も同じように感じるのですが。各地を旅行して、博物館や資料館でジオラマを見かけると、つい写真を撮ってしまいます。
 
 
 
 
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2015/12/23

新国立競技場、棚田に見える「木と緑のスタジアム」A案に決定

151223(熊本県水俣市寒川地区棚田)


新国立競技場 、棚田に見える「木と緑のスタジアム」A案に決定しました。

A案は、隈研吾氏らが提案したもので、「広く市民に開かれた木と緑のスタジアム」だそうです。

個人的には柱が72本立つ 、二十四節気 七十二候を表現する「旧暦こよみ」のB案を押していたんですが。

B案の方が「日本らしさに配慮した計画」「環境計画」など5項目ある「デザイン項目」では少し勝っていましたが、「コスト・工期」でA案に差を付けられて負けました。

「確実に安く建設する」ということに重点が置かれた結果なんですね。ザハ案ですったもんだした挙句の再公募なのでしかたないのかもしれません。

こういう負け惜しみ言うかなぁ…

新国立のデザイン案にザハ氏「とても似通っている」
日刊スポーツ http://www.nikkansports.com/sports/news/1582490.html

見苦しいですね。デザイン的には優っていたかもしれないですが、品格としては?と自覚したほうがいいと思います。

とにかく、B案には庭園に棚田も予定されていたので、できなくなったのは寂しいですが、ただA案は層になったところに緑が見えて、外観自体が棚田にも見えます。隈氏によると、「棚田」ではなくて「五重塔」だそうですが。「棚田」に見える俺はやっぱり「棚田病」なんでしょう。

A案は木造らしさがよくわかる建築で、日本らしさを表現しているという意味で、結局はどちらでも良かったのかなと思います。
 
 
 
 
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2015/12/22

今日は二十四節気「冬至」、七十二候「乃東生(なつかれくさしょうず)」

150622(夏至のころの「靫草(ウツボグサ)」、別名「夏枯草(カコソウ)」)


冬至は、北半球では一年のうちで昼が最も短く、夜が最も長くなる日です。

「一陽来復」という言葉には、陰の気が極まって陽の気が生じるという意味があり、冬至のことを指す場合があります。「悪いことが続いたあと、ようやく物事がよい方に向かうこと」という意味もあるそうです。(デジタル大辞泉参照)

「二十四節気」の冬至は次の3つの「七十二候」(略本暦)に分かれます。

●初候 乃東生(夏枯草が芽を出す)

●次候 麋角解(大鹿が角を落とす)

●末候 雪下出麦(雪の下で麦が芽を出す)


冬至の対に当たるのが、一年で最も昼が長い日「夏至(げし)」です。そして夏至の初候は「乃東枯(なつかれくさかるる)」で、これも「乃東生」と対になっています。

「乃東」というのは、「靫草(ウツボグサ)」のことで、冬至のころに芽を出し、夏至のころに枯れることから別名「夏枯草(カコソウ)」といいます。写真は夏至のころに撮影したウツボグサ(カコソウ)です。
 
 
 
 
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2015/12/19

2016年の干支「猿・申・さる」の年賀状デザイン (マダガスカルのサル追加)

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これはマダガスカル西部、バオバブで有名なムルンダヴァ郊外、キリンディー公園の野生のサル、ベローシファカ。

ジャングルを2時間歩いて(歩かされて)、ようやく出会ったベローシファカは、木に寄りかかって楽しそうでした。

こっちは汗だらだらで撮影に必死なのに、涼しい顔して、人間様(俺と妻、現地ガイドとフランス人旅行者)を観察していました。
 
 
http://www.asia-photo.net/yunnan/dongba/2016/index.html


 
 
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2015/12/18

軽減税率のテイクアウト用に使う「エアー紙袋」の、ばかばかしい提案

151218(使い捨て皿と割り箸なので、これは軽減税率)


軽減税率で騒いでいますが、たった2パーセントにこれだけ無駄な時間を取ってもメリットを感じることができる人は、貧乏人ではなくて、富裕層ですよね。たくさんお金使えば2パーセントでも大きいですから。

まったく貧乏人を馬鹿にしています。こんなことで痛税感を軽減できるんだと本気で考えているんでしょうか。

専門家もメリットがないと言っているのもかかわらず、軽減税率にこだわるのは、いろんな人が言うとおり選挙対策でしかないんでしょう。

しかもエコじゃない。

たとえばヨーロッパではこういうことがあるそうですね。店内で食べると普通の税率、テイクアウトは軽減税率。なので、ハンバーガー店ではサービスなのか、全員のお客さんを「テイクアウト」とみなして、いったん紙袋に入れるそうです。それから先は、店内で食べる人は店内で、本当にテイクアウト希望者は持ち帰るらしい。

だから本来は店内で食べるつもりの人のハンバーガーを入れる紙袋が余分に使われてしまう。その無駄に捨てられる紙袋がすごく気になるそうです。

たしかに。

でも、店側としても、最初から全員が「テイクアウト」であれば、いちいちどっちにするか聞く手間も省けるし、計算も簡単で、紙袋代がかかったとしても「安上がり」なんでしょう。

当然こうなりますよね。

だったらひとつ提案です。ばかばかしい物に対抗するには、ばかばかしい物で、ということで。

「テイクアウト」が客と店との暗黙の了解ならば、紙袋も「エアー紙袋」を使うのです。「みなし紙袋」。見えないけど、みんなが「ある」と、暗黙の了解をするというわけです。そうすれば無駄な「本物の紙袋」も節約できて、気にならなくなります。

注文のときは、「エアーでお願いします」とでも言うことにすれば。どうでしょうか。ハンバーガー店だけではなくて、いろんな店で使える方法だと思います。
 
 
 
 
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2015/12/17

【新国立競技場 B案】 現代に復活する巨大な「旧暦の日時計」

151217_1(秋田県鹿角市 大湯環状列石)

151217_2(大湯環状列石の日時計状組石)


新国立競技場のA案、B案ともに甲乙つけがたい案で、どっちがいいか迷ってしまいます。

別に、俺に決定権があるわけではありませんが。

見た目、A案の方が、段々になった階層に緑があって「棚田」に見えます。より自然に溶け込みやすい外観かなと思います。

B案の方は72本の柱が立っていて、旧暦の二十四節気、七十二候を表し、庭園には棚田も作られるということで、こちらも捨てがたいものがあります。

どちらも「自然」を意識した建築ですが、A案はより「森」に、B案はより「季節」に寄ったコンセプトなのではないかなと素人目には感じました。

B案は、トラックを1周すると1年になり、季節ごとに庭園の植物や動物なども変化するようで、現代に復活した巨大な「旧暦の日時計」のようです。

そして、もし冬至と夏至にしか太陽が見えない小窓(穴)なんか、どこかに隠してこっそり作ったりしたら、デザイナーの遊び心に感心するのですが。

時を刻む日時計は、「競技のタイム」を象徴しているようでもあり、なかなかいいですね。

どちらかというと、今のところ俺はB案がいいかな。実際、「旧暦棚田ごよみ」のコンセプト(そんなものあるか?)に近いと思うし。

と、勝手に解釈してスミマセン。B案関係者の皆様。
 
 
 
 

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2015/12/16

風景写真が「パクリ」と言われる条件

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東京五輪のエンブレムの応募が締め切られ、これから選考に入るようですね。今度も「似ている、似てない」で大騒ぎするんでしょうか。

デザイン業界での「パクリ」に関しては、最近では、神戸「目玉ロゴ」が村上隆氏作品の「パクリ」ではないかとネットで騒がれているというのもあります。
(Nifty NEWS http://news.nifty.com/cs/domestic/phdetail/jcast-20151208-252661/1.htm

また、音楽業界では、平浩二氏の新曲『ぬくもり』の歌詞が、Mr.Childrenの『抱きしめたい』と似ている(というよりほぼ同じ)という騒動もあります。作詞家は沢久美さんという人物ですが。

写真の「パクリ」について考えてみました。写真はデザイン、絵、文章といった他の表現とはちょっと違った感じがします。

写真で「パクリ」と言われるのは、「完全に同一の写真」と「その写真を加工したもの」ということではないでしょうか。

「完全に同一の写真」というのは、要するに「コピーした写真」です。「完全に」とわざわざ書いたのは、こういうことがあるからです。

とくにこれは風景写真にいえることですが。

たとえば、どこかで俺が風景写真を撮っていたとします。いいアングルだと思って、三脚を構えて写真を撮っていると、そこへ他のカメラマンがやってきて「いい写真撮れますかぁ?」とか聞きながら、俺の隣に三脚を立て、同じアングルで写真を撮り始めます。しかも、俺のカメラ、レンズと同じだとします。

こういう場合、できあがった写真は「ほぼ同一」という可能性があります。カメラAとカメラBで撮った違いだけ。この二つは限りなく「同一」の写真ですが、でも、やっぱり「同一」とは言いません。そして「パクリ」と言うのも抵抗があるし、例えば「パクリ」と訴えても、訴えは通らないと思います。カメラアングルを真似され、「限りなく似ている」のは間違いないとしてもです。

それを避けるには、他のカメラマンがそばに来た時点で「ここで撮らないで」と言うしかないけど、それは難しいし、「何言ってるの?」という話です。風景のアングルを独占する権利はないからです。

上に掲載の写真は、今年9月、新潟県十日町市星峠の棚田で撮った写真ですが、これと酷似した写真は世の中に複数存在します。なぜそれがわかるかというと、この日、この時、俺の周りには複数のカメラマンがいたからです。でも写真はどんなに似ていようが、自分のオリジナルを主張できるし、「パクリ」とは言われません。カメラが違えば。

芸術作品のオリジナリティという観点から見ると、ほぼ同じですが、写真の場合は難しい。ここが絵やデザインや文章と違います。

逆に、絵やデザインや文章は、「完全に同一」でなくても「パクリ」と言われてしまいます。

この違いはどこから来るのでしょうか。カメラという機械を使わなければ写真は撮れないことと関係あるでしょう。

いや、もしかしたら、みんなの心の中にそもそも写真は、物理的世界のコピー(パクリ)であり、オリジナリティなんてないんだ、少なくとも絵やデザインよりは、一段低いオリジナリティしか持ちえないんだと、無意識で思っているのかもしれません。

でも、それは違うと思います。確かに「画面」だけに焦点を当てると、物理的世界のコピー(パクリ)に違いありませんが、瞬間の選び方、アングルの切り取り方、写真家の思想、そういったものは、絵やデザインに劣らない写真家のオリジナリティなのです。

いや、物理的世界のコピー(パクリ)という制約(ルール、枠)があることで、かえって面白いということもできるのではないかなと思っています。
 
 
 
 
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2015/12/15

【電線王国】 東大から上野公園へ 

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知り合いの写真展に寄ったあと、近くの東大農学部へ。

前から気になっていた「忠犬ハチ公」の像を見に行きました。

この農学部のハチ公と上野英三郎博士像は、ハチ公没後80年にあたる今年2015年3月8日に除幕式が行われたものです。

イチョウが構内の通路に積もっていて黄色い世界ですが、門を入ったすぐのところにありました。

そのあと言問通り、不忍通りを上野公園まで歩きました。

以前は東京都内に住んでいましたが、すっかり最近は、東京都内さえも、「旅先」になってしまいました。だから新鮮なものがあります。
 
 
 
 
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2015/12/13

年賀状候補の2016年干支「猿・申」用の写真 『俺の年じゃ!』

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年賀状をどうしようか考えています。考えているときが一番楽しいですね。

例年だと、トンパ文字を構成したもので、写真は使いませんでしたが、「猿・申」であればアジア各地で遭遇しているので、その写真はあるし、それを使ってみるのもいいかなと。候補のひとつ。

日光いろは坂など、日本の観光地でもサルの被害はありますが、アジアでも事情は同じです。

今まで恐怖を感じたサルは2ヶ所。1ヶ所はネパール・カトマンズのスワヤンブナートの階段で襲うサル。そしてもう1ヶ所は、インドネシア・バリ島南端のウルワツ寺院のサルで、けっこう凶暴です。

写真のサルは生卵を食べていました。観光客から奪ったものなんでしょうが、なぜ「生」だったのか、よくわかりません。

カメラを向けたら食べながら威嚇してきました。


http://www.asia-photo.net/yunnan/dongba/2016/index.html

トンパ文字(東巴文)は中国雲南省北西部、麗江を中心に住むナシ(納西)族に伝わる象形文字です。
 
 
 
 
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2015/12/12

太鼓打ち・富田和明さんと、鼓童の歌姫・藤本容子さんの舞台 『容子和鼓(ようこ かずこ)コンサート 2015』

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打組の太鼓打ち・富田和明さんと、鼓童の歌姫・藤本容子さんの二人だけの唄太鼓舞台の公演は昨日と今日の2日間。

今回は藤本容子さんを迎えて、唄を中心にした舞台になっていますが、富田さんも新境地を開拓したという感じでしょうか。

藤本容子さんの歌声は伸びやかで、モンゴルの草原に立って、地平線を眺めているような気分にさせてもらいました。記録写真を撮らなければならない立場でしたが、思わず聴き入ってしまいました。

どうして二人の、佐渡島・鼓童ではぐくまれた唄と音がアジア的普遍性を持つのか、不思議です。

今日も公演があります。興味のある方はぜひどうぞ。

 
『容子和鼓(ようこ かずこ)コンサート 2015』

今日12/12(土)は、夕刻5時開演(開場30分前)

会場: ティアラこうとう小ホール

東京都江東区住吉2-28-36 Tel / 03-3635-5500

http://www.tomida-net.com/huyu2015.html

 
 
 
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2015/12/10

皇居乾通りの紅葉とDJポリス

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151210_3(トウカエデと富士見多聞)

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皇居乾通り一般公開が12月5日から12月9日まで行われました。期間中の5日間で、202,820人の来場者があったそうです。(宮内庁HPより)

昨日の最終日に行ったのですが、天気は快晴で紅葉もきれいでした。とくに、黄色に赤が混じった葉は、午後の光を受け青空に映えて良かった。

入場は、坂下門から乾門までの一方通行です。門の手前では、厳重なセキュリティポイントが設置されていました。荷物検査とボディチェック。世界でテロが多発するこういうご時世だから、この検査に時間を取られるのはしかたありません。むしろ、きちんとやってくれてありがたいと思います。

「皇宮警察」のシェパードも出動中でした。ヴィーノとは違ったりりしいお姿。

乾通りにも、警察官や警備員がたくさん立っていて、中には「DJポリス」を意識したんでしょうか、妙に文学的な言い回しでアナウンスする警察官もいたのですが、意識し過ぎたのではないでしょうか、ちょっと失笑する箇所もありました。そこまで気の利いたことを言わなくても。普通に誘導してくれても感謝しますよ。

普通の日は通れないので、立派な石垣と大手町のビル群のコラボも珍しい。「富士見多聞」の石垣はすばらしかった。初めての乾通りでしたが、なかなか面白いですね。

今度は桜の時期にも来たいと思います。

宮内庁HPには、「平成28年は,春季の桜の時期の実施を予定しておりますが,具体的な実施時期は,平成28年3月上旬頃に発表します。」とあります。
 
 
 
 
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2015/12/09

藤田嗣治の戦争絵画と映画 『現代日本 子供篇』

151209(4F休憩室「眺めのよい部屋」からは皇居と丸の内のビル街が)


東京国立近代美術館では、MOMATコレクション特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示が開催中です。戦争画14点の一挙展示は初めてだそうです。(2015年12月13日まで)

第2次大戦中、戦争画を描いたことから「戦犯」と批判されて、嫌気がさした藤田は、日本を出てフランスに渡りました。

「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と言ったそうです。1955年にはフランス国籍を取得しました。

戦争画を描いたのは、ヨーロッパから帰国後の1932年(昭和7)から1949年(昭和24)の間です。『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』、『アッツ島玉砕』などの作品を手がけました。

陸軍報道部からは、国民を鼓舞するための絵を求められて描いたそうですが、戦場で戦う兵士たちの暗い画面の群像は、戦争の残酷さ、惨めさなどを感じさせる、おどろおどろしい絵のように感じます。「戦争協力者」の批判が的外れに感じるほど、人間の本質を描いた作品のようでもあります。

藤田は、西洋で認められた画家で、日本人画家には羨望の眼差しで見られていました。陸軍関係者の多い家柄だったということもあり、戦犯として批判するにはもってこいのターゲットだったのでしょうか。

なお展示会場の一角には、俺にはすごく興味深いコーナーが設けられていました。藤田が監督した日本の子供たちの生活を撮った映画です。

『現代日本 子供篇』"Episode of children" from Picturesqu Nippon.

1935年(昭和10)製作、8分38秒の作品です。

日本に帰国後、藤田は戦争画を描くと同時に、民俗学者のような視点で地方の文化も描くようになったそうです。ヨーロッパを見続けた藤田にとって日本はエキゾチックな「「異国」に映ったに違いありません。創作意欲が刺激されたのではないでしょうか。

そんなとき、海外向けに日本を紹介する映画シリーズ『現代日本』の監督の依頼がきました。担当したのが『日本風俗』の5巻。ただ、現存するのは唯一この『子供篇』だけだそうです。

ロケ地は愛媛県松山市。散髪屋、紙芝居、祭り、遊びなどの映像が、少ないセリフとともに淡々と流れます。昭和初期の風俗がめちゃくちゃ面白いですね。夜には真っ暗になり、妖怪がまだうようよいた時代です。

でも驚いたことに、子供たちが「貧しげで国辱的」と批判を受けて、お蔵入りになってしまった映画だそうです。どこが「国辱的」か俺にはわからないですねぇ。子供たちは生き生きしていると思いますが。批判した人間は何と比べて「貧しい」と判断したのでしょうか。


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2015/12/08

山形県朝日町地域おこし協力隊募集のお知らせ

151208(山形県朝日町「椹平の棚田」)


山形県朝日町で、15年後も笑顔で暮らせる集落を残したいという思いから、地域おこし協力隊員の募集が始まりました。

具体的な場所は、8戸15人が暮らす白倉集落です。

森林資源や暮らしの知恵・技は脈々と受け継がれ、住民たちはその恩恵を有効に活用しながら、自然と一体となった自立した営みを実現しています。でも、ここも高齢化の波は避けられません。

そこで、住民といっしょになって汗を流し、泣き笑いしながら活動してくれる地域おこし協力隊員を募集することになりました。

この事業では、人とのつながりが最も大事なので、人、文化、自然環境などを理解し、集落に馴染むため、次のようなことも行います。

①集落の事業や行事への参加、準備等手伝い

②暮らしの知恵や技の習得

③高齢者の話し相手、見守り

などなど。


生活は都会に住んでいるようなわけにはいかないので、不便になるかもしれないですが、やりがいのある仕事ではないでしょうか。俺ももっと若かったら考えたんですが、年齢は24歳以上45歳以下です。

なお、住居は、およそ築100年の一軒家が用意されています。

まずは、1泊2日の集落体験から始まります。またこの集落体験をすることが応募条件にもなっています。応募者、地域の人、双方にとっての相性を見る「お見合い」みたいなものです。

詳細はHPでどうぞ。

http://asahimachi-chiikiokoshi-boshu.jp/


窓口: 朝日町役場 政策推進課 地域振興対策室
電話: 0237-67-2112
 
 
 
 
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2015/12/07

水木 しげる著 『水木サンの幸福論』の「幸福7か条」と「南方病」

151207(雲南省シーサンパンナのコングー族)


水木しげるさんが亡くなって、ネット上でもこの『水木サンの幸福論』にある「幸福の7か条」というものが話題になっています。

■ 幸福7か条

  第1条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
  第2条 しないではいられないことをし続けなさい。
  第3条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
  第4条 好きの力を信じる。
  第5条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
  第6条 なまけ者になりなさい。
  第7条 目に見えない世界を信じる。


第1条は、なかなか難しいですね。「成功したい」と思ってしまうのが凡人なのです。第2条から第4条まで実践すれば、自然と第1条にはなるとは思いますが。

ただ俺も「勝ち組、負け組」という言い方は嫌いだし、だいたいにして、これは自分を勝ち組だと錯覚している人間が、自分の「成功」の幻想を壊されたくなくて、あえて作ったレッテルでしょう? 彼らはそれだけ自信がなく、自分がいつ「負け組み」に落ちるか怖がっている、その裏返しとも言えるわけです。

「人生は旅」と言われます。

「旅」が好きな人間は過程こそ楽しんでいるのであって、目的地そのものは意外とどうでもいいと、ちゃんと分かっている人が多いと思いますよ。

「旅」に成功とか、失敗とかありませんよ。それと同じです。

ところで、この本には、「南方病」というのが出てきます。

棚田病」、生物学者長沼毅さんの「白い病」、旅に出たくなる病の「ワンダーラスト」、そして水木さんの「南方病」。

どれも同じような病で、「病」と表現せずにはいれない感覚があります。これは「第2条 しないではいられないことをし続けなさい」そのものですね。

「ゲゲゲの鬼太郎の妖怪大作戦」というイベントで再会した元上官から、水木さんは、寝ても覚めても南の楽園のことばかりが頭に浮かぶ「南方病」に取り付かれ、平和になった南の島を訪ねたくてしかたないという話を聞きます。

もともと水木さんは島を離れるとき、仲良くなった村人たちには「7年後に帰ってくる」と約束していました。でも、生活に忙しく、その約束が果たせないままになっていましたが、この元上官との再会をきっかけで、かつて滞在していたパプアニューギニア・ニューブリテン島へ行きました。その後、何度も何度もです。水木さんも「南方病」だったらしいのです。

「第7条」にあるように、水木さんが落ち着くところは、目に見えないものを信じる人たちがいるところです。いわゆる近代文明からは少し遠いところ。暗闇がまだ残っているところ。妖怪が我が物顔で闊歩しているところ。

その中には雲南省も入っているし、だから俺も一時期「雲南病」だったので、なぜこういうところに惹かれるのか、言葉には表しづらいですが、感覚としてはわかります。

「第4条 好きの力を信じる」なのです。どうして雲南ばかり行くんですか?と、当時よく聞かれました。でも、自分でも理由がよくわからなかったのです。言葉で説明しようとするほど、本当の理由から遠ざかっていくようなもどかしさを感じたり。今から思えば、「無意識の声に従うしかなかった」ということなのでしょう。それは「第7条 目に見えない世界を信じる」にも通じるかもしれません。

「第5条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ」に関して、水木さんの雲南省取材旅行に同行した話は書きましたが、そのとき、水木さんから言われたことがあります。

「メコンや雲南の写真だけでは食えないでしょ?」

という言葉。痛いところを突いてくるなぁと内心ムッとしたのですが、少なくとも「食うために写真を撮っているわけではない」ということを、わかっていたことは確かです。

いや、実際、水木さんも食えない時代がありましたが、ずっと好きなことを続けてきた人なのです。だからこの言葉の続きには、「それでも青柳さんは続ける覚悟はあるんですね?」という確認だったのではないかと、今はそう思います。
 
 
 
 
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2015/12/06

2016年の干支「猿・申・さる」のトンパ文字デザイン

151206

151207


今年もトンパ文字の季節になりました。

恒例ですが、来年2016年の干支「猿・申・さる」のトンパ文字デザインをアップします。今年は文字だけではなく、写真も使っています。

年賀状印刷できるほどの解像度がありますので、ダウンロードしてお使いください。年末に向けて、あと2,3点デザインを増やす予定です。

上に掲載の写真は、スリランカ・ポロンナルワ遺跡にたむろするサルです。人に危害を加えたりしません。おとなしいサルでした。


http://www.asia-photo.net/yunnan/dongba/2016/index.html

なお、トンパ文字(東巴文)は中国雲南省北西部、麗江を中心に住むナシ(納西)族に伝わる象形文字です。
 
 
 
 
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2015/12/05

「芸術療法(写真療法)」は自分の「バラバラ感」をなくす方法

151205(インドネシア・バリ島 ウルワツ寺院での「ケチャダンス」)


若いころ、ある人の前での自分の行動(性格)と、別な人の前での行動(性格)が違っているようで、悩んだことがありました。どっちが「本当の自分」なんだろうか?と。若いころはみんな経験するでしょうが。

今となっては「本当の自分」なんて極端に言えば「ない」ことがわかるし、それどころか「本当の自分」は、自分の内側にさえないかもしれないことに気が付きます。

「俺」や「自分」といったときは、相手の存在が不可欠です。相手がいないようなところでは「俺」も「自分」も意味がありません。「俺」とか「自分」というのは、自分と相手の関係性にこそあるということもできるでしょう。だから相手が変われば「俺」も「自分」も変わるのが当然といえば当然なのです。そこで悩む必要はなくなります。

とくにこのネット時代では、ますます「俺」や「自分」というものが、場所と時間で、小刻みに変わっていくのはしかたないのかもしれないです。

友人と会って話をしながら突然電話やメールがきてそれに対応するなんて場面はめずらしくありません。

ネットでは匿名で人のことを誹謗中傷している人が、別なところ(実生活)では、ホントに「善良な人」という場合も少なくありません。これが昔なら「多重人格」といわれてしまっていたかもしれません。

これは極端にしても、時と場合によって「俺」や「自分」を何の違和感もなく変えることができる人というのが、結局は生き残っていくことになるのでしょう。

残念ながら俺はまだうまく適応できていませんが。

それとは別な悩みもあります。

バラバラになった「俺」の要素をもう一度統合したいという思いです。こちらは社会的な「俺」ではなくて、もっと個別的な「俺」の問題です。

そのためには「芸術療法」が役立つらしいのですが、日本芸術療法学会理事の山中康裕先生の話を聞いて、あることがひらめきました。先生は「表現療法」とおっしゃっているようですが。

患者に合わせて、いろんな療法を試してきたといいます。その中には「写真療法」というものがあったのです。「写真療法」を初めて提唱したのが先生です。

ある精神的に悩む患者さんがいて、写真が好きだとわかったので、写真を撮るように勧めたら、撮ること自体で、症状が改善したという例から思いついたらしい。

病気の人にだけではなくて、イメージの表現は一般の人にも、精神的にいい状態を保つひとつの方法であるといいます。

「俺がバラバラになった」と感じているのは、個別的な問題と前に書きましたが、もしかしたら、もっと広い文明病のようなものなのかもしれません。

たとえば「職業」というのを考えてみます。

「職業」とは何かの仕事を何人かで分業することから生まれた方法です。ひとつのことだけをやっていたほうが、技術も高まり、効率的になっていくからです。

「人間は機械ではない」などと、さんざん言っておきながら、この「分業」こそ、人間の機械化の始まりでもあるのではないでしょうか。

こう考えていくと、

「効率的ではないことが人間らしさである」

ともいえるかもしれません。もちろんこれは人間らしさの一面でしかないことをわかったうえでの表現ですが。

そこで思い浮かぶのは、去年の夏にふたたび旅したバリ島のことです。残念ながら今の、ではなくて昔のバリ島の人のことですが。

昼は農作業をやり、夜は音楽を奏で、絵を描く。その全体がその人なのです。「バラバラ感」が無くなっているように見えます。その人の「全体」を感じます。

今は、観光客に音楽や踊りを見せる「職業」になってしまった感じもしますが、もともとはまったく自家消費の芸術でした。それこそ食べ物の「地産地消」と同じように芸術の「地産地消」であり、無意識に「芸術療法」を実践していたのではないかと思うのです。

 
 
 
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2015/12/04

タリバンに襲われたマララ・ユスフザイさんと、アメリカに誤爆されたナビラ・レフマンさん

151204(パキスタン北部の山岳地帯)


タリバンに襲われたマララ・ユスフザイさんがノーベル平和賞を受けて、世界中から注目されています。「欧米的価値観」に沿った発言をしてくれるので広告塔としてはもってこいですし。

一方、同じ年代、同じ時期に、アメリカの無人機の誤爆によって自身も怪我をし、祖母を殺されたナビラ・レフマンさんが先日来日していましたが、彼女はアメリカ議会公聴会で被害を訴えましたが、議員は5人しか参加しなかったそうで、彼女の訴えはほとんど無視されました。誤爆したのがアメリカだからです。

マララさんはもてはやされているのに、ナビラさんは無視される。この違い、この不公平は何なのでしょうか? 

でも、俺も偉そうなことは言えません。どこに関心があるかで、ニュースの意味の大きさ・重みが変わってくるというのはだれでも同じでしょう。客観的な現実なんて二の次です。

とくに、欧米の価値観に疑問をもたず、淡々と生活を楽しんでいられる圧倒的優位派の国と人々にとっては。

この不公平さに耐えられなくなることがあります。別に俺はナビラ・レフマンさんたちに同情しているわけではありません。そんなやさしい人間ではないし、俺も欧米の価値観の中で、ぬくぬくと暮らしている一人です。

それでも、俺も日本の「本流」からははずれたところで生きているので、少数者の立場に立って想像することはできます。

この現実を見て、アメリカが標榜している、人権やら、自由やら、平等やらの「人間の普遍的価値」のむなしさを覚えます。「人間の普遍的価値」なんて都合のいい建前ではないかと。

この不公平を破壊したくなる衝動が起こります。

誤解されないように断っておきますが、だからと言って過激派にシンパシーを感じるわけはありません。あまりこういうことを言うと、「テロを容認している人間」というレッテルを貼られる恐れもあります。注意しないといけません。すぐ曲解する人たちが多くなっている日本です。

とは言え、この不公平をどうやって解決すればいいのか、正直俺もわかりません。

「テロとの戦い」は、外部にあるのではなく、心の内部での戦いなのかもしれません。こういった不公平に目をつぶることがテロを生む原因のひとつだとしたら…
 
 
 
 
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2015/12/03

ミャンマー、前途多難な「スーチー教」

151203(パガンの仏塔)


ミャンマーに移住した写真家の後藤修身さんを囲んで友人たちといっしょに飲みました。

今回は先日増上寺で開催された「ミャンマー祭り2015」での写真展のための一時帰国です。3年前に移住してから初めての日本で、新宿界隈の道も少し忘れてしまっていたようです。

ミャンマーは今ビジネスでも熱い注目を浴びている国で、ヤンゴンの中心部の地価は日本と同じくらいに上がったところもあるそうです。総じて物価は上がっています。屋台で飲むコーヒーは1杯30円で、ちゃんとして店で飲むと300円。10倍の開きがあります。

そしてミャンマーといえば、この前の選挙結果です、気になるのは。

アウンサンスーチーさん率いるNLD(国民民主連盟)が過半数の議席数を獲得して、政権交代するようですが、前途多難だそうです。アウンサンスーチーさんは大統領にはなれませんが、NLDが政権をとったら、すべてがうまくいくと、多くの人が思い込んでいるらしいのです。

後藤さんは「スーチー教」と表現していましたが、一種の宗教のようだといいます。でも、政権を担った経験もなく、軍部と折り合いをつけながら政権運営するしかなく、すべてうまくいって、生活もすぐに豊かになるなどということはありえません。

そのとき、国民はどう感じるのか。期待が大きかったぶん、現実に直面したときのギャップを考えると恐ろしいものがあります。なにせ「スーチー教」なので。

社会心理学に『予言がはずれるとき』(レオン・フェスティンガー著)というのがあって、破滅を予言した新興宗教の教祖が、当然ですが、予言をはずしてしまうのですが、その後の信者の活動に興味深いものがあります。

浅い信仰の信者は、「なんだ、嘘だったのか」と覚めて去っていくのですが、熱心な信仰のコアな信者は、逆に、布教活動を活発化させるのだそうです。

自分が身も財産もささげた教団が、いまさら「嘘」だったとは思いたくなくて、信者は「この教団はすばらしい」と思うことで、自分の葛藤や矛盾を解消するらしいのです。(「認知的不協和理論」)

『予言がはずれるとき』とは違うと思いますが、もし「裏切られた」と感じた国民が多くなったときは、ちょっと怖いかなと思います。また混乱してしまうかもしれません。

それと国内の少数民族、イスラム教徒の問題ですね。スーチーさんは民主主義と人権回復のための非暴力の活動が評価されて、ノーベル平和賞を受けています。そんな「人権派」が、もし少数民族、イスラム教徒に対して弾圧的な行動をとってしまったら、今度は国際的な批判を受けてしまうでしょう。実際すでにイスラム系のロヒンギャの難民問題について迫害を黙殺していると批判されているようです。

とにかく、スーチーさんのこれからの政権の舵取りは難しいといわざるをえないでしょう。
 
 
 
 
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2015/12/01

水木しげるさんの雲南省取材旅行

151201


『ゲゲゲの鬼太郎』の水木しげるさんが昨日亡くなりました。93歳でした。

ご冥福をお祈りいたします。

今から20数年ほど前でしょうか、水木さんが中国雲南省を取材旅行したとき、知人に頼んで同行させてもらったことがありました。一応「写真撮影の手伝い」という名目です。結果的に何の役にも立ちませんでしたが、いろいろと感じさせられる旅になりました。

雲南省の大理、麗江や、もっと奥のモソ族、プミ族の住む盧古湖まで行きました。ちょうどチベット仏教の祭りがありました。祈りの塚「オボ」の周りには護摩が焚かれ、その煙の中から現れた水木さんの写真を撮りましたが、そのとき、「水木さん自身が妖怪だな」と思いました。これは決して悪い意味ではなく、実際あとで、ご自身がそうなりたいという話も聞きました。

当時の雲南はまだ観光客には不便なところも多く、とくにトイレは犬・豚と共用の青空トイレしかないところもありましたが、まったく不平もなく、戦争へ行った人なのでこういう悪環境でも気にしないんだろうなと思いました。トイレットペーパーを右手で抱えて青空トイレにさっそうと入っていったのは印象に残っています。

もうひとつ、印象に残っているのは、大理でのことです。食事が終わって招待所に帰るとき、往来に仁王立ちになり、空に向けて写真を撮ったのです。街灯はあったかもしれませんが、ほぼ真っ暗闇です。

このとき「さすがだなぁ」と思ったのです。暗闇を写真に撮るとは。当時のフィルムカメラなので感度を上げたりできません。なので、空に向けて撮った写真は、暗いだけで何も映っていないはずなのです。そもそも暗闇にカメラを向ける発想はありません。何も写らないだろうと思って、撮ろうとさえ思わない暗闇です。だから水木さんの行動にハッとしたのです。

こういうところに妖怪の存在を感じるのだろうか?と思ったのです。

世界中を旅して妖怪関連のものを探していた水木さんですが、「将来は自分自身がシャーマンになりたいですね」と言っていたように思います。それと「最近の日本では妖怪は見られなくなりました」といったような意味のことも。

そのときは「そうですか」と、流して聞いていた気がしますが、今から思うと、この言葉には深い意味があったということが分かります。

妖怪は想像と現実の狭間にいるものなのでしょう。

人間の心は、意識している部分はほんのわずかで、もっと大きな無意識の世界があるというふうに言われています。無意識からのメッセージが「妖怪」という形になって現れるのかなと。

と、言うのも…

「ぬりかべ」誕生のエピソードは面白い。戦地で逃げていたとき、突然コールタールのような壁にぶつかったそうです。しばらくそのままでいて、気が付くと、その先は断崖絶壁でした。「ぬりかべ」が水木さんを助けてくれたのです。「目に見えないもの」を信じる水木さんには妖怪に見え、またこれは無意識の内なる声とも解釈できるのではないでしょうか。

怖い存在なんだけど、実は人間を救ってくれる存在でもある、その微妙な感じ。水木さんの妖怪漫画は、その微妙なところをキャラクター化していたからこそ、子供にも受け入れられたということではないでしょうか。「怖いんだけど、愛らしい」というのがまた妖怪です。

その妖怪がいなくなったのは、「闇」が失われたということなのでしょう。真夜中でも煌々と照らされた明かりの中で妖怪が生きていくことはできません。それは現代文明が抱える病でもあるかもしれません。「闇」を遠ざけようとしても、やっぱり人間の心には意識できない部分があって、それが時々襲ってくるのです。
 
 
 
 
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