TVドラマ『赤めだか』 落語は、「人間の業の肯定」
この前のTVドラマ『赤めだか』を観ました。
立川談志(ビートたけし)に弟子入りした立川談春(二宮和也)が主人公の師弟愛を描いた人間ドラマです。(原作は立川談春著『 赤めだか 』 (扶桑社))
談志師匠は落語についてこう言います。
それは「人間の業の肯定」だと。
たとえば、「忠臣蔵」では討ち入りに参加した赤穂四十七士が描かれるけれど、 討ち入りに参加しなかった方の浪士たちを描くのが「落語」であると。
なんだか、妙に納得できます。決して英雄ではない、きらきらした目立った存在ではない、ちょっと間抜けな人間で、でも愛おしい。良いところ、悪いところ含めて人間とはそんなもの。こういった感覚でしょうか。
ほぼ99パーセントの人は英雄にはなれません。「普通の人」です。でも、というか、だからこそなのかもしれませんが、落語を聞いていると「あなたはそれでいいんですよ」と肯定されているような安心感や勇気を覚えます。
人間の曖昧さ、愚かさ、ずる賢さ、情に流されやすさなどを肯定するという意味では心理学も同じかもしれません。
たとえば、人間が森の枝葉に幽霊を錯覚して見てしまうことも、人をステレオタイプで判断してしまうことも、権威者からこうしなさいと言われたらけっこう残酷なこともやってしまうことも、ブランドに頼ってものを買ってしまうことも、「だめだなぁ」とマイナスにだけ捉えるのではなくて、これはある意味人間が社会や環境に適応するために進化してきた能力だという捉え方に、そうなのかぁと気づかされたのです。
人間の「短所」を知ってなお、人間のことを見捨てないという感覚。「短所」は「長所」でもあるということ。
心理学が落語と似ていると感じるのはそのあたりですね。
ところで談志師匠の、
「決して落語だけを愛する観客たちの趣味の対象になるんじゃねえ」
というセリフ。よくわかるなぁ。「落語」を「写真」に替えても同じです。
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