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2015/12/05

「芸術療法(写真療法)」は自分の「バラバラ感」をなくす方法

151205(インドネシア・バリ島 ウルワツ寺院での「ケチャダンス」)


若いころ、ある人の前での自分の行動(性格)と、別な人の前での行動(性格)が違っているようで、悩んだことがありました。どっちが「本当の自分」なんだろうか?と。若いころはみんな経験するでしょうが。

今となっては「本当の自分」なんて極端に言えば「ない」ことがわかるし、それどころか「本当の自分」は、自分の内側にさえないかもしれないことに気が付きます。

「俺」や「自分」といったときは、相手の存在が不可欠です。相手がいないようなところでは「俺」も「自分」も意味がありません。「俺」とか「自分」というのは、自分と相手の関係性にこそあるということもできるでしょう。だから相手が変われば「俺」も「自分」も変わるのが当然といえば当然なのです。そこで悩む必要はなくなります。

とくにこのネット時代では、ますます「俺」や「自分」というものが、場所と時間で、小刻みに変わっていくのはしかたないのかもしれないです。

友人と会って話をしながら突然電話やメールがきてそれに対応するなんて場面はめずらしくありません。

ネットでは匿名で人のことを誹謗中傷している人が、別なところ(実生活)では、ホントに「善良な人」という場合も少なくありません。これが昔なら「多重人格」といわれてしまっていたかもしれません。

これは極端にしても、時と場合によって「俺」や「自分」を何の違和感もなく変えることができる人というのが、結局は生き残っていくことになるのでしょう。

残念ながら俺はまだうまく適応できていませんが。

それとは別な悩みもあります。

バラバラになった「俺」の要素をもう一度統合したいという思いです。こちらは社会的な「俺」ではなくて、もっと個別的な「俺」の問題です。

そのためには「芸術療法」が役立つらしいのですが、日本芸術療法学会理事の山中康裕先生の話を聞いて、あることがひらめきました。先生は「表現療法」とおっしゃっているようですが。

患者に合わせて、いろんな療法を試してきたといいます。その中には「写真療法」というものがあったのです。「写真療法」を初めて提唱したのが先生です。

ある精神的に悩む患者さんがいて、写真が好きだとわかったので、写真を撮るように勧めたら、撮ること自体で、症状が改善したという例から思いついたらしい。

病気の人にだけではなくて、イメージの表現は一般の人にも、精神的にいい状態を保つひとつの方法であるといいます。

「俺がバラバラになった」と感じているのは、個別的な問題と前に書きましたが、もしかしたら、もっと広い文明病のようなものなのかもしれません。

たとえば「職業」というのを考えてみます。

「職業」とは何かの仕事を何人かで分業することから生まれた方法です。ひとつのことだけをやっていたほうが、技術も高まり、効率的になっていくからです。

「人間は機械ではない」などと、さんざん言っておきながら、この「分業」こそ、人間の機械化の始まりでもあるのではないでしょうか。

こう考えていくと、

「効率的ではないことが人間らしさである」

ともいえるかもしれません。もちろんこれは人間らしさの一面でしかないことをわかったうえでの表現ですが。

そこで思い浮かぶのは、去年の夏にふたたび旅したバリ島のことです。残念ながら今の、ではなくて昔のバリ島の人のことですが。

昼は農作業をやり、夜は音楽を奏で、絵を描く。その全体がその人なのです。「バラバラ感」が無くなっているように見えます。その人の「全体」を感じます。

今は、観光客に音楽や踊りを見せる「職業」になってしまった感じもしますが、もともとはまったく自家消費の芸術でした。それこそ食べ物の「地産地消」と同じように芸術の「地産地消」であり、無意識に「芸術療法」を実践していたのではないかと思うのです。

 
 
 
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