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2016/02/29

フィギュアスケートの選手に左回りが多いのは、「利き目」が関係?

160229_2(山梨県上野原市 旧甲州街道の「犬目宿」のヴィーノ)


Newtonムック『知能と心の科学』の中に、「両眼視野闘争」というものがありました。

右目と左目で別々のものを見たとき、意識に上るのはどっちか?という意識の問題です。

「闘争」などと、ちょっと穏やかでない名前が付いているのが不思議ですが、「譲り合っている」わけでもなさそうなので、「闘争」でいいのかもしれません。

60cmのところにカップを置いて、そこに焦点を当てて見つめた時、背景がぼけて見えます。そして、左目と右目を交互に手で遮ると、背景の映像が微妙に変わる。それは目が左右に離れているので、カップを見たときも、微妙にずれるのです。そのずれがあるからカップが手前にあり、その奥に壁があるという3次元空間を感じることができます。

それで俺は、左目を隠した時には、背景も変わらないということに気が付きました。つまり、俺は普段右目で見ている方を優先しているらしいのです。

そこで思いついたのですが、手に「利き手」があるように、目にも「利き目」というものがあるのだろうか?という疑問がわきました。

それで調べたら、やっぱり「利き目」というのがあるんですね。どちらの目を優先しているか。

そして興味深い話を見つけました。スポーツ選手は利き目を意識しているらしいということを。

「フィギュアスケートでは、利き目側に回転するとよいそうです。」(NIDEK CO., LTD.利き目はどちら?参照)

浅田真央選手、村上佳菜子選手、羽生結弦選手、宇野昌磨選手などはジャンプ・スピンともに左回りです。キム・ヨナ選手も左回りでした。

そういえば、右回りの選手は少ないらしく、ジャンプ・スピンが逆回りだと違和感を覚えるほどです。カロリーナ・コストナー選手とか。彼女のジャンプ・スピンは右回りです。左回転の選手たちが多いのはなぜなのか、本当に利き目が関係しているのでしょうか。

だんだん変な方向に行ってますね。目の話が、いつのまにか、フィギュアの話になってきました。

選手たちの利きが目どっちなのかはわからないので、「フィギュアスケートでは、利き目側に回転するとよいそうです。」の真偽はわかりません。利き目だけで決まっているとも思えないし。むしろ利き手とか、心臓の位置とか、子供の時からの癖、慣れとか、そんなふうにも思います。

一般的な話として、利き目は利き手と同じく、右の人が多いそうで、それは言語発達に伴って左脳も発達したからという理由もつけられていますが、本当のところどうなんでしょうか。
 
 
 
 
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2016/02/26

小野京子著 『表現アートセラピー入門』 写真療法の可能性

160226


表現アートセラピー研究所の小野京子先生の入門書 『表現アートセラピー入門』です。

ナタリーロジャーズが、パーソンセンタード表現アートセラピーを確立したのは、心理学者の父と画家の母の影響で、大学では心理学とアートを勉強したそうです。ふたつが合わさってセラーピーが生まれました。

表現には、絵やコラージュや粘土や詩やダンスやいろんな表現が含まれます。いや、表現できる手段なら、すべて使えるということでもあるようです。

大人が行うプレイセラピー(遊戯療法)とも呼べるもので、すべての表現は遊びに通じ、どんな手段を使うかは、その時々で変わってくるのも自然なことだといいます。

同感です。俺も、結果としてアートセラピーを自分で実践していたことが、今になってわかったのですが、やっていると、写真だけではなく、時には作曲もしたくなるし、文章で表現したくなる時もあるし、また、旅に出たくなることもあります。

それは子供の遊びを見ていてもわかります。手段はまったく気にせず、楽しいことをやろうとしているだけです。それが本来の「遊び」というものでしょう。

こういう表現を「職業」ととらえてしまうと、「どれかひとつに絞りなさい」ということなのでしょうが、「療法」と言う面から見たら、その制約は百害あって一利なし、ということなのでしょう。(ただ、俺の場合結果として、一部は「職業」にもなっているのですが)

それともっと大切なのは、こういう複数の表現を遊びながら楽しみながらやるということで、バラバラになってしまった自己を統合して「自分というもの」を実感するためには、必要なことだと思うし。

この本のアートセラピーでは「写真」には触れていませんが、写真も当然表現アートセラピーとして使える手段のひとつです。

最近は、スマホ、携帯電話で撮る人が多く、今までのようにわざわざカメラを出して撮るというわずらわしさがないぶん、手軽に表現できる手段として、写真はますますアートセラピーとしての役割が注目されていくのではないでしょうか。

アートセラピーでは、作品の上手、下手は関係ありません。アートはその行為自体に癒しや心の活性化をはかる効果があって、写真を「評価」することは、セラピーという点からはむしろ害があるようです。

ただ、いい評価は、嬉しいことでもあり、たとえば、写真をSNSにアップして、「いいね!」をもらうことなどは、写真を撮り続ける動機付けにはなるかもしれないので、悪いことではないかもしれないですね。
 
 
 
 
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2016/02/25

「旧暦」に関して驚きのニュース。「六曜が差別につながる」?

160223(マレーシアの、4種類の日付のカレンダー)


先日のセミナー「旧暦のリズムで棚田を味わう」の参加者から、ある情報を聞きました。それでネットで検索してみたら、その情報元のニュースがこれらしい。

「六曜カレンダー「差別につながる」と大分で配布中止 なぜ?」
(The Huffington Post http://www.huffingtonpost.jp/2015/12/25/rokuyo-calendar_n_8878046.html参照)

大分県佐伯市と杵築市で、カレンダーを作り、その中に旧暦の六曜も入れたそうです。それが批判されて発行を取りやめたというんですね。(10年ほど前、別な市でも同様のことがあったようですが) その理由がこうです。

「六曜が差別につながる」。

どうして「六曜が差別につながる」のか、いろいろネットで調べてもはっきりしたことはわかりません。市役所(公的機関)が特定の宗教に関係することをやってはいけないという、政教分離の問題からでしょうか。因習に束縛されるところが同和問題と重なるからでしょうか。じゃぁ、差別される側からの「六曜」へのクレームがあるかと言えば、それも無さそうだし。よくわかりません。

明治6年に改暦されましたが、その後も「おばけ暦」というものが庶民で流行っていたそうです。役人は「雑節や六曜は科学的ではない」という理由で、その政府公認ではない「おばけ暦」を取り締まったそうですが、なんだか、今も明治と同じなんだなと思ってしまいました。

でもたとえば、「手相占い」や「血液型性格判断」や「脳トレ」なども、みんなちゃんとした科学だと思っている人は少ないと思いますよ。言うならば、「遊び」です。

「六曜」なんて遊びの最たるものでしょう。そもそも六曜は、日付を割り算して余った数に名前を付けただけだし。たとえば「仏滅」に結婚式を挙げなければ離婚しない、「大安」に結婚したらみんな幸せになれるなどと信じている人は、皆無なのではないでしょうか。

暦は、単なる日付が並んだ表ではありません。暦が変わると、生活が変わる。そうすると考え方まで変わってくる。昔の権力者は、だから勝手に暦を作ることを禁止していました。

今は、非科学的だからというより、公的機関は公平でなければという事情が大きいのかもしれません。それと「差別」や「人権」のクレームには負けてしまうという現代事情があるからではないでしょうか。

旧暦を公的に復活させるのは、予想以上にハードルが高いんだなぁと、「旧暦復活委員会」としては、このニュースを知って思いました。
 
  
 
 
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2016/02/24

今日は、二十四節気「雨水」、七十二候「霞始靆(かすみはじめてたなびく)」 

160224(茨城県筑波山)


今日は、二十四節気「雨水」の次候「霞始靆(かすみはじめてたなびく)」です。

霞がたなびき始めるころです。写真は筑波山の朝の風景です。

気象学的な定義なんでしょうか、霞、霧、靄の違いは、視界が関係しているようです。ただ、気象庁のHPには「霞(かすみ)」についうて、「気象観測において定義がされていないので用いない」とあって、よくわかりません。「霞」は意外と主観的なものなのですね。

写真を見たところ視界は1km未満のようなので、これは「霧」と呼ぶべきなのでしょか。

今年は暖冬と言われていたのは去年の話。年を越して、逆に寒い日が増えたような気がします。最近もまだまだ寒さが続いています。
 
 
 
 
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2016/02/22

「日本人は11兆円も食べ物を無駄にしている」、「フランスで「食品廃棄禁止法」が成立」のニュース

160222


たまたま最近、食品廃棄に関してのニュースがふたつ目につきました。

日本人は11兆円も食べ物を無駄にしている!深刻な食品廃棄問題
(Nifty NEWS http://news.nifty.com/cs/item/detail/suzie-20160218-15440/1.htm )

フランスで「食品廃棄禁止法」が成立、日本でも導入すべき意外な理由
(ITmedia http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1602/12/news024.html )


以前、「時間が経ったスシはちゃんと廃棄処分してます」というところをわざわざ見せた回転スシ店がありましたが、あの映像をみたとき、「新鮮さを保って立派だ」と思うよりは、「もったいないことをするスシ店だな」と思いました。ああいう映像をテレビで流すことを良しとしたスシ店の感覚が理解できませんでした。(隠さないだけマシという考えもありますが)

正直、物の少ない時代を知っているので、どうも、あの廃棄処分の映像が胸に痛いのです。こんな感覚は、貧乏性だとか、ケチ臭いとか言われてしまうんだろうか?と思っていたら、最近の若い人たちにも、こういう感覚が戻ってきたらしく、やっぱり、おかしいことはおかしいんだと胸を張って言えるようになってきたのはうれしいことです。

もちろん俺だっておいしいものは好きだし、食べたいし、なるべく全部食べるようにしていても、残す時もあるし、グルメ番組も見るし、傷んだスシを食わされたらたまったものではありません。ニュース映像で、貧しいアフリカで食べるものがない映像を見て、毎回心を痛めているわけでもありません。自分はお菓子を食べながらその映像を平気で見ることができます。だから俺も偉そうなことは言えません。同罪なのです。

日本は何かがおかしい。この食品廃棄に関しても。こんな国民ではなかったはずです。そういえば、「米粒を残すと罰が当たるよ」と親から注意されなくなったのは、いつからでしょうか。

いくつかの文明が滅んだのは、まわりの木を伐りすぎたから、というのがあったように思います。周りの資源を食いつくすバクテリアです。伐るだけならまだしも、使いもせずに捨てていたとしたら、それこそ末期症状でしょう。

もしかしたら、日本人は、同じような地球のバクテリアになっているのかもしれません。ただ、バクテリアは、自分がバクテリアだとは知りません。なかなか自分というのは見えない、自分で気が付くのは難しいのです。

日本のテレビはグルメ番組が多いと、外国人から指摘されています。そんな日本が世界中から食べ物を買いあさり、世界一食品を無駄にしているとしたら、おかしすぎます。きっと罰が当たります。

以前から「食」に関しては興味があって、 「パースド・フード店」という提案をしてみたこともあります。また、賛同する取り組みとして、「セカンドハーベスト・ジャパン」の活動や、賞味期限切れ商品を売るスーパー 「モッタイナイ棚」を紹介してきましたが、ここでもう一歩踏み込んだらどうかな、という段階に近づいているのではないでしょうか。

もちろん法律も大切ですが、意識が変わらなけば、いつまでも同じ。いや、同じではないですね。滅びてしまうかもしれないので。
 
 
 
 
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2016/02/21

映画 『鑑定士と顔のない依頼人』 を観て 【ネタバレ注意】 

160221ジョン・エヴァリット・ミレイ 『あひるの子』 1889年 国立西洋美術館


2013年のイタリアの恋愛・ミステリ映画 『鑑定士と顔のない依頼人』 を観ました。

公式HPはこちら。

http://kanteishi.gaga.ne.jp/

【ネタバレ注意】

簡単に言うと、優秀な美術鑑定士が、女性だけは、鑑定できなかったということですね。ある意味、教訓的な映画です。

ミステリ映画なので、鑑定士のヴァージルが、広場恐怖症で長年引きこもっていた美しい依頼人クレアと、結婚して幸せなになるなどという結末にはならないだろうことは予想できました。

自分の最後の仕事から戻ったら、自慢のコレクションの絵やクレアが消えていて、騙されていたのかと悟ります。

その首謀者は、どうもビリーという、友人の画家だったらしいのですが。

ここでもビリーの本心を鑑定できませんでした。つまり、美術品に関しては優秀な鑑定眼を持っていたヴァージルは、クレアという女性だけではなく、人間に関してはまったくダメだったというオチです。

ところで、映画の中で、「贋作にも真理はある」とか「偽物にも真実はある」とかいったセリフが出てきたと思いますが、そうですね。同感です。

最近は、今までのような「贋作=偽物=悪い(価値がない)」という方程式は成り立たなくなっているようです。

1990年に大英博物館が、偽物だけを集めた『フェイク』という展示をしたそうです。

贋作を「偽物」と一言ではくくらず、文化のひとつの表現物ととらえ、贋作にも真理があるということを再評価したということですが、これも時代でしょうね。

「本物」を「良し」とする鑑定士(権威者)そのものが、常識の枠から抜け出せない人間の心理を象徴しているのかもしれません。

この映画に小気味よさを感じるのは、権威者というものが、本当に物事の真理を見抜いているかと言えば、そんなことはないんだなというところなのです。
 
 
 
 
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2016/02/19

今日は、二十四節気「雨水」、七十二候「土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)」

160219


今日は、二十四節気「雨水」、七十二候「土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)」です。

そして旧暦一月十二日。

農耕の準備を始める目安とされていた「雨水」です。雪から雨に変わっていくころ、雪が溶け始めるころで、春一番が吹く季節でもあります。


雨水の期間の七十二候は次の通りです。

初候: 土脉潤起(つちのしょううるおいおこる 雨が降って土が湿り気を含む)

次候: 霞始靆(かすみはじめてたなびく 霞がたなびき始める)

末候: 草木萠動(そうもくめばえいずる 草木が芽吹き始める)
 
 
 
 
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2016/02/18

アリの2割は「働かないアリ」と聞いて喜ぶ俺は?

160218


「働かないアリ」の研究に取り組んでいる北海道大学の長谷川英祐准教授の研究が紹介されていました。

働き者のイメージのあるアリですが、2割は「働かないアリ」らしいのです。でも、この「働かないアリ」が非常時(天敵が現れた時など)、大活躍するという話に、なるほどなぁと思いました。

「長谷川さんによると、「すべてのアリが必死に働くよりも、働かないアリがいる場合のほうが、平均して長く集団を存続できる」というシミュレーション結果が出ているのだとか。」(ケトル VOL.010(12月15日発売/太田出版)参照)

こういう話を聞くと勇気が湧いてきますねぇ。ただし「働かないアリ」というのは、「働きたくないアリ」ではないそうです。そこを勘違いしてしまう俺はダメなんでしょうが。

俺は例外として、この「働かないアリ」がどうしているのかは、集団の余裕といったらいいか、余力といったらいいか、「将来に対する保険」といったらいいか、これはどうして人間の脳が100パーセント使われていないのかにも書いたように、もしかしたら同じようなことなのかなと思います。

その証拠に、その2割の「働かないアリ」を集団から除くと、働いていたはずのアリの2割が、やっぱり「働かないアリ」に変わってしまうのだそうです。2割の「働かないアリ」をいつも集団内に抱えておく方が、すべて働くアリで占めるよりも、集団を存続させるためにはメリットがあるということなのでしょう。

生物界はよくできているなぁと思いますね。人間界もそうなのでしょう。

危機を回避するために集団の多様性は重要なのだということはわかります。たとえ普段はどうしようもない怠け者に見えても、ある条件、きっかけで、突然威力を発揮するということなのです。普段一生懸命働いていると、エネルギーは消耗してしまい、とっさの状況に対処するのが難しい。それと成功体験が邪魔をして思い切ったことができないということもありそうです。だから、どちらの人間も必要なのです。

ある会社内での例を上げていましたが、産休の同僚に代わって、今までどうしようもないと思われていた社員が、大活躍したとか。

「できる社員」と言われる人も、まわりに「できない社員」がいるから目立つし、優越感も感じるだろうし、そういうことでますます自分が「できる社員」と思いこむことは、会社にとっていいことだろうし。仮にまわりがすべて「できる社員」だったら、すぐ疲れてしまって、能力が発揮できないと思います。なので、ここに「できない社員」の存在意義があるのだろうと思います。

いろんな人間がいたほうがいいのです。どんなにダメなやつに見えてもです。

俺と同じような「働かないアリ」のみなさん、いい話でしょ?
 
 
 
 
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2016/02/14

英語圏に届けるデジタルメディアIGNITIONに、数回にわたり「日本の棚田」を連載

160214


 


日本の特徴的な「カルチャー」「テクノロジー」「クリエイティブ(アート)」を軸に、英語圏の読者に届けるデジタルメディア「IGNITION」に、「日本の棚田」を数回にわたって連載します。全国のユニークな活動や景観を持った棚田数件です。日本の棚田文化の新しいムーヴメントを発信していきます。


連載第1回目は「千葉県鴨川市大山千枚田」です。


第1回目なので、日本の棚田の現状などもイントロダクションとして書き、2000年3月に発足した「大山千枚田オーナー制度」について、また、大山千枚田の棚田保全から生まれたバレエ『里舞』というユニークな活動について紹介しています。


棚田文化を、バレエという芸術表現をもって側面から支援する活動は、全国的にもめずらしい。『里舞』には優雅ですが力強さも感じます。ダンサーは “里山”に生まれた子供たちと子育てをしてきた女性たち。『里舞』が単なる芸術作品ではなくて、実際の土地に根差した作品であるところが評価されている点でもあるのでしょう。


 


今後の予定としては、


第2回目は、わざと曲がりくねった農道を作った山形県朝日町椹平で、3回目以降は、富士山の裾野に広がる山梨県、静岡県の棚田や、日本独特の海に面した棚田、観光地でもある輪島市白米千枚田、大地の芸術祭が行われる新潟県十日町市の棚田、棚田を復活させた静岡県松崎町の石部の棚田などを予定しています。
 
 
 
 
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2016/02/13

写真展「野町和嘉 天空の渚」を観て(体験して)

160213(写真展「野町和嘉 天空の渚」のDM)


キャノン、EOS 5Dsで撮影された、圧倒的な高解像度の大型写真の展示でした。明日、2月14日まで開催されています。

会場は、港区海岸の鈴江第3ビルの6Fですが、広々としたスペースのギャラリーです。こういうところでないと展示が難しいのではないかというくらい大きな写真の数々です。

「もはや鑑賞ではない。日本から1万数千キロ離れた異国の"体験"である。」とDMに書いてあります。

自分よりも大きな写真の前に立つことで、画面の中に自分も入り込んだような錯覚を覚えるほどです。

ある心理学研究で、実物の自然の前に立ったときと、写真や大画面テレビなどに写った自然の前に立ったときでは、ストレス度低減に差があるというものがあります。

「自然空間を見ることは実際にストレスを低減させるが、自然のデジタルな複製は、退屈な壁と同程度の影響しか持たなかったのだ。」(「自然な景観」が人に与える影響」参照)

癒されるためには、実物の方がいい。この結論は、やっぱりそうだろうなぁと、意外な結果ではありません。

では、本物と複製を観たとき、何が違うのでしょうか?

観ることが、単に視覚だけのことではないことを示唆しています。

風景を観るということは、目だけではなく、体全体を使っているらしいのです。それと、その本人が過去経験した記憶とか、物事をどう考えるのかという思考も関係してきます。総合的に判断して、風景を観るのが人間です。

だから極端には「観ることは体験することと同じ」といってもいいのかもしれません。

そこで野町さんの今回の写真展示に戻ると、あれだけ大きい写真の前に立って、頭を左右に振ったりしなければ、本当に目の前に広がる風景を観ているのとは変わりないかもしれません。

でも、違うんですね。本当の風景には、天気、気温、匂い、振動、風、など様々なものが取り巻いていて、その環境を人間は五感を総動員して取り入れて、目の前の風景を解釈しています。

だからDMにある「鑑賞ではなく、体験である」というところの「体験」とは、やっぱり野町さんの目(こころ)を通した表現を鑑賞している「体験」なのです。いわゆる、現場に立っているのと同じだという意味での「体験」ではないということになるのでしょう。

「異国の体験」ではなく、「野町さんという人間を感じる体験」というふうな。巨大な写真でも、あくまでも、「表現」なのです。しかも野町さんでなければできない「表現」。

ただし、今までの写真の鑑賞の仕方とは、変えなければならないかもしれないですが。

ところで解説文の中で、野町さんをイメージハンターと呼んでいたのは、なるほどなぁと思いました。
 
 
 
 
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2016/02/12

こよみは、こころのインフラ

160212


今年の「旧暦棚田ごよみ」に掛け替えました。

先日、毎日新聞でインタビューを受けた時、「スローライフにもつながるんですねぇ」と言われた言葉にハッとしました。

「旧暦棚田ごよみ」は、ある意味、ライフスタイルでもある、ということに気が付いたのです。

「スローライフ」という言葉はあまり好きではないのですが、俺がずっと若いころからやってきたこと、興味のあったことは、考え方、実践方が、「スローライフ」的だったなと自分でも思います。

「こよみは、こころのインフラ」という言い方はどうでしょうか。

こよみは、単なる日付が並んだ表ではないのです。昔の権力者は、勝手にこよみを作ることを禁止していたくらいです。こよみが変わると、生活が変わる、そうすると考え方まで変わってきます。そういう意味で、こよみは人間の考え方を作り上げるインフラのようなものなのではないでしょうか。

権力者が嫌うのは、庶民を管理できなくなること。だから権力者にとって、こころのインフラは、便利な「足枷」にもなるという「両刃の剣」的な両面性を意識していないとだめでしょうが。

そのデメリットを意識しながらも、旧暦は、日々の生活の中で、より自然や季節を感じるためのインフラになるのでは?ということです。

じゃぁ、なぜそのインフラが新暦ではだめなのか?ということですよね。その答えは前から何度も書いていますが、普通にあるものに対しては、自動的に物事を考える癖がついてしまっています。その癖に自分ひとりで気が付くのは難しいのです。

そこで、「使いづらい旧暦」を持ってくる。すると、いちいち立ち止まって考えざるをえない、今までの考えに気が付くことになるのではないかと思うわけです。気が付けば、そこから新しい日常生活(文化)の始まりです。

だから別に、新暦を否定しているのではありません。新暦と旧暦とを併用してはどうか、ということです。選択肢を増やしたいだけです。

もちろんこれはあくまでも提案にすぎません。人によっては違う方法の方がいいかもしれません。
 
 
 
 
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2016/02/10

春節の横浜中華街は『ブレードランナー』の世界

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昨日は、セミナー「旧暦のリズムで棚田を味わう」でした。

日々の生活で、より季節を感じる方法として、暦を「こころのインフラ」と捉えることを提案しました。だから「旧暦棚田ごよみ」を、その一例として。

新米の試食、おいしかったですね。今回は静岡県松崎町石部の棚田米でした。

 ☆

昨日に引き続き、写真は春節の横浜中華街です。

とくに路地裏は、アジアのチャイナタウンの匂いと同じで、まるで『ブレードランナー』の世界です。

四川料理の京華楼に入りました。

辛い「牛楠刀削麺」が食べたくなり、「ニュウナン・ダオシャオミェンをひとつください」というと、あとは早口の中国語で応対されました。当然、中国人だと思われたようです。最近は中国語を使ってないので、とっさに中国語が出ません。しどろもどろになってしまい、恥ずかしかったです。中途半端なことをやると、こういうことに。

今月20日の春節イベントにまた行きたいですね。中国にいたころを思い出してしまいました。
 
 
 
 
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2016/02/09

春節の横浜中華街で披露された獅子舞「採青(ツァイチン)」

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昨日は旧暦一月一日(春節)。

横浜中華街へ行ってみました。

夕方、各店舗の商売繁盛や五穀豊穣を祈って、伝統の獅子舞「採青(ツァイチン)」が行われました。

白・黄などの5頭の獅子が5コースに分かれて、中華街全域を巡ります。昨日実際に見ることができたのは4頭でした。

爆竹の音が鳴り響きます。爆竹は破裂したのが飛び散らないような専用の箱の中に入れます。

力強い銅鑼と太鼓に合わせて、獅子が激しく踊ります。最後は後ろ足で立って伸び上がり、店先に吊るされた祝儀袋の「ホンパオ(紅包)」をくわえて取ります。店によっては、ホンパオの代わりにモチだったり、レタスだったりしました。

これからも様々な春節イベントが続くようです。詳しくは、横浜中華街のHPのイベント予定で。

http://www.chinatown.or.jp/event/celebration/201510_03/

ところで、今晩のセミナー「旧暦のリズムで棚田を味わう」では、この採青の写真も使う予定です。
 
 
 
 
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2016/02/08

今日は旧正月。沖縄では「ソーグヮチ」、中国では「春節」、ベトナムでは「テト」、韓国では「ソルラル」

Chinesenewyear


今日は旧正月、沖縄では「ソーグヮチ」、中国では「チュンジエ(春節)」、ベトナムでは「テト(節)」、韓国では「「ソルラル」です。

ようやく出せましたが、これは今年の年賀状です。

申歳ということで、猿の神様ハヌマーンのつもりで描いてみました。

インド二大叙事詩のひとつ「ラーマヤーナ」に出てくるのがハヌマーン。アジアを旅しているとよく見るハヌマーンの像や絵ですが、孫悟空のルーツという説もあります。

皆さんにも、新年のあいさつにあたり、この言葉をお贈りします。

「春節快楽(春节快乐) (良いお年を)」 

「万事如意 (すべてのことが思う通りになりますように)」 
 
 
 
 
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2016/02/07

「旧暦復活委員会(仮称)」発足、現在会員1名。

160207(長野県千曲市 八幡)


今日は大晦日。明日が旧暦新年です。

大晦日だというのに大きなニュースが飛び込んできました。

北朝鮮はミサイル を発射しました。これだけ世界から批判を受けても、あえてやる。でも、米、日、中、韓とも、関係国は北朝鮮が現状維持(短期的には)であってほしいと思っていることを、北朝鮮は見透かしているからなんでしょうね。

これからどうなっていくか注意して見ていないといけませんね。

それと昨日6日発生した台湾の地震。旧正月のお祝いムードもいっぺんで吹っ飛んでしまったでしょう。

死者は18人(7日現在)に上っています。台湾は311のとき特別な支援をしてくれました。今度は日本が支援する番です。

被災した方々にはお見舞い申し上げます。

為台灣的各位,表示哀悼。東日本大震災的時候台灣人支援了日本特別。這次是日本支援台灣。

 ☆

これから本気で、旧暦復活を訴えてみたいと思います。明治時代なら、新暦(グレゴリオ暦)に統一することで、日本の近代化に一役買ったのは事実でしょうが、今はそんな時代ではありません。多様化の時代です。

この前も書きましたが、言葉のバイリンガルが当たり前とも言える時代に、どうしてカレンダーを2種類使えないことがありましょうか(いや、ない)。中国起源の太陰太陽暦である「旧暦」を廃止したのは日本だけなのです。

旧暦を復活させてもデメリットはまったくないと思っています。むしろ面倒くさくなって、いいのではないでしょうか。

日常会話するときも、いちいち新暦か、それとも旧暦かを聞かなければならなくなるし。俺が雲南省にいた時も、「それは農暦(旧暦)? それとも西暦?」と確かめていたことはありましたね。いや、慣れればそれは大した問題ではないです。実際、中国、ベトナム、韓国でも問題なく併用しています。

「旧暦復活委員会(仮称)」を発足しましょう。現在会員1名です。

でも、「旧暦」が目的通り復活したら「旧暦」ではなくなり、すでに「新暦」があるので、「新々暦」ということになってしまうんでしょうか。それとも今の「新暦」が「旧暦」と呼ばれるようになって、今の「旧暦」が「新暦」と呼ばれるようになるのでしょうか。

いや、復活したんだから「再暦」 or 「復暦」とでも呼ぶことにしましょうか。そのあたり、会長の俺の判断で、どうにでもなりそうです。というより、どうでもいいことでした。
 
 
 
 
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2016/02/06

映画 『かぐや姫の物語』 を観て。なぜ月は「美しく怖い」のか?

160206(「中秋の名月」を水盆に映す)


『かぐや姫の物語』 公式サイトはこちら。

http://kaguyahime-monogatari.jp/

不老不死の月の世界が、けっして「生きる」ことを実感させない世界として匂わせている、と感じました。

だから月(理想郷)に生きる人(神?仏? 完全なる者)たちとの対比として、かぐや姫は、地上(現実世界)に生きる生々しい人間(不完全なる者)として描かれていました。

月に生まれたかぐや姫が、月からすればどうしようもない地上に「生きる」ことを見つけ、ここに残りたくなった、でも残れないという葛藤は切なくなりますね。

とくに、その内面が現れていたのは、屋敷から抜け出すシーンです。まるで殴り描きのような絵が画面を疾走する感じが、とてもよかった。「なんだこれはー!」という斬新な表現。「生きる」を感じさせます。


ところで、『竹取物語』には、月を眺めるかぐや姫が、月を見るのはよくないですよとたしなめられる場面があるのですが、『かぐや姫の物語』 にはありませんでした。

月見の慣習が中国からはいってきて、月見を楽しむと同時に、月を見てはいけないという禁忌もあったらしいのです。

平安貴族は月を直接見ることをせず、杯や池に映して楽しんでいました。「満月が終わりの象徴」という説もありますが、なぜ直接見るといけないのか、はっきりわかりません。

月は「映す天体」。月は見る人の心(深層心理=狂気の部分)も映すからからか?などと勝手に想像していますが。

とにかく、月を見る(とくに女性が)ことに関しては、世界中に禁忌があります。

西洋でも月が人間を狂気に引き込むと考えられていたようです。「狂気」のことを英語では「lunatic ルナティック」。語源は後期ラテン語「lunatics」=「月に影響された」。「lunacy 」 =「精神異常。狂気」、「moonstruck」=「心が乱れた。狂気」 という言葉もあります。

「イヌイットの娘は月を見ると妊娠するから月を見ない」、アイスランドでは「子供が精神障害になるから妊婦が月に顔を向けてはいけない」など、女性が月を見ることを禁忌とした伝承もあるようです。(Wiki参照)

ちなみに、日本語の「つき」は、昔「つく」と発音されて、「憑く」からきているとの説もあります。

『かぐや姫の物語』でも、月の世界が理想郷であるはずなのに、忌み嫌われる世界でもあるということの両面性が共感できるところです。

清濁、善悪、明暗、相対するものが同居するものこそ美しいと思っているので、そういう意味で月も「きれい」ではなく「美しい」のです。「美しい」から「怖い」でもあるのです。
 
 
 
 
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2016/02/05

石巻市と女川町取材

160211_1(JR仙石東北ライン快速石巻行き)

160211_2(石巻駅)

160211_3(石巻市 日和山公園から)


宮城県石巻市と女川町に行ってきました。東北の桜関連の取材です。写真と記事は雑誌で発表します。

大宮から新幹線「はやぶさ」で仙台まで、仙台からはJR仙石東北ライン快速で石巻まで。なんと2時間18分で到着。今まで車で行っていたので、ずいぶん速く感じました。

日和山公園から見る南浜地区ではかさあげ工事、山の下では復興住宅の建設が進んでいました。

今年も桜は咲きそうです。
 
 
 
 
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2016/02/04

今日は二十四節気「立春」、初候「東風解凍」。旧正月まであと4日。

160204


今日は二十四節気「立春」、初候「東風解凍(はるかぜこおりをとく)」です。

どうして一番寒い時が「立春」なんだ?と疑問を感じるのではないでしょうか。

古代中国、陰陽五行思想に「陽極まって陰に転じ、陰極まって陽に転ず」というのがあります。「寒さも極まると暖かさに転じる」という連想から、厳寒の時期に春を感じたらしいのです。

すごく観念的ですが、そういう理屈ならわかります。

旧正月まであと4日。だから今回の「立春」はまだ「旧年中」なので、「年内立春」といいます。旧暦一月一日が立春になる「朔旦立春」になるのは意外と少ないとのこと。次は2038年と予測されているそうです。


立春の期間の七十二候は以下のとおりです。

初候: 東風解凍(はるかぜ こおりを とく 東風が厚い氷を解かし始める)

次候: 黄鶯睍睆(うぐいす なく 鶯が山里で鳴き始める)

末候: 魚上氷(うお こおりを のぼる 割れた氷の間から魚が飛び出る)
 
 
 
 
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