« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »

2016/03/31

心理学者 高橋惠子著 『第二の人生の心理学 写真を撮る高齢者たちに学ぶ』

160331(山梨県忍野村 富士山が見える棚田)


心理学者、高橋惠子さんの『第二の人生の心理学 写真を撮る高齢者たちに学ぶ』(金子書房2011)を読みました。

この本のサブタイトル「写真を撮る高齢者たちに学ぶ」に興味をひかれたからです。

本の「はじめに」には、

「定年後に、あるいは子育て後に、アマチュア写真家として学習を続けている市民グループを4年にわたって追跡し、第二の人生を充実させるコツを明らかにしてみました」

とあります。

研究の対象者は、長野県上田市で活動する写真愛好家団体「写友まゆ」のみなさんたちです。

全国へ撮影に出かけると、アマチュアカメラマンがたくさんいます。しかも高齢者が多いです。もちろん時間をとれるのは定年後という日本の事情もあるのでしょうが。

これは何も日本だけの話ではないようで、中国でもガイドから聞いた話があります。定年を迎えた親に、老後の趣味になるようにと、子供たちがカメラを買ってあげるのが流行っているらしいのです。

「どうして?」と聞いたらガイドは、

「写真はどこかに出かけて運動にもなるし、いい親孝行の方法なのです」

との答え。

写真というのは、「念写」でもしない限り、現場に行かないと撮れません。当たり前のことですが、ここが大切なのです。つまり脳だけではなく、身体も使うところがミソです。とくに風景写真の場合は。

マラソンなどのハードな運動ではなく、カメラを持って野山を歩いたり、止まったり、適当な運動がいいようです。五感を使って風景を味わい、仲間と切磋琢磨し写真の技術を上げ、コンテストに入賞して達成感を味わったりと、心身にいい影響をもたらす要素がたっぷり含まれているのが写真撮影なのです。老後の趣味としては理想的かもしれません。

ところで、この高橋先生の研究でわかったことで興味深いのは、家族の支えというか、家族の理解というのが大きなポイントでもあるらしい。家族も巻き込んでの写真活動というのが、心身にも好影響を及ぼすということらしいのです。

わかる気がします。たとえば家族がいい顔をしない環境だと、写真を撮りに出かけることに後ろめたさやストレスを感じ、いい効果は期待できないからです。

それといろんなものに対しての好奇心が衰えないことです。いい写真を撮るためには、自分で情報を集めたり、写友や指導者から技術の吸収をしなければなりません。

年齢によって被写体(テーマ)を変えていくのもいいようです。体力がなくなってきたら山には登らないで、近辺の草花にレンズを向けてみるとか。

無理はしないということですね。人の強制や義務感でやるのは、あまり良いことではありません。そもそもそんな写真は長く続かないでしょうし。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/30

和風喫茶&ギャラリー楽風で「福井昭夫絵画展」の搬入

160330_1

160330_2

160330_3

160330_4


埼玉県浦和の和風喫茶&ギャラリー楽風(らふ)へ久しぶりで行ってきました。

前回俺が写真展『秩父桃源』を開いたのは震災前の2009年なので、ずいぶん経ちます。

今回は『福井昭夫絵画展』の搬入と飾りつけを手伝いました。明日からギャラリーで見ることができます。福井は、毎日会場に詰めるそうです。

楽風の敷地には樹齢80年ほどのりっぱな桜の木があり、2階の畳敷きのギャラリーからも桜が見えます。

植物を描いていますが、絵は奥行きも感じるのですが、それよりも、まるで浮世絵のような平面的な色彩構成もあって、「空間」よりも「瞬間」を感じました。その「瞬間」でなければダメという風景。

気になるのです。これはいったい「いつ」の風景なのかと。林の絵では、夜のようでもあるのに、木の影が描いてあるから日中なのだろうか?とか。ハスの葉が光っているので昼なのだろうけど、下に見える水面を見ると夜のようでもあるとか。

不思議な風景です。平面的だからよけいに時間の圧縮みたいなものを感じるのかもしれませんが。

それで福井に聞いてみました。すると「時間というか、時刻は気にしている」とのこと。前回は街並とか、建物の風景だったので、より「空間」に目が行ったのかもしれないですね。
  
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/29

写真や旅がセラピストの役目を果たす

160329


放送大学の単位認定試験の結果、心理学科目修得単位はこれで38.5単位になったので、「認定心理士」申請の要件「36単位以上」は満たすことができました。

あとは申請する手続きです。これには3か月くらいかかるようです。まずは、修得単位の証明書をもらうために大学に単位表を送りました。それが返信されてくるのが2か月後らしい。

それから日本心理学会に本申請しなければならないので、もし落とされることなく、無事に資格を取れたとしても、今年の夏くらいにはなってしまいそうです。

急いでないので時間はとくに気にしませんが、景観や風景など、今まで関心があったことについて、もっと自信を持って原稿を書けるのはいいかなと思っています。

そして新しく、講演会やセミナーやトークショーの講師と主催者をマッチングするサイトに登録することにしました。

今までも講演会やセミナーは頼まれればやってきましたが、これからはもっと積極的にやってみたいと思います。

テーマはもちろん棚田や旧暦もですが、今度は心理学を生かしたテーマにも取り組んでいきたいと思います。芸術療法、表現療法、写真療法としての写真と旅について。

イメージを活用して自分の創作活動に生かしたいと思って心理学を勉強し始めたら、写真や旅がいかに元気をくれたか、生きる上での助けになったか、自分にとってはセラピストの役目を果たしていたことがわかってきました。

「写真療法」とか「表現療法」とか「芸術療法」とか、ちゃんと名前まであって、内容を知っていくうちに、これは俺が若いころからずっと抱えていた問題の解決策になるのでは?と思ったのでした。

それを発信する方法です。講演会やセミナーやトークショーは適しているのではないかと。

以前、バイオリニストの葉加瀬太郎さんのラジオ番組に出たとき、葉加瀬さんから「あおやぎさんにとって旅とは何ですか?」と聞かれた時、「やらざるを得ない、仕方ないもの」と思わず答えました。

「外に出たい」という強い衝動です。水や空気がないと死んでしまうように、旅がないと精神的に死んでしまうのです。だから逆に「旅しているときは精神的に安定する」と言うこともできるのです。

そのときは葉加瀬さんからも「なんて大げさな」とも思われたようだし、俺自身も、大げさな答えだなぁと少し恥ずかしくなりました。でも、今考えると、旅はまさしく俺のセラピストだったのです。無意識に答えことが、数年たって当たっていたことがわかりました。

詳しくは機会をあらためてまた書こうと思いますが、白いキャンバスに体を使って軌跡を描くようなイメージがあって、俺にとっては旅も「表現」のひとつなのです。

ただし、こういった切羽詰まった人は、一般的ではなく、特殊な人だけなのかもしれません。そこは自覚しているつもりです。副作用の強い薬の処方箋かもしれないからです。

でも、だからこそ、悩んでいたり、先行きが見えなくなっている人に少しは参考になることもあるかもしれません。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/28

フランス・パリで出会った東洋人。「二重身の現象」について

160318


『河合隼雄著作集 ユング心理学の展開2』(岩波書店1994)に、「二重身(ドッペルゲンガー)の現象」というのが書いてありましたが、似たような体験があったので興味をひかれました。

ところでこの本によれば、江戸時代に「影のわずらい」とか「影の病い」と呼ばれるものがありました。またの名を「離魂病」。これは自分自身の姿を見ることだそうです。

自分の姿を見ると死ぬという言い伝えは、日本だけでなくドイツにもあるそうです。ただ魂が抜けた話でも、中国にはハッピーエンドになる話もあるようで、一概に自分の姿を見ることが悪いかどうかは言えないようですね。

「二重身」というのは、もうひとりの自分の姿が見えたり、その存在が感じられたりする現象のことですが、心の内に別人格があってそれが交互に出てくる「二重人格」とは違います。

芥川竜之介も二重身の体験があったといわれ、『二つの手紙』という二重身をテーマにした短編があるそうです。

二重身の体験には鏡が関わっていることがあります。フロイトもこういった体験がありました。旅行中、寝台車で、一人の老人が自分の部屋に入ってきたので、間違えてますよと説明しようと思ったら、ドアの鏡に映った自分の姿だったという体験です。

これは自分の映像を他人だと思ったので、二重身とは真逆の体験ですが、自分に対する存在感について不安を引き起こす点で、精神的には二重身体験と共通するものがあるのだそうです。

そこで、俺の体験はこういうものです。フロイトのと少し似ていますが。

それは20代に、ヨーロッパを旅していたときのことです。金がなくなって、いくつかバイトをしたのですが、最後に行き着いたのがパリの韓国系フランス人経営の日本・韓国レストランでした。

ある日、レストランが非番だったのか、街を歩いていたら、向こうから東洋人が歩いてきたのです。その姿はちょっと薄汚れていました。

当時は、薄汚れた格好をした東洋人は、日本人バックパッカーが多かったので、「あ、日本人だ」とピンときて、挨拶しようか、どうしようか迷いながら進んでいくと、向こうもこちらを見ながら歩いてくるのです。

そして、数メートルに近づいたとき気が付きました。そうです。それは店のガラスに映った自分の姿だったのです。

苦笑してしまいました。どうして自分だと思わなかったのかと。

長く外国へ行っている人は体験するのかもしれませんが、自分の目がフランス人になっているんですね。つまり、俺自身の姿(見かけ)も、周りのフランス人と同じだと思い込んでしまっていた、ということなんだろうなと思いました。あくまでも錯覚なのですが。慣れといってもいいかもしれません。

でも、この二重身の話を聞くと、この体験が別の意味を持っていたんだなとあらためて思うのです。

二重身体験の背後に、「ぼくは本当は何なのか?」とか「ぼくとは何か、人とは何か?」といった根源的な問いが存在していると、この本では指摘しています。

俺の体験で言い換えれば「日本人とは何か?」という問いになるでしょうか。当時を振り返ると、確かにそれはあったかな。

日本のど田舎から突然ヨーロッパへ行って、フランス人の中で暮らしていくということは、日本人というものを逆に意識せざるを得ない場面が多くあったはずです。

でも、「あの東洋人は、俺ではない」という否定から入っているわけですね。内心ではフランス人のようになりたいという(見かけも、文化的にも)願望があり、パリのレストランで働いてもいるし、既にそうなっていると自分では思っていたのに、でも、そうではないんだということを薄汚い東洋人の姿を見せつけ、俺に現実を突き付けてきた体験だったのかなと思います。

日本人はあくまで日本人でしかないんだということです。当時、正直言えば俺も西洋人に対して劣等感があったのは確かです。否定から入ったのはそのせいではないかと。今は、劣等感はなくなったと思っていますが、わかりませんね、心の中は。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/26

将来なくなるかもしれない職業リスト

160326


ITやAI(人工知能)やロボットなどの技術の発展で、将来なくなるかもしれない職業リスト。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40925

http://diamond.jp/articles/-/76895?page=2

いろいろありますね。

車のドライバーの場合を考えてみます。

今、同じ目的地へ行きたい人と車のマッチングをして、相乗りするサービスがあります。ガソリン代や高速代の「割り勘」というお金のやり取りなので違法な「白タク」にはならないそうです。

こういったサービスは海外では流行ってるらしい。日本では初対面の人とドライブすることに抵抗はあるかもしれませんが、ヒッチハイクしていた経験からいうと、ネットやアプリが発展してきて、こういうドライブ形態ができてきたのは自然の成り行きかなと思います。車の持ち主も旅行者もWin-Winの関係で、今後流行っていくことになるかもしれません。

いずれこういう車が増えていくと、長距離路線バスとバッティングする可能性が高いです。

アメリカではもっと進んでいて、アプリと自家用車を使って、まるでタクシーのように、乗客を乗せて仕事をしている人たちがいます。実際、こういう車が増えて、「仕事を奪うな」と、タクシーの運転手たちがデモを行ったり、タクシー会社が倒産したりしているという話です。

それともうひとつ、自動運転技術は革命的です。日本でもタクシーにはまもなく自動運転車が導入されるそうだし、ますますドライバーという仕事が減っていくだろうということは予想できます。

今年1月に起こった軽井沢スキーバス転落事故を考えても、運転技術のミスによって起こる事故を回避できるようになるかもしれないので、自動運転技術の需要は高まっていくと思われます。

ドライバーについて書きましたが、カメラマンや写真家だってそうです。すでにジャンルによっては無くなっています。

カメラそのものも、かなりの部分がAI化されています。ロボットみたいになっています。手足はまだないというだけです。

生き残れるとしたら、芸術、アートとしての写真、特殊な付加価値の付いた写真を撮影するカメラマン、写真家でしょう。それと写真を使って何か別のの目的を追究するカメラマン、写真家たちも。

職業としてのカメラマン、写真家が仮に無くなっても、写真そのものの価値がなくなるわけではない、ということは強調しておきたいと思います。「職業」が無くなっていくだけです。

ITやAIやロボットに仕事を奪われてどうなるんだという心配がありますが、たぶん、今世界で起こっていることはもっと根本的なこと、「仕事」というものを問い直す大きな転機でもあるのではないかなと思います。

「仕事が無くなって生活が心配だ」という問題と「仕事とは何だ」という「仕事」そのものの再定義の問題、両方あります。

スイスでは、「ベーシックインカム制度」の国民投票が行われる予定だそうです。

これは毎月2500スイスフラン(約30万円)が国から支給される制度です。物価高のスイスでは、30万円でも生活は楽ではないかもしれず、働かないとだめかもしれませんが。(だから「ベーシックインカム」と言うんでしょうが)

こんな理想的なことが実現できるのでしょうか? 不思議です。

もし実現したら、これは「国家のヒモ」になるということでしょうか。

「仕事が無くなって生活が心配だ」という問題は解決されるのかもしれませんが、人間にとって「仕事とは何だ」という問題は依然として残るでしょう。「国家のヒモ」で幸せなのか?ということなんですが。

芸術系の人にとっては朗報ではあると思います。昔から芸術家は誰かのヒモになっていたし。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/25

今日は、二十四節気「春分」、七十二候「桜始開(さくらはじめてひらく)」

160325_1

160325_2

160325_3


今日は、二十四節気「春分」、七十二候「桜始開(さくらはじめてひらく)」です。

暗い穴から抜け出したような、「ワーッ!」と叫びたくなるような、そんな春の息吹を感じて撮りました。

妻の実家近くの公園には、河津桜が10本ほどありましたが、もう散り始めています。

ソメイヨシノの方は開花したばかり。満開になるのはあと1週間ほど先でしょうか。

今年の東北の桜はどうでしょうか?

去年は、開花が早すぎて、ソメイヨシノの桜前線に追いつけませんでした。その代わり、ヤエザクラなど、他の桜は見ることができました。

Ya_2東北の咲う桜 【岩手・宮城・福島】
  
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/24

映画 『紙の月』 を観て。生きられないもう一人の自分「影」 【ネタバレ注意】

160324

(有明の月)


映画 『紙の月』 を観ました。

『紙の月』は、角田光代によるサスペンス小説を映画化したものです。原作は読んでいませんが、映画としてはたいへんいいと思います。

破滅的な生き方にあこがれもあります。

普通に生きていれば幸せなのに、と誰もが思うのに、本人にとっては安住の地ではない、存在の不確かさを抱えて生きるしかない人もいます。

映画の宣伝コピーには、「平凡な主婦が引き起こした大金横領事件」とあるのですが、宮沢りえ演ずる梅澤梨花は「平凡な主婦」なのでしょうか。そうじゃないと思いますけどね。彼女もまた破滅的な生き方で存在感を確かめるタイプの人間ではないのかな。

それと、彼女には特殊な考え方のアンバランスさもあります。

目的が崇高で、ただし、手段を選ばないというものです。そのちぐはぐさが際立っているのです。この点も、少なくとも「平凡」や「普通」ではないと思います。

そのことは少女時代から兆候があったようです。貧しい子供たちに幸せになってほしいと、学生にもかかわらず高額の寄付をします。でも、そのお金は父親の財布から盗んだお金でした。

そして大人になった彼女の性格も、変わってなかったようです。

不倫関係になった(不倫する動機が分かりづらいですが)青年の学費を出してあげようとする献身的な経済的援助。そのお金も銀行員である立場を悪用して、顧客からだまし取ったお金でした。

目的と手段がちぐはぐなのです。しかも破滅的な生き方を指向する女性です。だから平凡な主婦が青年に恋をして貢いだ結果として横領に手を染めた、などとというものではなく、もっと確信犯的です。

横領が発覚し、小林聡美演じる先輩行員の隅より子と相対するシーンがあります。このシーンは、横領してしまった行員と、真面目な先輩行員という構図以上に、人間の表に見える心と、それと反対の裏に渦巻く心の対決、というふうに見えました。

この両者お互いはユング心理学でいう「影」どうしなのではないでしょうか。梅澤は隅にとっては、自分では生きられないもう一人の自分「影」。

「やりたいことをやって生きたい」と言います。でも、そう言うのは普通の人です。梅澤は「やりたいことをやって生きている」などと意識していない、「やらざるを得ない」からやっているにすぎないように思えます。

梅澤の「本物じゃない。初めから偽物」というセリフがあります。自分の人生が嘘っぽく感じていたのでしょうか。「お金」というのも、嘘っぽい紙切れでしかありません。自由を得るには、嘘を使うしかなかったと。そしてそれが嘘であるがゆえに、いつかは消えてしまうこともわかっていたはずです。

隅が「返金すれば刑事告訴されないかもしれない」というと、梅澤は、

「行きます。行くべきところに。それしかないですから」

と言います。行きつくところはやはり破滅しかなかったのかもしれません。悲しいかな、破滅することでしか生きる実感を持てない、本物の生を感じることができないとは。

でも、隅はそんな梅澤を100パーセント否定できなかったのではないでしょうか。それは梅澤に、自分の「影」を見ているからです。

それを梅澤は見透かしています。銀行から逃げるとき、

「いっしょに来ますか?」

と、隅に聞きます。もしここで「影」である隅もいっしょに行っていたら、どうなっていたでしょうか。もちろん梅澤は隅が来ないことを知っていたでしょうが。

普通の人は、「影」の存在を内に抱えつつも、「影」に全部をゆだねてしまったりはしません。そこが梅澤(普通でない人)と、隅(普通の人)の違いなのでしょう。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/23

智光山公園の「こども動物園」

160323_1(テンジクネズミのおかえり橋)

160323_2(ミーアキャット)

160323_3(マーコール)

160323_4(ホトケドジョウ)

160323_5(アカヒレタビラ)


近くにあると、かえって行かないというものがありますが、智光山公園内の「こども動物園」もそのひとつでした。

平日にもかかわらず、けっこうお客さんも多くて、なかなか面白い動物園でした。

珍しい動物もいますが、テンジクネズミ、ヤギ、ヒツジ、ポニーなどと触れ合える動物園で、子供たちにも人気です。

マーコールというのは、ウシの仲間で、アフガニスタンやパキスタンの山岳地帯の崖などに住んでいます。

小さな水族館では、埼玉県の絶滅危惧種の淡水魚がいくつか展示されていました。掲載の写真は、ホトケドジョウとアカヒレタビラです。開発が進んでこういった小さな魚たちも希少な動物になってしまいました。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/22

ショーンK氏の次の嘘つき急募!!

160322


ショーン・マクアードル川上(ショーンK)氏。いや、川上伸一郎氏と呼ぶべきなのでしょうか。

ショーンK氏は、隙間が怖いのかと思うほど、言葉を矢継ぎ早に出す人だなぁと思っていました。

相手に反論する隙を与えないほど言葉は多く、しかも専門用語もあって、意味はあまり分かりませんでした。でも、高学歴だし、MBAも取得しているし、きっとすごいことを解説しているんだろうなぁと思って聞いていました。

彼もまた「こういうキャラクターが欲しい」というメディアの使い勝手の良い理想像として作り上げられたものではなかったのかな。

「イケメン」、「美声」、「高学歴」、「海外・ビジネス通」と完ぺきな「商品」でした。

佐村河内氏の作られ方と同じものを感じます。

ラジオ番組での謝罪コメントを聞く機会がありましたが、いっさいの「言い訳」がない。佐村河内氏のような「目が悪いのは事実」といった悪あがきがないのです。そういう意味では、佐村河内氏の方が人間味を感じます。

「ショーンK」って本当に実在した人間なんだろうか?と思ってしまいます。「ビジネスメディア界の初音ミク」みたいな存在だったのかな。

報道ステーションでは、古館氏はときどき「さすがショーンさんですね」などとおだてていたのに、学歴詐称が発覚したとたん、手のひらを反すように、自分たちも被害者のように謝罪しただけ。漢字一文字間違っただけで謝罪していたのに、大きな嘘の謝罪にしては、やけに小さく感じるのは俺だけでしょうか。

「報道」という最も正確さを重視しなければならない番組で、他人の不正を糾弾していたのが嘘つきのコメンテーターだったというのはブラックジョークです。「嘘つきの的を得た発言」というのもまた皮肉っぽくて面白いですね。

詐称は、だれでもあるでしょう。俺も学歴詐称はしていませんが、時々髪も染めて「黒髪詐称」しているし、悪意はないですが年齢が時々わからなくなり(この歳になるとよくあるんです)、1歳、2歳若く間違えてしまう「年齢詐称」はあります。

彼の場合は、華々しい肩書や「ハーフ」という立場があったから、コメントに付加価値が付いて高く売れたと言わざるを得ず、法律的責任があるのかわかりませんが、道義的には問題はあると思います。

タレントであったらよかったのに。詐称なんてそれほど大きな問題にならなかったはずです。報道に関わったのが運の尽き。

小さな嘘より大きな嘘の方が信じられやすいということですね。そのあたりも佐村河内氏や小保方氏と似ています。人間の盲点です。大きな嘘には「まさか」と思ってしまうから。

メディア(あるいは世間)が何を求めているか敏感に感じ取れる才能はあるのでしょう。そこにぴったりとはまったキャラクターは重宝だから、多少怪しくても需要があるのです。

だから、メディアには、今後も嘘つきが次から次へと現れると思いますよ。世間が完ぺきで華やかなキャラクターを待ち望んでいるかぎり。

俺もけっこう嘘つきとか詐欺師は嫌いではない方なので、また新しい嘘つきキャラクターを待っています。

 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/21

太鼓打ち、富田和明さんたちの「太鼓アイランド フェスティバル 打一好祭 2016」

160319_1

160319_2

160319_3

160319_4

160319_5


太鼓打ち、富田和明さんたちの「太鼓アイランド フェスティバル 打一好祭 2016」の撮影で行ってきました。

富田さんが打つ、大きな太鼓の原始的な音は心に染みます。太鼓一打の音に、微妙なうねりやゆらぎのようなものを感じます。太鼓の音のシャワーを浴びているのは気持ちがいい。

いつものことですが、全員参加の演奏は圧巻ですね。俺も写真を撮っているというより、太鼓をたたいているような感覚になってくるのが不思議です。実際リズムに合わせないとシャッターは押せないし。

太皷は一番本能に近い楽器と言えるのかもしれないですね。どんな民族にも太鼓のような打楽器はあります。

先日「ハイパーソニック・エフェクト」について書きましたが、西洋音楽のスネアドラムと比べても、和太鼓の方が耳に聴こえる20kHを越えた高周波成分が豊富で、100kH程度まで含んでいるそうです。和太鼓の音の中にいるだけで、身心ともに良い影響を受けるのです。気持ちいいわけですね。

世界中の楽器を調べた研究によって、「伝統」と言われる民俗楽器や民族音楽に超高周波成分が多く含まれています。それに比べて西洋近代音楽は、あまり超高周波成分を含んでいないという話は、先日も書きました。

「伝統」というのはすばらしいですね。民族楽器や民族音楽は、科学的な知識ではなく、体験から試行錯誤して、「こっちのがいい」と、長い年月をかけて作り上げてきた結果が、とてもすばらしいものになっていた典型です。

あらためて和太鼓の奥深さを感じる発表会だったと思います。




にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (3)

2016/03/20

今日は二十四節気「春分」、あけましておめでとうございます??

160320_1(エスファハン イマーム・モスク)

160320_4(エスファハン チャイハネ)

160320_3


新年あけましておめでとうございます。

はぁ??と思う人もいるでしょうが、今日2016年3月20日、イランはイラン歴1395年の元日です。

イランはイスラム教国ですが、大陰暦であるイスラム歴ではなく、太陽暦であるイラン歴を使用しています。

イラン暦の元日は「ノウルーズ」といって春分の日です。イラン以外にも、中央アジアからアフリカまで広い地域で祭日になっています。ヨーロッパなどでも、春分が春の開始とするところがあり、いくつかの国では休日だそうです。(Wiki参照)

ノウルーズでは、さまざまなもので飾って祝うそうですが、金魚鉢に入れた金魚はノウルーズに欠かせない飾りらしいですね。

そういえばイラン映画に『運動靴と赤い金魚』というのがありました。少年アリが、妹ザーラの靴を失くしてしまって、ふたりでアリの運動靴を共有しなければならなくなって、最後は切なくなるような結果だったような。新年には関係ない映画だったと思いますが、色鮮やかな金魚が出てくるのは印象に残っています。

国際連合総会は2010年、この日を「ノウルーズ国際デー」として正式に承認しました。国際的にみると、春分の日は大切な節目の日なんですね。

日本でも、二十四節気「春分」、七十二候「雀始巣(すずめはじめてすくう)」です。

「春分」は昼と夜の長さがほぼ等しくなるときで、日本でも「春分の日」という国民の祝日になっています。


「春分」の期間の七十二候は次の通りです。

初候: 雀始巣(すずめはじめてすくう 雀が巣を構え始める)

次候: 桜始開(さくらはじめてひらく 桜の花が咲き始める)

末候: 雷乃発声(らいすなわちこえをはっす 遠くで雷の音がし始める)
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/18

「福井昭夫絵画展 -植物を描く-」と「坂本長利ひとり芝居 土佐源氏」のお知らせ

Fukui


「福井昭夫絵画展 -植物を描く-」開催のお知らせです。

会期: 2016年3月31日(木)~4月12日(火)  ※4月6日(水)は休み
時間: 10:00~19:00 (最終日は17:00まで)

日本茶喫茶・ギャラリー 楽風(らふ)
埼玉県さいたま市浦和区岸町4-25-12
電話048-825-3910
http://rafu-urawa.com/

ギャラリー楽風は、俺も何度か写真展を開かせてもらったところで、1Fが喫茶で、2Fがギャラリーになっています。畳敷きの土壁の2部屋のギャラリーで、純和風な空間はとてもユニークです。

桜の時期でもあるので、近くに行くことがあったらぜひ寄ってみてください。

それから、絵画展開催中、記念イベントとして、民俗学者 宮本常一 聞き書きによる『忘れられた日本人』の、牛馬売買人「馬喰」として生きた盲目老人を、今年87歳を迎える役者、坂本長利さんがひとり芝居として演じます。

『土佐源氏』です。俺も以前一度拝見していますが、まるで老人が坂本さんに乗り移ったのかなと思うほど、迫力のある芝居でした。

俳優 坂本長利さん出演の映画『ハーメルン』と独演劇『土佐源氏』を鑑賞して」(2014/06/17)

日時: 4月2日(土)18:30開場 19:00開演
場所: ギャラリー楽風 1Fにて
料金: 2000円
定員30名 ※要予約
予約:は楽風 048-825-3910
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (4)

2016/03/17

インドネシア・バリ島、ガムラン音楽の「ハイパーソニック・エフェクト」

160317_1

160317_2


インドネシア・バリ島へ行ったときは、必ず聴くガムラン音楽。

音の洪水の中に身を浸していると、それこそ自分がどこにいるのか、一瞬わからなくなるような、不思議な体験をするのもガムラン音楽です。

聴衆もそうですが、演奏者もそんな体験をしているらしいのです。

「ハイパーソニック・エフェクト」というのがあります。

「音楽・情報・脳('13)」によると、

「人間に聴こえる周波数の上限は20キロヘルツを超えない。ところがこの知覚限界をこえる超知覚情報が可聴音と共存すると脳深部を活性化し、心身にポジティブな効果をもたらす。」

これがハイパーソニック・エフェクトというものです。人間の耳に聞こえない高周波成分が、脳を活性化し、身体や心に良い影響を及ぼすというのです。体の健康をもたらし「美しさ」や「快さ」を感じるんですね。ただし、超高周波成分は、耳ではなく、体の表面で浴びる必要があるのですが。

今、音楽や環境関係で話題の効果ですが、もともとこの効果に気が付いたのは、LPからCDへの過渡期、芸能山城組の山城祥二(大橋力)氏たちが、聴くための周波数はどれだけ必要かを研究しているとき、生の音楽をCDにすると、超高周波成分が抜け落ち、「何かが違う」という違和感から気が付いたのだそうです。

聴こえていない音の効果ですが、世界の民族音楽にそのエッセンスが濃厚であることが分かってきました。

とくに、インドネシアのガムランには、そのエッセンスを強烈に感じて調べてみたら、100KHz成分まで含まれていました。ところが、ピアノやオーケストラなど西洋音楽にはあまり含まれていないということがわかったというのです。

西洋近代音楽には、あまり超高周波成分を含んでいないという事実は、知覚できないもの、意識できないものを切り捨ててきた西洋近代の思想と無縁ではないかもしれないということですが、面白いなぁと思いますね。

聴こえないものの大切さを発見したのが日本(非西洋)だったというのは、必然だったのかもしれません。

最近は、現代病の予防、治療、音環境の快適化、ハイレゾリューションオーディオへの応用など、様々なっ分野でハイパーソニック・エフェクトが活用されるようになっています。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/15

NHKスペシャル『原発メルトダウン 危機の88時間』

160315_2(刈羽原発模型)


おとといのNHKスペシャル『原発メルトダウン 危機の88時間』で、原発事故の再現ドラマを見ました。

「あの日、現場で何が起きていたのか?なぜ、放射能を封じ込めることができず、大量放出に至ったのか?」(NHK公式HP)

メルトダウンがどういうふうに起きていったか、時系列でわかって、あらためて当時のニュースを思い出しました。菅総理があんなに多忙をきわめた現場によく行ったもんだなと、そして枝野さんの大本営発表もむなしく聞こえました。

2号機の危機は、とんでもなかったんですね。もし格納容器が爆発していたら、東日本は人間が住めない場所になっていたという。そこまで覚悟したという証言もあって、あらためて背筋がぞっとしました。

奇跡としかいいようがないですが、ドラマでもなぜ爆発しなかったのかは現在でも詳しくはわかっていなかったようです。いろんな接合部からガスが漏れて、結果的に、容器の圧力が下がり、爆発を免れたようなことを言っていました。一国の存亡が「運」にかかっていたという衝撃は大きいです。

1000年単位の大津波だったといいます。もし原発事故が津波が主な原因だとすれば、確率的には次の大津波、原発事故が起こるのは低くなったといえるのかもしれません。

また関連死はあっても、直接の死者がでなかったことで、「原発事故で死ぬ確率」は「交通事故で死ぬ確率」よりも低いのかもしれません。

「合理的な考え」ではたしかにそうでしょう。

でも、人間は、いつも合理的な判断をして生きているわけではありません。「嫌だ」と思ったものは嫌だし、「危ない」と思ったものは危ないと思うのも人間です。

俺も人間の生物としての勘といったらいいか、直感といったらいいか、本能みたいなものも、信じたいと思っているところもあります。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/14

雑誌「婦人之友」4月号にスリランカの駅の写真

160309_1

160309_2


雑誌「婦人之友」の4月号巻頭グラビア『行きかうところ』にスリランカの「カタルワ駅」の写真が掲載されています。

カタルワは、スリランカ島南西部、世界遺産のゴールの街の郊外で、海岸までは約300m、周りはヤシ林が広がるホームと駅舎があるだけの小さな駅です。

雑誌では、学校帰りの学生たちが車内でチェスを楽しんでいる写真もあります。(上の写真は雑誌掲載写真ではありません)

2004年12月26日のスマトラ島沖地震によって発生した津波によってスリランカも被害を受け、コロンボ発の列車が津波にのまれ、多数の犠牲者を出しました。その場所がヒッカドワです。慰霊碑( National Tsunami Monument )も立っています。

写真を撮影したのは2012年で、津波で壊された線路がまだ工事中でした。その後、コロンボからゴールまでも全線開通したようです。

雑誌で掲載したカタルワはゴールの南なので、2012年時点でもこの路線は運行されていました。

窓から入ってくる潮風が気持ちよかったですね。また行ってみたいです。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/13

昨日の「日立 世界・ふしぎ発見!」で震災後のネパール

160313(カトマンズ ボダナート)

130925_1(カトマンズ スワヤンブナート)

130925_3(カトンマンズ スワヤンブナートから見た旧市街)

131011_4(カトマンズ タメル地区)

130927_1(伝統的なネワール料理)

131018_8(ポカラ郊外ダンプス ヒマラヤの山々と棚田)

131002_1(ポカラ郊外 棚田)


昨日の「日立 世界・ふしぎ発見!」でネパールをやっていました。

2015年4月25日、12時頃(現地時間)、ネパール中西部で発生したマグニチュード7.8の大地震が大きな被害をもたらしました。

カトマンズのダルバール広場、ボダナート、スワヤンブナートなどの歴史的な建造物や世界遺産の寺院なども損傷を受けました。

俺がネパールへ行ったのは2013年9月下旬から10月中旬にかけてで、地震のつい1年半年前だったので、発生直後の地震のニュース映像で見覚えのある場所が壊滅的な被害を受けているところは胸が痛みました。

でも、昨日の番組を見る限りでは、だいぶ復興は進んでいるようです。カトマンズ郊外の仏塔ボダナートは、まるで違った印象になっていました。おそらく修復中の姿だからでしょうが。下町のタメル地区も人であふれていました。スワヤンブナートのサルが映っていましたが、あいかわらず観光客から物を盗る悪さを続けているんでしょうか。

番組でも、「いまこそネパールへ行きましょう」と言っていました。ネパールの主な産業は観光なので、国を救うのは、観光客がどれだけ戻ってくれるかというところにかかっています。

「観光することで復興の手助けをする」発想は東北被災地と同じです。

被災地を巡る防災ツアーに賛否両論あるものの、やはり地元の復興に観光が一役かうのはたしかです。経済的にもそうだし、震災の記憶を語り継ぐためにも。

機会があったらぜひネパールへ行ってみてください。


2013年の旅行記はこちらで。

Ya_2「ネパールの撮影旅 2013年秋」
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/12

オリジナル犬歌 『いっしょに笑いたいよ』 (哀愁のビーグル犬演歌)


オリジナル哀愁の犬演歌 『いっしょに笑いたいよ』をYouTubeに再アップしました。

数年前に一度アップしましたが、2016年版の新バージョンです。音楽をクリアにし、映像はハイビジョン対応にしました。

なお、歌っているのはソフトUTAUの声ですが、俺の技術では、機械音である不自然さはぬぐいきれませんでした。とくに「僕にかまってよ」、「いっしょに笑いたいよ」のところの「こぶし」が。

なので、この歌に興味を持って歌っていただける演歌歌手の方をお待ちしております。

歌手でなくても、こぶしを効かせて歌っていただける方であればだれでも結構です。


1番:

パパもママも出かけてる 退屈な朝
近所の子供がさわいでる 近所のおばさん笑ってる
噛んだり吠えたりしないから どうか少しでも
僕にかまってよ
犬だって寂しいよ いっしょに笑いたいよ

2番:

冬の霧雨 毛皮刺す 退屈な午後
3時のおやつを忘れてる 3時のワイドショーもう消して
僕のほんとのお母さん どこにいる 今すぐ会いたいよ
今すぐ舐めたいよ
犬だって寂しいよ いっしょに笑いたいよ

3番:

隣のネコに睨まれる 退屈な夜
何にもしていない僕なのに 仕方なく月に吠えるよ
僕のほんとのお父さん どこにいる どうか少しだけ
僕に祈ってよ
犬だって寂しいよ いっしょに笑いたいよ
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/11

今日は東日本大震災から5年めの「3.11」

160311(対岸に高浜原発が見える日引の棚田。直線距離はわずか3.5km)


5年という年月は長かったのか、短かったのか、個人的な感覚では、どちらでもあったような気がします。

5年前、東日本大震災で受けたショックは大きなものでした。津波はもちろん、将来の見通しも立たない原発の事故。日本でもこんなことが起こるんだと。意識はしていませんでしたが結果的に俺も「安全神話」に乗っかっていたんだなぁと思います。

最近は、5年前の記憶が薄れつつあります。俺自身もそうだし、日本人全体としてもそんな感じです。いや、もちろん現在進行形で復興にいっしょうけんめいになっている人や、生まれ故郷に帰れない人たちに、「記憶が薄れた」などというのは失礼の何物でもないでしょう。

5年前はあの原発事故を見て、多くの日本人は、「これではだめだ」、「変わらなければ」と感じたはずでした。あれは動物的な本能と言ってもいいような、人間の生存を根本から脅かす危険物に対する反応ではなかったのかなと思います。

でも、その後、だんだんと原発再稼働の動きが出てきて、あの気持ちはどこへ行ったんだという気にもなっていました。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」なのかなと。

でも、おととい、関西電力高浜原発3号機とトラブルで停止中の4号機について、大津地裁は、運転を差し止める仮処分決定を出しました。約70キロ離れた滋賀県の住民が申し立てた仮処分を認めたところが特に注目される点だといいます。

これは、原発は原発立地自治体の住人たちだけの問題ではなくなったということを意味しているのではないでしょうか。痛みはボディブローのように徐々に効いてきて、生存の危機感から脱原発の方へと向かっているような気がします。

いったん事故になったら広範囲にわたり、どんなことになってしまうのか。それを目の当たりにした日本人は骨身にしみました。もしかしたら、もはや日本だけの問題でもなく、世界の問題でもあるのかもしれません。そしてようやくそれに気が付いたのです。大きな代償を払って。

「できれば原発は使いたくない」というのが、多くの人の本音でもあるでしょう。ただし「できれば」というところが難しく、原発関連で仕事をしている人や、原発があることで経済が成り立っている人がいるのはわかりますが、そんな人でさえ、別な手段があればその方がいいと思っているのではないでしょうか。

福島原発の事故の原因もはっきりせず、避難方法もきちんとしたものは作られていません。メルトダウンしたものをどうやって取り出すか、まだ方法さえ見つかっていません。近々の課題として、汚染水の問題や除染で出た放射性廃棄物をどこに置くのか、問題は山積みです。事故は進行中なのです。にもかかわらず、再稼働するのはおかしいんじゃないかと疑問がわくのは当然のことだろうと思います。

今回のことで司法がちゃんと機能していることに安心しました。これは原発が好きか嫌いかの問題ではなく、法律的に再稼働が認められないということであって、法治国家であるならば、ここは尊重すべきだ思います。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/10

今日は「啓蟄」の次候「桃始笑(ももはじめてさく)」

160310


今日は「啓蟄」の次候「桃始笑(ももはじめてさく)」です。「桃の花が咲き始めるころ」という意味です。

前も書きましたが、「咲」は「わらう」とも読むと聞いたのは4年前のことでした。

「咲」は「笑」の異体字だそうで、もともとは同じ「字」だったのが形が違っていたので、違う意味になってきた、ということらしいです。(Wiki「字体」参照

中国語でも「咲」と「笑」の発音は同じ「シャオ xiao(4)」で、「笑う」という意味です。

だから「桃始笑」→「桃始咲(ももはじめてさく)」なのですね。

「山笑う」という言葉もあります。春の季語で、山の明るい雰囲気を表した言葉です。山の花が咲きほこる季節、「山が笑っている」というイメージはすばらしいと思います。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/09

今日、日本では部分日食

160309(写真は日食とは関係ありません)


日本では今朝、部分日食だったようです。天気が悪かったのでまったくわかりませんでしたが。

インドネシアから太平洋にかけては皆既日食だったようです。

前回2012年5月21日のときの「食」は金環日食で、次に起きる「食」は19年1月6日の部分日食だそうです。

2012年のときは、けっこう盛り上がり、俺もヴィーノがどんな「異常」行動を起こすのかと観察しましたが、日ごろ異常だと、異常がわからないんだなということがわかっただけでした。

Ya_2「「人吠日食」 金環日食での犬の「異常」行動は?」

昔は、「日食」、「月食」の日時を外すと、権威の失墜や、民心が乱れるということもあり、たいへんなことだったようです。

映画『天地明察』で、中国・元の「授時暦」が優れていることを知った渋川春海は幕府に採用を提案しましたが、延宝3年(1675)5月の日食をはずしてしまいました。でも、その後「授時暦」を改良した「大和暦」を作り、それが貞享元年に「貞享暦」として採用されたという経緯がありました。

今は天文観測も進んで「食」の日時は正確に予想できるようになったし、科学的知識が増えて、「食」を特別怖れたりすることはなくなったようです。

でも、わかりませんよ。人間が知らないうちに、何か「食」から影響を受けているかもしれません。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/07

自然な景観(棚田など)が人の心に与える影響

160307_1(長野県飯山市 福島新田)

160307_2(新潟県十日町市)

160307_3(新潟県十日町市 星峠の棚田)


棚田が好きなのは、棚田が広がる現場に立つことが気持ちいいからです。

自然の風景は人を癒したり、ストレスを軽くしたりという効果は、棚田に立つ経験からもわかります。

それを科学的に裏付けるような「自然な景観が人に与える影響」を調べた心理学調査があります。

ここにも「自然な風景は人の精神に良いものであり、人を回復させ元気にさせる何かがある」とあります。人工物よりは自然の風景が良いらしいのですが、ここまでは予想はついたので、はっきり言って、それほどの驚きはありません。(棚田は人工物ではないのか?というツッコミは、今回は無視させてもらいます)

でも、ちょっと気になったのは、次のことです。

「驚いたことに、殺風景な壁とプラズマテレビの画面では、ストレス度の低下の面で差がなかった」というのです。Jolina Ruckert氏は「自然空間を見ることは実際にストレスを低減させるが、自然のデジタルな複製は、退屈な壁と同程度の影響しか持たなかった」と述べています。

つまり、写真やテレビで見る自然の風景は、それほどの効果はないと受け取ることもできます。写真家という立場からすると、あまり嬉しい情報ではないのですが。

そこで思い出しました。「ハイパーソニック・エフェクト」というのがあります。

音楽を聴いたとき、人間の耳には聴こえない超高周波成分が、人間の生理活動、脳活動で快さをもたらすという説です。この効果に気がついたのはLPからCDに代わるころ芸能山城組の山城祥二(大橋力)さんたちです。(ただ、超高周波成分は耳ではなくて体(肌)で浴びる必要がありますが)

ちなみにインドネシア・ガムラン音楽には、多くの超高周波成分が含まれているそうです。

「音」で、人間の耳には聴こえない周波数成分が心に影響しているなら、「光」についても同じようなことはあるのではないでしょうか。

目には見えない、「可視光線」以外の光、電磁波ですね。たとえば、赤外線や、紫外線(不可視光線)。こういったものがもしかしたら人間の心に何か影響を与えているのではないかと。

写真やテレビでは効果がないというのは、生の演奏から超高周波成分が抜け落ちたCDを聴いているようなもので、現実の自然の風景には、不可視光線もたくさん含まれているはずです。そういうものがあって初めて癒されたり、ストレス軽減されたりするのかもしれません。そう考えれば、「写真やテレビでは効果がない」ここと矛盾しません。

「聴く」とか「見る」というのは、耳や目だけの話ではなくて、もっと全体的な心的活動なんだということでしょうね。棚田に立った時、目で見ているだけではなくて、匂いや温度なども感じています。五感を総動員して棚田を味わっているのです。

「聴く」も「見る」も体験です。現場に立たなければ、本当の意味での「聴く」も「見る」もしていないということになるようです。(ただ「自然写真」に意味はないと言っているわけではありません。芸術としての「自然写真」は、あくまでも作家の内面の表現であり、別な感動と意味があります)

実際の体験が人間には必要だということなのでしょう。本やテレビやラジオやネットで見聞きしているのはあくまでも意識できるレベルでの情報でしかなくて、その先にある広大な世界のほんの一部分をかじっているにすぎないということなのではないでしょうか。しかも一見無駄とも思える、俺たち人間が感知できない何かが、実はとても大切な働きをしているかもしれない、という話は考えさせられます。

現場に立つ大切さはここです。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/05

今日は、二十四節気「啓蟄」、オリジナル七十二候「蟄犬出炬燵(すごもりいぬ こたつをいづる)」

160305_2

160305_1


今日から、二十四節気「啓蟄」です。

一応、世間では、七十二候「蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)」です。土の中で冬眠していた虫たちが出てくるといった意味です。

まるで冬眠するように、こたつに潜り込むのが日課になっていたヴィーノも、ぽかぽか陽気の公園を歩いてうれしそうです。梅が咲き始めています。7分咲きといったところでしょうか。

だから我が家オリジナルの七十二候は「蟄犬出炬燵(すごもりいぬ こたつをいづる)」です。

二十四節気は観念的な言葉ですが、七十二候はより具体的な事物で、「季節あるある」なのです。だから、オリジナルの七十二候があってもいいのではないでしょうか。その人にとって、どんな言葉、どんな事物で季節を感じられるか、ですね。今後もオリジナル七十二候を考えてみたいと思います。


1874年(明治7年)の「略本暦」に掲載された「啓蟄」中の七十二候は、以下の通りです。

初候: 蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく 冬蘢りの虫が出て来る)

次候: 桃始笑(ももはじめてわらう 桃の花が咲き始める)

末候: 菜虫化蝶(なむしちょうとけす 青虫が羽化して紋白蝶になる)
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/04

石巻市&女川町の取材旅(03) 波板の和船「第2勝丸」の登録プレート

160213_1

160216_1

160216_2


石巻市雄勝町波板は、2014年に完成した情報交流センターのナミイタ・ラボが拠点になり、様々な人たちやアイディアが結びついて、新しい集落の姿が模索されているところです。

この話は、雑誌「ノジュール」には書いていませんが、東日本大震災の津波で流された、波板地区の人が所有していた和船「第2勝丸」の登録プレートが、流れついたアメリカ・ ハワイのオアフ島から届いたそうです。

船がオアフ島の女性によって発見されたのは去年2015年4月22日のこと。船自体は現在ハワイで保管されています。

会長の伊藤さんたちは震災の教訓を後世に伝えるために「第2勝丸保存会」を立ち上げて、船の保存に向けて活動しています。

プラスチック製のプレートは横75cm×縦17cmで「雄勝 遊 939」の文字が残っています。

伊藤さんには海岸の雄勝石(玄昌石)を埋め込んだ防潮堤の上で、プレートを持った姿を写真に撮らせてもらいました。

波板は17戸の住宅や桜並木が流されてしまって、津波の遺構というものはありません。なので、この「第2勝丸」を譲り受けることを検討しているそうです。

人の記憶は、だんだん薄れてしまいやすいものです。だから思い出すための記念碑やモニュメントは必要かもしれないですね。それと犠牲になった人たちに手を合わせる場所もあったほうがいいのかもしれません。


160229(ノジュール3月号の表紙)


3月11日に「第2勝丸」が届くというニュース(三陸河北新報社):

震災から5年 ハワイに漂着した雄勝の和船、古里に向け出港
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/03

石巻市&女川町の取材旅(02) 「女川温泉ゆぽっぽ」と「石巻日日新聞」

160212_1

160303

160212_3

160212_4


宮城県女川町は、JR女川駅を中心に公共施設や商業・観光施設などをコンパクトに集めた市街地に生まれ変わろうとしています。

震災後、石巻線が全線再開し、駅と温泉施設が合築された「女川温泉ゆぽっぽ」がオープンしたのは1年前。2階に浴槽があります。

1階の土産物売り場のホールに、東日本大震災直後の3月14日、避難所に張り出された「石巻日日新聞」の現物が展示されています。

新聞社の社屋も津波で被害に遭い、輪転機なども壊れました。社員たちは「電気はなくても、紙とペンがある」と決意し、自分たちの家族の安否もわからない中、6日間作り続けたという。

世界で大きな反響のあった壁新聞ですが、アメリカ・ワシントン報道博物館「ニュージアム」に永久保存されているそうです。日本でもテレビドラマになりました。新聞の原点を見るようです。

駅前には海へと続く広いプロムナードが延びています。その両側には「シーパルピア女川」という商店街ができています。

昼食は編集者といっしょに、この真新しい商店街の一軒「きらら女川」で、メンチカツ定食を頼みました。地元の人たちで混んでいて、人気のメニューのようです。


160229(ノジュール3月号の表紙)

 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/02

石巻市&女川町の取材旅(01) 石巻市日和山公園&復興まちづくり情報交流館中央館

160211_3(南浜地区と旧北上川河口)

160211_7>(南浜地区と新門脇地区)

160211_8(鹿島御児神社の鳥居)

160211_4(旧北上川の上流方向、石ノ森萬画館)

160216_3(復興まちづくり情報交流館 中央館)

160216_5(復興まちづくり情報交流館 中央館)


JTBの雑誌「ノジュール」3月号の「元気になろう日本」に、先日取材した宮城県石巻市と女川町の写真と記事が掲載されています。日和山公園の桜の写真は、震災2年目、2012年のものです。


日和山公園の展望台からは、南浜地区のところどころでかさ上げ工事が本格化しています。追悼・祈念施設が設置され鎮魂の場となる「復興祈念公園」として整備されるそうです。

また山の下には、去年はなかった復興住宅の建設も始まっていました。南浜地区には住宅が建てられませんが、ここは道を挟んだ内陸側、新門脇地区で、住宅を建ててもいいところに含まれています。

取材したのは2月1日で、まだまだ寒い日でしたが、4月下旬、桜は今年もきれいに咲くのではないでしょうか。

日和山の北側200mほどのところに「復興まちづくり情報交流館 中央館」があります。震災前後の写真の展示が行われています。


160229(ノジュール3月号の表紙)

 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/03/01

アメリカ合衆国大統領選挙候補者トランプ氏で映画 『クラッシュ』を思い出す

160301


今日はアメリカの大統領予備選挙の「スーパーチューズディ」です。

トランプ氏の勢いが止まりません。今日の投票でどうなるんでしょうか。

あの物言い、差別主義者そのものに見えますが、過激発言でニュースになり、宣伝費をかけずに話題を集めるところも、ビジネスマンとして抜け目ないというか。

ひどい候補者だなと思っていました。でも、どうもある一点では、トランプ氏に魅かれるのです。べつに俺はアメリカ人ではないし、有権者でもないので、魅かれる理由は、もちろん政治家としてではありません。もし日本でこんな候補者がいたら、きっと投票しないと思うし。

トランプ氏は堂々と差別主義を振りかざしています。でも、差別的発言はダメだといいながら、無意識では(裏では)差別をしている政治家や権威者に「あなたほんとにそうなのか?」と疑問を突き付けているような、そんなふうに見えるところが無視できないのです。

『クラッシュ』(原題: Crash)というアメリカ映画がありました。第78回アカデミー賞作品賞受賞作品です。

ロサンゼルスで発生したある交通事故から物語は始まって、アメリカ人の中の差別、偏見、憎悪がうごめく世界を描いていますが、後半では救いのある話が描かれて、ようやくホッとできる映画でもあります。

差別や偏見はいけない、と誰もがいいます。でも、けっこう難しい。いや正直、俺の中にもあります。

もしかしたら、やっかいなのは、自分が差別とか偏見をいっさい持っていないと思いこんでいる人、無自覚な人なのかもしれないのです。

映画でも、それを思わせるような登場人物がいます。若い白人警官のトムです。【ここからネタバレ注意】

最初は、ベテランの白人警官ライアンのあまりにも黒人差別的な態度に我慢ならずに、同じパトカーに乗ることを拒否したくらいでした。そして、あやうくほかの白人警官が黒人を撃ってしまうところを自分の説得で回避させたことで、彼の「無差別主義者」が証明されたような事件が起こります。たぶん、彼はそれでますます自分が無差別主義者であり、正しいのだと自覚したのでしょう。

ところが、です。ある黒人青年を車に乗せてあげたとき、彼がポケットから取り出そうとした人間のフィギュアを、てっきり拳銃と早とちりして、撃ち殺してしまうんですね。皮肉としかいいようがありません。

自分の意識できるところでは、「無差別主義者」でしたが、無意識では、どこかに差別や偏見があったのでしょう。ポケットに手を突っ込んだら「拳銃だ」と反応してしまうようなものが。白人ならこうはならなかった可能性が高い。

実際に1999年ニューヨークで起きたアマドゥ・ディアロ事件があります。ギニア人の移民であったディアロさんが、白人警官たちの発砲によって死亡しました。ディアロさんがポケットから銃を取り出すと誤解されたからでした。白人警官トムと同じような事件です。

社会心理学者のゴードン・オルポートの心理学実験があります。スーツを着た黒人と、手にナイフを持った作業着の白人が、地下鉄車内でもめているような絵を見せます。

それを「どんな絵だったか?」と伝言ゲームのように伝達してもらう実験をすると、黒人と白人が入れ替わってしまうというものです。ナイフを持っているのは黒人に違いないという思い込みというか偏見が、白人の心の底辺にしみこんでいます。

これほどやっかいなものです。「白人」とか「黒人」とか、見かけが偏見や差別の原因の大きなポイントであるらしい。見かけが大きいのです。「イケメン」とか「美人」とかも、見かけによる判断をしているという意味では同じ差別、偏見につながっているということなのでしょう。

トムと対照的に、差別主義者と自覚している、まるでトランプ氏のようなライアンなのに、ガソリンで爆発しそうになった事故車から、黒人女性を命がけで助けたりもします。

わからないんですよ、人間は。普段言っていることと違うことをやってしまう人間は、いくらでもいます。俺もそうかもしれません。

だからといって「差別的発言は正直で良い」と言っているのではないことは、わかってもらえると思いますが。
  
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »