映画 『紙の月』 を観て。生きられないもう一人の自分「影」 【ネタバレ注意】
映画 『紙の月』 を観ました。
『紙の月』は、角田光代によるサスペンス小説を映画化したものです。原作は読んでいませんが、映画としてはたいへんいいと思います。
破滅的な生き方にあこがれもあります。
普通に生きていれば幸せなのに、と誰もが思うのに、本人にとっては安住の地ではない、存在の不確かさを抱えて生きるしかない人もいます。
映画の宣伝コピーには、「平凡な主婦が引き起こした大金横領事件」とあるのですが、宮沢りえ演ずる梅澤梨花は「平凡な主婦」なのでしょうか。そうじゃないと思いますけどね。彼女もまた破滅的な生き方で存在感を確かめるタイプの人間ではないのかな。
それと、彼女には特殊な考え方のアンバランスさもあります。
目的が崇高で、ただし、手段を選ばないというものです。そのちぐはぐさが際立っているのです。この点も、少なくとも「平凡」や「普通」ではないと思います。
そのことは少女時代から兆候があったようです。貧しい子供たちに幸せになってほしいと、学生にもかかわらず高額の寄付をします。でも、そのお金は父親の財布から盗んだお金でした。
そして大人になった彼女の性格も、変わってなかったようです。
不倫関係になった(不倫する動機が分かりづらいですが)青年の学費を出してあげようとする献身的な経済的援助。そのお金も銀行員である立場を悪用して、顧客からだまし取ったお金でした。
目的と手段がちぐはぐなのです。しかも破滅的な生き方を指向する女性です。だから平凡な主婦が青年に恋をして貢いだ結果として横領に手を染めた、などとというものではなく、もっと確信犯的です。
横領が発覚し、小林聡美演じる先輩行員の隅より子と相対するシーンがあります。このシーンは、横領してしまった行員と、真面目な先輩行員という構図以上に、人間の表に見える心と、それと反対の裏に渦巻く心の対決、というふうに見えました。
この両者お互いはユング心理学でいう「影」どうしなのではないでしょうか。梅澤は隅にとっては、自分では生きられないもう一人の自分「影」。
「やりたいことをやって生きたい」と言います。でも、そう言うのは普通の人です。梅澤は「やりたいことをやって生きている」などと意識していない、「やらざるを得ない」からやっているにすぎないように思えます。
梅澤の「本物じゃない。初めから偽物」というセリフがあります。自分の人生が嘘っぽく感じていたのでしょうか。「お金」というのも、嘘っぽい紙切れでしかありません。自由を得るには、嘘を使うしかなかったと。そしてそれが嘘であるがゆえに、いつかは消えてしまうこともわかっていたはずです。
隅が「返金すれば刑事告訴されないかもしれない」というと、梅澤は、
「行きます。行くべきところに。それしかないですから」
と言います。行きつくところはやはり破滅しかなかったのかもしれません。悲しいかな、破滅することでしか生きる実感を持てない、本物の生を感じることができないとは。
でも、隅はそんな梅澤を100パーセント否定できなかったのではないでしょうか。それは梅澤に、自分の「影」を見ているからです。
それを梅澤は見透かしています。銀行から逃げるとき、
「いっしょに来ますか?」
と、隅に聞きます。もしここで「影」である隅もいっしょに行っていたら、どうなっていたでしょうか。もちろん梅澤は隅が来ないことを知っていたでしょうが。
普通の人は、「影」の存在を内に抱えつつも、「影」に全部をゆだねてしまったりはしません。そこが梅澤(普通でない人)と、隅(普通の人)の違いなのでしょう。
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