フランス・パリで出会った東洋人。「二重身の現象」について
『河合隼雄著作集 ユング心理学の展開2』(岩波書店1994)に、「二重身(ドッペルゲンガー)の現象」というのが書いてありましたが、似たような体験があったので興味をひかれました。
ところでこの本によれば、江戸時代に「影のわずらい」とか「影の病い」と呼ばれるものがありました。またの名を「離魂病」。これは自分自身の姿を見ることだそうです。
自分の姿を見ると死ぬという言い伝えは、日本だけでなくドイツにもあるそうです。ただ魂が抜けた話でも、中国にはハッピーエンドになる話もあるようで、一概に自分の姿を見ることが悪いかどうかは言えないようですね。
「二重身」というのは、もうひとりの自分の姿が見えたり、その存在が感じられたりする現象のことですが、心の内に別人格があってそれが交互に出てくる「二重人格」とは違います。
芥川竜之介も二重身の体験があったといわれ、『二つの手紙』という二重身をテーマにした短編があるそうです。
二重身の体験には鏡が関わっていることがあります。フロイトもこういった体験がありました。旅行中、寝台車で、一人の老人が自分の部屋に入ってきたので、間違えてますよと説明しようと思ったら、ドアの鏡に映った自分の姿だったという体験です。
これは自分の映像を他人だと思ったので、二重身とは真逆の体験ですが、自分に対する存在感について不安を引き起こす点で、精神的には二重身体験と共通するものがあるのだそうです。
そこで、俺の体験はこういうものです。フロイトのと少し似ていますが。
それは20代に、ヨーロッパを旅していたときのことです。金がなくなって、いくつかバイトをしたのですが、最後に行き着いたのがパリの韓国系フランス人経営の日本・韓国レストランでした。
ある日、レストランが非番だったのか、街を歩いていたら、向こうから東洋人が歩いてきたのです。その姿はちょっと薄汚れていました。
当時は、薄汚れた格好をした東洋人は、日本人バックパッカーが多かったので、「あ、日本人だ」とピンときて、挨拶しようか、どうしようか迷いながら進んでいくと、向こうもこちらを見ながら歩いてくるのです。
そして、数メートルに近づいたとき気が付きました。そうです。それは店のガラスに映った自分の姿だったのです。
苦笑してしまいました。どうして自分だと思わなかったのかと。
長く外国へ行っている人は体験するのかもしれませんが、自分の目がフランス人になっているんですね。つまり、俺自身の姿(見かけ)も、周りのフランス人と同じだと思い込んでしまっていた、ということなんだろうなと思いました。あくまでも錯覚なのですが。慣れといってもいいかもしれません。
でも、この二重身の話を聞くと、この体験が別の意味を持っていたんだなとあらためて思うのです。
二重身体験の背後に、「ぼくは本当は何なのか?」とか「ぼくとは何か、人とは何か?」といった根源的な問いが存在していると、この本では指摘しています。
俺の体験で言い換えれば「日本人とは何か?」という問いになるでしょうか。当時を振り返ると、確かにそれはあったかな。
日本のど田舎から突然ヨーロッパへ行って、フランス人の中で暮らしていくということは、日本人というものを逆に意識せざるを得ない場面が多くあったはずです。
でも、「あの東洋人は、俺ではない」という否定から入っているわけですね。内心ではフランス人のようになりたいという(見かけも、文化的にも)願望があり、パリのレストランで働いてもいるし、既にそうなっていると自分では思っていたのに、でも、そうではないんだということを薄汚い東洋人の姿を見せつけ、俺に現実を突き付けてきた体験だったのかなと思います。
日本人はあくまで日本人でしかないんだということです。当時、正直言えば俺も西洋人に対して劣等感があったのは確かです。否定から入ったのはそのせいではないかと。今は、劣等感はなくなったと思っていますが、わかりませんね、心の中は。
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