「AIが書いた小説が文学賞の一次審査を通過」というニュース
先日AIが書いた小説が文学賞の一次審査を通過したというニュースがありました。
人工知能が書いた小説、星新一賞の一次審査を通過「洋子さんは、だらしない格好でカウチに座り...」
(http://www.huffingtonpost.jp/2016/03/21/ai-novel_n_9519634.html)
囲碁の対戦でAIの「アルファ碁」が勝ったというニュースもありました。最近のAIはすごいですね。
先日は将来なくなるかもしれない仕事のリストについて書きましたが、それでも、最終的には、芸術的な仕事は最後まで残るだろうと思っていたところでの、このニュースなので、ちょっとショックというか・ ・ ・
俺も写真に関わっているので、この問題は他人ごとではありません。写真も、芸術としてなら残るだろうと思っていたからです。でも、小説までもAIが書けるとなってくると、写真も同じかもしれないですね。すでにカメラは手足のないロボットに進化していることは先日も書いた通りです。
でも、もしかしたらこういうこと?と、あることに気が付きました。
芸術というのは、作り手(芸術家)よりも、受け手(鑑賞者)のものであるという面があります。
小説でも写真でも、小説家や写真家が作った作品を楽しむことにこそ、その本質があるのは間違いないだろうし。
同じ芸術作品を見ても、ある人は感動するし、ある人は感動しません。と、すると、芸術作品側に理由があるのではなく、鑑賞者側に理由がある、ということになるんですね。感動するかしないかの価値感や感受性は、鑑賞者しだいということではないでしょうか。作者がだれであっても関係ないのです。AIが書こうが、人間が書こうが。
ところが「鑑賞」はAIにはできないし、そして作家側から言っても、書き上げるまでの過程が大切なのです。過程を楽しめるのも人間だけではないでしょうか。
とすると、この小説を書いたAIは、書くことを楽しんだわけではないし、クオリティも「その程度でいい」という小説だから書けただけです。「文学賞の一次審査」がどんなものかも、これで想像ついてしまいますが。
田原総一朗「急発達するAIが人間に絶対に勝てない仕事とは」
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20160401-2016033000129/1.htm
この中にも、「AIに代替できない仕事とはどのようなものか。これは英語で言えば「プレイ」である。」と言っています。俺もそう思います。「遊ぶこと」「楽しむこと」は人間にしかできません。
人間がAIにとって代わられるというのは「仕事」の話です。「写真家」という職業はなくなっても「写真」はなくならないのです。写真を撮って楽しむこと。これはAIには無理です。
面白いことがありました、碁の対戦をやったとき、人間が勝った対局もあったのですが、そのとき、なぜ人間が勝ったかというと、定石ではない「適当な手」を打つと、AIは混乱して負けたようなのです。
これから考えると、人間の「いいかげんさ」や「あいまいさ」というのが、逆にAIに勝つというのは、ある意味人間を象徴している出来事のような気もします。
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