河合隼雄著 『日本人の心を解く 夢・神話・物語の深層へ』 日本人の不完全な美
この本は、日本人の心を考え続けた河合隼雄氏が、ユングが東西の出会いを求めて始めたエラノス会議(1983-1988年)で行った講演をまとめたもの。最初英文で出版されましたが、河合俊雄氏が日本語に翻訳したものです。
日本人とは何か?を夢・神話・物語からひも解くいい本だと思います。
面白い話がたくさん出てくるのですが、まずひとつは、中世の高僧、明恵が生涯夢日記をつけていたこと。でも、このことについては、また後日書きます。
俺も夢日記をつけ始めて1年半たちました。それなりに書きたいこともあるので、今回は、もうひとつ、日本人は、完成美を過少評価する傾向があるということについて。
こんな面白い禅の老師の話が出てきます。引用すると、
「ある若い僧が庭を掃いていた。彼は自分の仕事をできる限りやろうと努めていた。彼は庭を完ぺきに掃除したので、庭には何の塵も落ちていなかった。」
普通ならここで若い僧は老師に褒められてよさそうなものなのですが、
「彼の期待に反して、老師は彼の仕事に満足していなかった。若い僧はしばし考えてから木を揺さぶって、枯れ葉が庭のあちこちに落ちてくるようにした。老師はそれを見てほほ笑んだ。」
というのです。なんとなくわかりますね、この感覚。
この場合、木を揺らせて葉っぱを落としたから良かったのでしょうね。掃いたものから葉っぱを庭に戻したら、老師は渋い顔をしたと思います。たとえ、葉っぱの位置が同じであっても。
こんなものもあります。
吉田兼好の『徒然草』137段に、
「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に対(むか)ひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。」
という文があります。わかりやすい訳がこちらにありました。
「桜は満開の時だけ、月は雲ひとつない満月だけを愛でるものだろうか?雨が降って月が見えなくても、雨雲の向こうの月を恋しく思ったり、簾(すだれ)をおろしたままで家にヒキコモリしてるうちに春の行方が分からなくなっても、それはそれで心に感じるものがあるはずだ。桜は満開の時だけじゃなくて、開花する前の蕾(つぼみ)にも、花びらが散って萎(しお)れた庭にも、それぞれの見どころがある。」(きっこのブログ 「雨に対ひて月を恋ひ」 2010.09.21より)
『徒然草』でもっとも有名な章段のひとつですが、これも不完全の美が主題になっているのだそうです。
桜の満開は美しいものです。でも吉田兼好の言うように、蕾がほころび始めた時もいいし、はらはらと花弁が落ちる桜や、新緑が美しい桜もまたいいものです。
「中秋の名月」というのがありますが、意外に思う人もいるかもしれませんが、これは「満月」ではありません。「中秋の満月」ではないのです。
たまたま「満月」の年もありますが、基本的には月はどこか欠けています。完全ではないのです。それでも美しいのです。いや、「それだからこそ美しい」と日本人は言うのかもしれません。
もっと言えば、満月だろうがなかろうが、気にしないという話なのでしょう。
「十三夜月」を愛でる習慣もあります。何?この13番目という中途半端な月は?と、西洋人なら思うかもしれないですね。
日本人は「完全」を意識しないということではないでしょうか。意識しないことが大切なのです。ここは明らかに西洋の美意識と異なります。
もっとも「中秋の名月」は中国由来なので、純粋に「日本的」と言えるのかどうかはわかりませんが。
ところで今年も「田毎の月」の季節がやってきましたが、いまだにどうして月を直接見るのではなくて、杯や盆や池や田んぼの水に映して鑑賞するのが良いのか、はっきりした理由はわかりませんが、何か、今回の話と関係するのかもしれません。
もし完ぺきな満月なら、それを崩す意味で、水に映した月を眺める。当然水面は動くので、完ぺきだった満月も、ゆらゆら揺れて不完全な満月になってくれる、ということ。どうでしょうか、この強引な解釈は。
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