【犬狼物語 其の九】 群馬県長野原町の「犬塚の跡碑」
犬の民俗文化と言ったらいいか、「オイヌゲエ」などの行事に、自然との関係性を大切にしてきたことを見ることができる、という話です。
そもそも犬や猫などのペットというのは、「自然への窓口」、「身近な自然」という面もありますね。とくに都会に住んでいる飼い主にとっては。俺たちの暮らしが都会化すればするほど、ペットは多くなっていくのかもしれません。
ところで、自然との関係性を知ることができるものに、供養塔や供養碑もあります。魚の供養祭が築地市場で行われていることは昨日も書きました。「供養」には、殺すことや、食べることの罪悪感を薄める「装置」という意味もあると指摘されています。(長野浩典著『生類供養と日本人』参照)
群馬県長野原町に「犬塚峠」というところがあります。ヴィーノを連れて行ってきました。
国道145号線のバイパスが交差する「大津」という交差点で、ゴールデンウィークでもあり、交通量がめちゃくちゃ多い一角に「犬塚の跡碑」の犬の像がありました。
犬の像は、まだ若い和犬のようですが、首から紐をかけて、左側に垂らし、細長い札のようなものを下げているようです。
像の右隣には「建碑由来」というのも建っていました。それを読むと、この犬の話はずいぶん昔の話だと分かりました。350年も前の話だったのです。
内容をごく簡単に要約すると、
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昔、村にどこからともなく迷い犬がやってきた。この村にいついた犬は、地域犬として暮らすことになった。あるとき姿が見えなくなった。2ヶ月以上すぎたころ、突然犬は村に舞い戻った。「天照皇大神の大麻札」を背負っていた。村人は、犬が伊勢参宮をしたのだと信じた。それからこの「天照皇大神の大麻札」を村の丘の上に祀って崇め拝むことを怠らなかった。その犬はますます村人から愛されたが、何年か後死んだ。その亡がらを葬ったのが犬塚である。
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「建碑由来」には、平成5年9月とあるので、この像自体は23年前に建てられたということでしょうか。これが建てられる前も、何かはあったと思いますが。
そして気になったのは犬の名前が記されていないことです。「飼い犬」か「野良犬」かの境は、名前を付けられているか、いないか、というのがひとつ指標になるからです。(アジア各国での俺の体験から) ただ、「地域犬(里犬)」は微妙で、付けられていなかったとしてもおかしくないかもしれませんが。
江戸時代は、金毘羅参りや伊勢参りがブームになりました。そしてなんと、「こんぴら狗」という犬がいました。
飼い主の代わりに金毘羅参りをしたのが「こんぴら狗」。伊勢参りをした犬もいたそうです。
「金毘羅参り」の袋に、飼い主を記した木札、初穂料(お賽銭)、道中の食費を入れて、旅人に飼い犬を託しました。無事、お参りを済ませた犬は、ふたたび旅をして家族のもとへ帰っていったというのです。
これを「代参」と言いますが、この「犬塚」の犬も村人の代わりに「代参」に行ってくれたということなのでしょう。
犬がお参りしてきたお札を、今も祭っている祠があり、そして愛された犬は、丁重に葬られて、犬塚を作ったというのはすごくないですか。
2010年、宮崎県の口蹄疫の発生では多くの牛が殺処分され、現地では牛の供養碑が建てられました。311の震災後、原発の放射能問題で、牛を手放さざるをえなかった酪農家の人たちも、家族同様の牛と離れるとき涙を流していました。
幕末に宣教師がきて日本人に説教したらしい。
「人間は神が造った最高の被造物である」と。
すると日本人たちは「どうして人間が一番偉いのか?」と聞き返したそうです。動物も家族の一員であり、人間と動物とを区別し、「人間が上に立って動物を支配するのは当然」といった西洋とは考え方が違っていたのです。
動物はもちろんですが「針供養」、「人形供養」さえある国です。だから犬ならなおさらのこと。人間と同じように丁重に供養されたということでしょう。
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