創造の原点は「神体験」
文化人類学者の岩田慶治著『からだ・こころ・たましい』(ポプラ社)の中で、アニミズムについて、
「山や自然のなかで、出会いがしらにハッとして神を感じる。そのときに成り立つ宗教だ。とびあがるほどおどろいたかとおもった、その一瞬に、こころがスーッとおちついてすみとおった感じになる。そこに神がいたとしかいいようのない「経験」なのだ」
と書いています。
河合隼雄氏も、
「ここで大切なのは、その人が何を見たのかではなく、その人自身の「経験」なのである。森の中を歩いていて、突然、途方もなく大きい木に出会う。その一瞬に彼の感じたもの、それが神体験なのである」
と言っています。
「木」に神を見ても、「木」が神そのものではなく、木を見たときのその人自身に生まれるイメージの体験なのでしょう。
たとえば俺の場合、朝の風景を狙って暗い中でカメラを構えて立って、日の出を待ちます。
残念ながら曇っていて、朝日は望めないとあきらめかけたとき、一瞬、雲間から一筋の太陽光線が田園に差し込んだようなとき、「すごい」と思ってシャッターを切ります。抑えられない衝動が沸き起こるのです。その神々しさにたましいが震えるのです。
中国雲南省で初めて「棚田」を意識したのは、元江県のハニ族村で、雲海の上に広がる棚田を見た時ですが、それだけだったらもしかしたら強烈な印象を受けなかったかもしれません。
なんとそのとき、ちょうど真正面から太陽が昇ったのです。「こんな偶然が世の中にあるのか」という驚きというか、感謝というか、衝撃を受けたのですが、これこそ神体験なのですね。
これが「神体験」になるのは「偶然」という条件が必須なのです。「予想外」であること、前もっては知らないこと。「偶然」は俺にとっての一回限りの「体験」です。
たとえば、棚田が雲海に包まれることや太陽が真正面から上ることを知っている地元農民には、「神体験」とはなりません。だから神体験は、まったく個人的なものです。
とにかく、こういうとき、写真家だからシャッターを押すのですが、絵描きなら筆を走らせるでしょうし、彫刻家は木と格闘するだろうし、ダンサーなら踊り出すでしょうし、詩人なら詩を詠むということなのでしょう。
表現の違いはあっても、それを表現したくなる瞬間は、同じ神体験だということができるのかもしれません。
この「神体験」の衝撃は大きく、それから俺は狂ったように棚田探しの旅を続けることになってしまったのです。
「まるで何かに憑かれたようですね」と言われたことも実際にあります。そして続ける理由が正直自分でもわからないのです。いまだに。もちろんもっともらしい理由はいくらでも答えられますよ。でも、それはみな、後付けなんですよね。
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