映画 『アメリカン・スナイパー』とバングラディッシュのテロリスト
たまたま数日前に、映画 『アメリカン・スナイパー』を観ていました。今回のバングラディッシュの事件の前です。
どんなふうに「兵士」が作られていくかというところは、テロリストとも関係がある話ではないかと思います。
この映画は、イラク戦争に従軍したクリス・カイルが著した自伝『ネイビー・シールズ最強の狙撃手(英語版)』を基にしています。
監督のイーストウッドは、戦争経験で壊れていく人間の姿を描こうとしたそうです。
この主人公クリスが任務を終えて、アメリカの家族のところに帰ってきても、奥さんからは「あなたの心はここにない」と言われるシーンがあります。
ここで、以前観た映画『ハート・ロッカー』を思い出しました。この映画でも、主人公は帰国しても居場所がなく、結局は戦場に戻ることでしか生きていることを実感できなくなってしまった男でした。
心理学の授業で、米軍兵士の発砲率の話題がありました。
第2次世界大戦では、銃の引き金を引いた兵士はわずか15~20パーセントでした。それが朝鮮戦争では、55パーセントになり、ベトナム戦争では90パーセントに上がっています。
これは人を殺すことに抵抗をなくす心理学的知見を用いて訓練した結果でした。「敵」というのが「人間」ではないということを教えこませるのが基本だそうです。
● 相手の顔を見ないこと。
● 敵の非人間性や戦争の大義名分を教え込むこと。
● 物陰から出てきたものは何でも反射的に発砲することを繰り返し訓練させる。その的は「人型」を使う。
60年代のベトナム戦争時、新兵の訓練では目隠しして殴り合いをさせました。当時の訓練教官はこう言っています。
「敵を殺させるには、相手が人間だということを徹底的に奪っておくことが重要。なぜなら、敵も同じ人間だと感じたとたん殺せなくなるからです」
『アメリカン・スナイパー』 のクリスも、「祖国のため」という「大義名分」があります。だから戦場では子供であっても、「敵」=「非人間」であり、殺すことに罪悪感を感じなくて済むのです。
今回のバングラディッシュでの人質事件でも、テロリストは、人質にコーランの一節を暗唱させたという。これでイスラム教徒かどうかを選別したのでしょう。彼らの理屈はこうです。
「イスラム教徒=人間」対「非イスラム教徒=非人間」。非人間であり、かつ、「聖戦」という大義名分を与えられるので殺しても平気なのです。彼らは「イスラム教」という一点(しかもかなり狭い範囲で)だけで人間を判断しています。もっとたくさんの共通項があるはずなのに、そこは無視しています。いろんな共通項を見てしまうと、同じ人間だと思って殺せなくなってしまうでしょう。ナイフで殺害するところなどを見ると、かなり訓練を受けていたように感じます。
映画の話に戻りますが、でも、これは「意識」の範囲です。「無意識」では、やっぱり罪悪感を感じているはずです。まぁ普通の人間ならそうなんじゃないですか。
その無意識を無理やり押し込めておくことでしか正気を保てない。戦場とはそういうところらしい。だから帰還兵に、精神を病んでしまう人が多いのもうなづけます。
イーストウッドが描こうとした、環境がいかに普通の人間を変えていくかという意味でも、戦場の怖さはあるのですが、変わった自分、今度はそれが「普通」になってしまうという、2重の怖さを感じました。
そしてラストでは、あれだけ危険の多い戦争で生き残ったのに、自国で簡単に殺されてしまうところが、皮肉な結果といえます。
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