8月6日、ヒロシマ
イランへいったとき、よく「ヒロシマ、ナガサキ」のことが話題に出ました。俺から触れたわけではありません。イラン人の方から原爆の話をしてくるんです。そして、一様に、原爆を落とされた側の人間(つまり俺、日本人)なんだから、落とした側のアメリカは当然嫌いだろう、という感じで「反米」への同意を求める雰囲気がありました。
「原爆が落とされた」という理由で、「アメリカが嫌いだ」という日本人は関係者を除いて多くはないかもしれません。俺は、こういう日本人の事情をイラン人の前では言えませんでした。なぜか恥ずかしかったからです。原爆でたくさんの人間が殺されたんだから、怒って当然だ、というのが彼らの常識でしょう。
でも、オバマ大統領が今年5月27日、広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花したとき、被爆者に直接会いましたが、被爆者の方が言っていたのは、憎しみは憎しみを生むだけ、許しが必要だと言っていたのが印象的でした。そうか、憎しみの連鎖は、結局現代社会でも問題になっているイスラム過激思想のテロや、核兵器の開発につながるんだなということです。だから日本人が、原爆を憎みこそすれ、アメリカ人を憎んでもあまり意味はないということなのでしょう。
でも、そこをわかってもです。この原爆投下について、アメリカ人は戦争を終結させたから正しかったと主張しているのを聞くと、やっぱり心穏やかではありません。これはアメリカ政府公式の説明でもあります。最近の若いアメリカ人の考えは変わってきているようですが。
まぁアメリカ人だって、原爆投下で大量に人を殺しておいて、平気な顔をしていられるはずがなかった。その罪悪感を抱えながら生きることなんてできなかったはずです。だから、「これ以上犠牲者を出さずに済んだので原爆投下は正しかった」と思い込むことが罪悪感から逃れる方法でもあったし、政府の説明は都合が良かったと言えるでしょう。
そもそも原爆なんか使わなくても、日本は戦争に負けていたし、戦争は終わっていたでしょう。だから原爆が唯一戦争終結のための必要条件だったわけではありません。原爆は「絶対的悪」なのです。
そして原爆はアジアの国だから落とせたということもあるでしょう。アメリカ本土からの距離(遠さ)もそうですが、「人種」の違う国だからです。
あのタイミングを逃せば原爆を実際に使ってみる機会を失うと恐れた、はっきり言って関係者の中には、「使ってみたい」と考えていた人間はいたでしょう。これからのソ連との戦争を想定して、原爆の被害がどうなるか知りたかったのかもしれません。実際アメリカは広島と長崎で原爆被害の詳細なデータを取っていました。
一方のソ連も9月ごろ広島を訪れ、原爆の被害を記録しています。最近その映像が公開されました。米ソが日本を舞台に、核爆弾の実験をやっていたのかと疑ってしまいます。
オバマ大統領は核兵器のない世界を目指すことを宣言しましたが、そもそも、「相手から襲われる」という恐怖の連鎖が核兵器拡大に繋がるわけで、それはまさにアメリカが現在抱える問題、銃社会と同じ精神構造にあると思わざるを得ません。
「相手から撃たれないために、銃を持つ」という発想です。この恐怖の連鎖を断ち切らない限り、銃も、原爆もなくならないでしょう。
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