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2016/10/23

2016年秋の撮影旅(33) 葬式

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昨日は、おじさんの葬式で、あることを思い出しました。

俺が写真を撮り始めて、ようやく雑誌などに写真が載るようになったころ、雑誌だけではなく、パネル張りした写真プリント(オリジナルプリント)を買ってくれたのは、親せきの中でおじさんだけだったことを。

写真に一番理解があったのはおじさんでした。それを思いだしたのです。

昨日、偶然をたんなる偶然とは思わずに、そこに意味を考えてみるユングの「共時性」について書きましたが、こういうことを思い出すんだなぁと改めて思います。

「共時性」とは因果的な科学ではないかもしれませんが、俺が、今、おじさんが俺の写真に理解を示していてくれたことを再確認することは、意味があることなのかもしれません。

おばさん(おじさんの奥さん)に、写真を買ってくれた話をしたら、「そういえば、そうだったな。彼岸花が映った棚田の写真」と言いました。

そしておばさんに言われたのです。

「(写真家という」難すえものになってすまたんだから、続けねばな。だれでもなれるわげではねぇんだがら。大変だげんともよ」。
 
 
 
 
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