【犬狼物語 其の六十四】 徳島県徳島市 モラエスと犬の像
徳島県徳島市の眉山公園を訪ねたのは、数年前、日本一周しているときで、偶然そこに犬といっしょの外国人の像を見つけたのでした。
この和服を着た外国人は「モラエス」といいました。
ヴェンセスラウ・デ・モラエスは1854年にポルトガルの首都リスボンに生まれた軍人であり、外交官であり、文筆家です。
初来日したのは1889年。日本に初めてポルトガル領事館が開設され、在神戸副領事として赴任し、後に総領事となりました。
神戸在勤中、出会った芸者おヨネ(本名 福本ヨネ)と暮らし始めますが、ヨネの死後、1913年、ヨネの故郷である徳島市に移住しました。
徳島での生活は必ずしも楽ではなく、スパイの嫌疑をかけられたり、「西洋乞食」とさげすまれることもあったという。
1929(昭和4年)年6月30日夜、飲み過ぎて土間に転落し、打ち所が悪くて亡くなったそうです。
林啓介著 『「美しい日本」に殉じたポルトガル人―評伝モラエス 』(角川選書)には、
「晩年は幾多の偏見と疎外に苦悩しながらも、片思いに終わった日本への愛を失うことはなかった。」
とあります。消滅しつつある古き日本の良さを見出し、日本を愛し抜いた人物だったようです。
生前には日本では注目されませんでしたが、モラエスの死後、著書が日本語に翻訳され、日本賛美だとして広く知られることになりました。「徳島の小泉八雲」と称されました。
1954年(昭和29年)に建てられたモラエス生誕百年記念の顕彰碑の碑文には、
「著書に「日本精神」「徳島の盆踊」「おヨネと小春」等二十冊あり「日本の魂に取替えた人」と評される程日本を心から愛し「故国の銀河を遠く離れて燦と輝く明星」と讃えられた。麗筆でわが国の文化や人情風俗などを広く海外に紹介した。」
とあります。
1975年(昭和50年)には「モラエス通り」もできました。モラエス生誕150年記念事業として、この眉山公園の「モラエス像」の除幕式が行われたのは2004年(平成16年)10月18日のことです。
日本一周の旅から数年たち、今回【犬狼物語】で、全国の犬像を訪ねようと思ったとき、この徳島市のモラエスと犬の像ははずせないと思い、再訪したのです。
この像を見て、よほどのひねくれ者でない限り、きっとこの犬はモラエスさんの愛犬なのだろうと思うと思います。
それでそれを確かめようと思い、市役所を訪ねました。でも、犬がどういった犬なのかは、知られていませんでした。
職員の人たちはいろんなところに電話してくれて、その中で、徳島日本ポルトガル協会で聞いた情報は、衝撃的なものでした。
それはモラエスさんは、猫好きであったらしいということなのです。猫を飼っていたという記述はあるそうですが、犬を飼っていたという証拠はないということでした。だから犬は、モラエスさんの愛犬ではないようだということがわかったのです。
あとで、モラエスさんと犬の関係をしらべてみましたが、モラエス著『徳島の盆踊り―モラエスの日本随想記』(1916年発行 訳者:岡本多希子 講談社学術文庫、1998 年発行 「林久治のホ-ムぺ-ジ」参照)の「20 章:洪水・犬」で、モラエスさんはこう書いています。
「徳島とその近郊では排水が悪く、夏期の大雨でしばしば洪水が起こる。日本でもすべてがバラ色というわけではない。徳島の犬は概して大柄である。彼らは首輪や鎖なしに自由にくらし、飼い主は犬の世話をほとんどしない。彼らは人間の仲間ではない。用心ぶかく不信感の強い寄食者である」
ここから推測しても、モラエスさんが愛犬家ではなかったようです。
では、なぜ犬像があったのかというと、製作者である徳島県出身の彫刻家・坂東文夫さんは、モラエス像だけでは寂しい(バランスが悪い)ということで、犬の像を置いたのではないか、という結論に至りました。2006年に坂東さんは亡くなっているので、それを確かめることはできませんが。
遠いところまでわざわざ行ったのに、愛犬ではないかもしれない事実は、ショックでしたが、でも少し時間が経ってみると、思いが変わってきました。
モラエスさんの犬ではなかったらしいことは残念でしたが、犬はモラエスさんを見上げています。暖かく見守っているというふうにも感じます。やはりここは、見守ってくれるのは、猫ではなく、犬がふさわしいのかもしれません。
モラエスさんの晩年は幸福とは言えず、孤独の中で亡くなったという話を聞くと、モラエスさん一人だけ立たせるのはますます孤独感が漂ってしまうので、犬に見守らせた坂東さんの心遣いなのではないかと勝手に想像してみました。むしろ坂東さんが犬好きだったのではないかと。
「望郷」というタイトルにもそれは感じます。
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