【犬狼物語 其の九十八】 千葉県君津市 久留里城址の和犬像
千葉県君津市の久留里城址を訪ねました。
雨上がりの朝は、霧に朝日が射し込み幻想的な風景でした。さすがにここは別名、「雨城」「霧降城」とも呼ばれたところだと納得しました。
本丸跡には、天守台跡と模擬天守閣があります。天守閣に上ることができ、回廊からは周囲の紅葉の山々を眺めることができます。
本丸跡から少し下った二の丸の場所には貴重なものが展示されている資料館があります。和犬型狛犬の資料を読んだ後、スタッフに和犬像の場所を聞いて、資料館の裏側を通る旧道を下っていきました。折からの雨で、道も泥だらけ(雪も少し残っていました)でしたが、400mほど下ると城山神明社にたどり着きました。
ここに和犬型の狛犬が1対鎮座しています。
資料館のスタッフから聞いていた通り、社殿に向かって左側の像は鼻が欠けていました。横から見るとまるでパグ犬のようになっています。また右側の像は垂れ耳で、まるでビーグル犬のように見えます。両方とも首輪を結ばれています。
江戸時代には西洋から入っていた洋犬と和犬の雑種も増えていたようで、いろんな里犬(地域犬)がいたようなので、必ずしも「垂れ耳だと洋犬」とは言えないようですが。ビーグル犬に見えるのは、俺が単にヴィーノと暮らしているからです。
後ろからみると、現実にはありえない形ですが、尻尾が水引のような形に収まっているし、首輪の結び目も可愛らしい。「奉納品」らしい形ですね。
それにしても竹林をバックにした犬像は造形的にもすばらしいものがあり、ほれぼれします。2日間かけてこの犬像を撮影した俺は異常なのでしょうか。どんだけ好きなんだと笑われそうですが。
ところで、犬像にはこういう由来がありました。
8代目の黒田直静は嘉永2年(1849)に丹生神社に石鳥居を建立し、翌3年には藩の家老、要人たちがこの和犬型の狛犬を奉献しています。
どうして和犬型狛犬だったのか?
かつて空海が密教の根本道場の地を求めてさまよっていたときに、高野御子大神(こうやみこのおおかみ)が黒と白の二匹の犬を連れた狩人に化身して空海の前に現れ、高野山へ導いた故事にならったもので、黒田氏の先祖が関東に来た時、高野山の丹生明神を勧請したからだといいます。
元々丹生明神(神社)は城山の一番高い場所にありました。現在の模擬天守閣の北西側にある小高い場所がそうです。碑と解説看板がありました。
明治末に丹生神社は城山神明社に合祀され、和犬型の狛犬、石鳥居も移されました。
それと、社殿のそばに置かれていた石盥盤(いしだらいばん)は独特の模様があって一見の価値があります。これは6代目の黒田直方(なおまさ)が文化3年(1806)に丹生神社に奉納したものです。
石盥盤は、いわゆる手水石のことで、参詣で心身を清めるために設けられたものです。それも明治末に城山神明社に移されました。
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