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2016/12/03

【犬狼物語 其の百五】 静岡県三島市 円明寺の孝行犬の墓碑と犬像

161203_1(円明寺 山門)

161203_2(孝行犬の解説)

161203_3(孝行犬の姿像、墓碑、縁起碑)

161203_4(孝行犬の旧碑)

161203_5(孝行犬の姿像)

161203_6(孝行犬のお守り)

161203_8(白滝公園 湧水汲み上げ兄弟)

161203_9(文学碑 太宰治)

161203_12(楽寿園)


静岡県三島市の圓明寺を訪ねました。

三島は富士山からの湧水が潤し、多くの文豪たちが愛した美しい街です。水路沿いの遊歩道には文学碑が点在しています。

湧水と自然林からなる庭園が国の天然記念物、名勝に指定されている楽寿園もあります。

三島市の文化財に登録されている圓明寺の山門を潜ると、すぐ右側に孝行犬の像と墓と由来碑が建っていました。

黒い御影石に「妙法 孝行犬之墓」と刻まれた墓の横に高さ60cmほどの白っぽい墓碑があり、これが元々の墓碑です。

「孝行犬」とはどんな話だったのでしょうか。

圓明寺第37代住職、日空上人のときに寺の番犬として、母犬のタマ、仔犬のトク、ツル、フジ、サト、マツが本堂の床下に住んでいました。

万延元年(1860)、仔犬のフジが病気にかかり死んでしまいました。タマはそれから食事ものども通らず、とうとう倒れてしまいました。

仔犬のツルとサトは一日中母のそばを離れることがありませんでした。一方トクとマツは町中を走りまわり、人々から餌をもらい、本堂床下の母の口元に運んでいました。

町の人々が不審に思い覗いてみると、床下には瘠せ衰えたタマが横たわり、母をかばうように仔犬たちが寄り添っていました。

親を思う仔犬たちに感動した町の人々は、タマの回復を願いましたが、願いもむなしく亡くなってしまいました。4匹の仔犬たちも文久2年(1862)母を追うように次々に亡くなりました。

「犬と人、子を思う親の気持ち、親を思うこの気持ちには何らかわりはない。これこそ仏性の現れ」と、日空上人は犬たちの姿に感動し、彼らの冥福を祈るとともに、母子の情と孝行心をたたえ、世の人々の教えとするために墓石を建てました。

このことが東海道を往来する人々にも語り継がれ、「三島圓明寺の孝行犬」として広がっていきました。

当時は、黒船来航や安政の大地震で人々が不安と恐怖を抱いていた時代です。苦しさのあまり親や子を捨てる者がいた時代でもあったようです。

「犬でさえ、親子の絆はこんなにも強いのだ」ということを、日空上人は人々への戒めもこめて墓石を建てたのかもしれません。

寺で話を伺うことができました。

犬の姿像が造られたのは昭和35年のことでした。でも、平成16年の22号台風によって、この犬像は吹っ飛び、壊れてしまったそうです。現在の犬像はそのあと再建されたものです。

それと小学校4、5年生が道徳の教科書にも「孝行犬」が載っていることで、毎年この孝行犬の見学にやってくるということです。

オーストラリア先住民アボリジニーには、「犬のおかげで人間になれる」という言葉があります。

いつの時代も、子どもたちにとって犬は対等な良い友だちでした。上から目線で親に説教されるより、犬の方が子供たちを納得させる力はあるのでしょう。

それこそ人は犬を「飼っている」つもりになっていますが、犬といっしょに暮らすことで、人はより人らしくなれるように、導いてくれているのかもしれません。「犬のおかげで人間になれる」のです。
 
 
 
 
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