2017/02/28
2017/02/27
映画『オデッセイ』を観て。「絶対的孤独感」とは?
『オデッセイ』は、アメリカのSF映画で、アンディ・ウィアーの小説『火星の人』が原作。監督はリドリー・スコット、主演はマット・デイモン。火星に一人置き去りにされた主人公の宇宙飛行士(マット・デイモン)の生存をかけた孤独な奮闘と、彼の救出作戦を描いた映画です。
なんだろう、この感じは? ちょっと変わった映画だと思いました。とくにSF、サバイバル映画としては。
妙に明るいのです。と、いうか軽いのです。
その理由のひとつは、悪者がまったく出てこないということでしょうか。人間もそうだし、エイリアンや細菌なども出てきません。
唯一、冒頭のアクシデント(そもそもこれがなければストーリーは成立しないわけですが)と、ジャガイモ畑が爆発によって失われたアクシデント、最初の補給ロケットの失敗のみ。そして人はひとりも死にません。
当然主人公は生還するだろうなと予想できてしまうので、あとは淡々とミッションが進んでいくことを、まったく心配もなく安心して見ていることができるのです。
しかも、この救出作戦に中国が自国の計画を断念してまで協力してくれるという、ちょっとここは中国に対する皮肉かなと思ったところですが、とにかく、中国が友好的なのです。さすが将来は、中国がアメリカと二分する超大国になっていて、だから、中国も成熟した大国になっているという希望的予想なのかもしれませんが。
悪人がいない、人が死なない映画なのです。
この映画の楽しみ方は、主人公が無事に地球に戻れるのかどうか、とかいったワクワク感などを期待してはダメで、むしろ、友情物語、仲間物語、という映画ではないでしょうか。
それにしても映画から受ける「明るさ」「軽さ」とは違って、物語の設定である「火星にひとり」という状況はとても深刻なもので、「絶対的孤独」を感じますね。
そういえば、以前当ブログでも書きましたが、実際今、「キュリオシティ」という火星探査機が火星で活動しているはずです。機械ではあるのですが、どうも擬人化してしまって、「彼」にも「絶対的孤独」を感じています。
だからなのか、この広い宇宙に地球外生物の存在を期待してしまうのは。
先日も、地球と似たような惑星が発見されたというニュースがありました。もし地球外生物の存在が見つかったら、地球人としての意識は確実に変わるでしょう。もしかしたら、戦争なんかもなくなるかもしれません。なくならなくても、少なくはなるでしょう。
俺たちは、この「絶対的孤独」に耐えられないのかもしれません。だから、気持ち悪いエイリアンでもいい、地球を侵略しようとする宇宙人でもいい、とにかく、どんな姿形でもいいので、地球外生物(宇宙人)が存在してほしいというのが、我々地球人の意識的、無意識的な願望ではないのかと思います。
この広大な宇宙空間の中に、地球人の俺たちだけしかいないと想像すると、とてつもない孤独感で気が狂いそうになります。
「人の意識」は、頭や脳にだけあるわけではなく、「関係」にこそ宿っているという説と、どこか繋がっているような気がします。主人公が食料確保と同時にいっしょうけんめいになったのは、地球(人)とのコミュニケーションだったのも、象徴的だと思いました。
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2017/02/23
今日は、二十四節気「雨水」、七十二候「霞始靆(かすみはじめてたなびく)」
今日は、二十四節気「雨水」、七十二候「霞始靆(かすみはじめてたなびく)」です。
旧暦では、睦月二十七日。
『全国の犬像をめぐる(仮タイトル)』の初校ゲラを返送して、ホッと一息。写真データも提出したので、これで本文に関しての仕事としては、ピークを越えたということになるでしょう。
あとは、カバーの写真をどうするかとか、そのへんのところです。
2017/02/21
【犬狼物語 其の百十六】 東京都新宿区 稲荷鬼王神社の犬像
新宿区歌舞伎町に鎮座する稲荷鬼王(いなりきおう)神社へ寄ってみました。東新宿の駅を出てすぐ、中国人からも大評判(反対の意味で)のアパホテルの近くにあります。
境内には1対の狛犬が鎮座していますが、不思議な姿です。こういう姿の狛犬を見たことがありません。オオカミ像らしいのですが。前足の後ろ側にひらひらが付いていて、翼のようにも見えます。まさか「羽犬」ではないでしょうが。
ガラス張りの近代的ビルを背景に鎮座する犬像は造形的にもすばらしいですね。『犬狼物語 パート2』ではぜひ載せたい犬像です。
なお、この神社では湿疹・腫物その他病気平癒に御利益がある「撫で守り」を授与しています。また、鬼を春の神とみなして、節分の豆まきでは、「福は内、鬼は内」と唱えるそうです。
表通りに面して、新宿区指定有形文化財の「石造の水鉢」があります。しゃがんだ鬼の頭に、大きな手水鉢を乗せた姿をしています。これも見どころ。
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2017/02/18
今日は、二十四節気「雨水」、七十二候「土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)」です。
今日は、二十四節気「雨水」、七十二候「土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)」です。
そして旧暦一月二十二日。
農耕の準備を始める目安とされていた「雨水」です。雪から雨に変わっていくころ、雪が溶け始めるころで、春一番が吹く季節でもあります。ちょうど昨日気温が上がり、春一番が吹きました。
雨水の期間の七十二候は次の通りです。
初候: 土脉潤起(つちのしょううるおいおこる 雨が降って土が湿り気を含む)
次候: 霞始靆(かすみはじめてたなびく 霞がたなびき始める)
末候: 草木萠動(そうもくめばえいずる 草木が芽吹き始める)
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2017/02/17
クアラルンプールで金正男さんは本当に「暗殺」されたのか
まるで朝鮮王朝の韓流ドラマを見ているような気がしてきます。今の時代、こんなことがまだあるのかと。
金正男さんが暗殺されたそうです。でも、ちょっと不思議なんですが、こうは考えないのでしょうか?
たとえば、正男さんは、北朝鮮からの資金を絶たれているらしく(だからLCCを利用していたんだろうし)、生活のために危ないビジネスに手を出していたかもしれません。そのトラブルで消されたということはないんだろうか?と。
マスコミも、専門家もすべて「北朝鮮の暗殺」というシナリオに沿って推理しています。その物語の方が、関係者にとってはメリットがあるからそうなんでしょうが。
真相はまだわかりません。「北朝鮮の暗殺に違いない」という眼鏡をかけて見ると、見誤ってしまうこともあるかもしれません。
もし本当に「北朝鮮の暗殺」だとすると、今度は彼の息子が危ないそうです。次のターゲットは彼ではないのかと。息子は過去メディアでも、金正恩を独裁者と呼ぶなど、かなり政権には批判的で、その心配は当然なのでしょう。
正男さんが殺されたのが、クアラルンプールLCCターミナル、セルフチェックインカウンター前でした。「あそこか」という驚きもあるし、「あそこなら」という納得できる場所でもあります。
Arr Asiaを使うようになって、時々使うようになったターミナルです。映像を見るたびに、現場の感覚がよみがえります。ざわざわした雰囲気の中、わずか5秒で終わった殺しを誰も気が付かなかったとしても不思議ではないと思います。
前も書きましたが、けっこうマレーシアというのはブラックな雰囲気があるんですよね。
2017/02/11
「犯罪」と「自己表現(アート)」は紙一重。松本伊代と早見優の場合は?
昔、「ゴミタワー」を「創作」したオヤジという記事をアップしました。
「犯罪」と「自己表現(アート)」は紙一重のところがあるという意味で書いたものでした。
でも、これを書いたのはほぼ10年も前です。世の中変わりました。「犯罪」と「自己表現」は紙一重どころか、「犯罪」を「創作」する人間まで現れるようになっています。
昨日、あるデザイン系の学校でいっしょだった友人の絵描きと話をしていたら、当時、三越のライオン像を金色に塗った男は、俺たちの同級生だったという話を聞きました。
その男を俺は覚えていませんが、友人によるとそういうことをやった尖がった男だったというのです。この事件は新聞記事になったそうですが、たいして話題にもなっていないと思います。俺も知らなかったし。
昔の「自己表現」はそんなもんだったんですね。今ならどうでしょうか。写真がSNSにアップされて、瞬く間にトップニュースにもなった可能性があります。もしかしたら、金色に塗った男がネットに動画をアップして炎上していたということもあるでしょう。
自分の「犯罪」をアップすることは、「自己表現」の延長線上にあるのでしょうか。10年以上前なら、ある意味「YES」だったかもしれません。
最近は事情が変わって来たのです。たぶん最近自分の犯罪行為をアップしているのは、成行きで、ということもあるんでしょう。ウケるから、より刺激的なものへと変わっていくというケースもあるはずです。あまり、この行為がどういう影響を与えるのか、わからないままにアップしているのが多いのではないかなと。
若者ばかりではありません。最近は、松本伊代と早見優が線路内に立ち入って写真を撮り、自慢気にアップして問題になっています。社会的に影響力のある人間も、こんな風なことをやってしまうのが現代です。(それにしてもこの件以外でも、こういう「犯罪」を探し回っている暇なやつがいるんでしょうね。俺はむしろこっちが気持ちわるいんですが) 彼女たちを笑うことはできません。
「ネットを使いこなす」などというイメージは嘘ですね。ハサミを振り回している赤ちゃんと同じです。だから怖いとも言えるのです。怖さを知らないからです。赤ちゃんが振り回すハサミがどんなに危険か。本人を傷つけることはもちろん、他人を傷つける可能性もあります。ネットはまだ人間が管理できる完全な道具にはなっていません。
でも、ここまで書いてきて、結局、俺はどっちなんだ? と疑問に思ってしまいます。
俺も正直言えば、ぎりぎりのことはやっているし、微罪かもしれないですが、違反もしています。でも、それを「自慢」する勇気はありません。なるべくバレないようにしているつもりです。でも、自分の気が付かないところで(無意識で)、「自己表現」してしまっているのかもしれませんが。
社会状況、ネット環境が違ってきたので、一概には言えませんが、やっぱり、「自己表現」へ向かうパッションの源泉は昔と何も変わっていないんだろうなと思います。
「やりたくなる」気持ちは同じなのです、昔と。道徳や慣習や法律や倫理にとらわれずに行なうこと。その破壊力が、世の中を変え、前進させていることもあるからです。
逆に言えば、道徳や慣習や法律や倫理に囚われ(それが正しいと信じて)、そこから一歩も出ないとしたら、それこそ問題なのではないかと(まぁ、そんな人間いないでしょうけど)。そんな世の中は、窮屈で生きている実感がわきません。微妙なところがわくわくするんですよね。
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2017/02/10
「犬」と「棚田」の意外なつながり
5月に行われる棚田・米関係のイベントの打ち合わせにいったとき、犬の本が出版されるという話をしたのですが、そうか、「犬」と「棚田」はまったく関係ないわけではないんだと気が付きました。
こじつければ、何でも結びつくともいわれそうですが、こじつけではないかもしれないんです。
とくに、伝説ではとても関係あります。中国南部の少数民族には、「稲を犬が持ってきた」という伝説が多く伝わっています。
例えばチワン族やミャオ族の伝説では、犬が天上の稲モミを尾に着けて運んできました。犬の尾が稲穂を連想させるからだという伝説もあります。穀物起源の話と犬は意外と関係が深いのです。
チワン族の伝説では、9尾の犬が天上のモミを付けて逃げるのですが、途中8尾は切られてなくなってしまいます。最後に残った1尾に付いていたモミが人間界にもたらされて、稲作をやるようになりました。
日本では、直接犬が稲を運んできたという伝説は少ないようですが、弘法大師が薬草(麦の種子)を盗んできたという話は伝わっています。『犬狼物語』の香川県善通寺市にある「犬塚」のところでも、この話を書いています。
この場合も、犬が関係しています。犬は、麦が盗まれないように見張る番犬です。立場は違っていますが、これも穀物起源と犬が関係している話です。
それと、日本では花咲かじいさんと言われますが、中国には犬が田畑を耕す「狗耕田」という民話があります。
ここほれワンワンの花咲か爺さんのルーツ話ともいわれるようですが、犬がここほれワンワンというのを聞いて人間が掘るか、それとも犬自身が掘るかの違いはありますが、(ここから先は俺の勝手な想像ですが)、もしかしたら、黄金(宝)を見つけたというのは、いっしょうけんめい働けばいいことがあるという教訓なのかもしれないですね。そして「黄金(宝)」というのは「稲(穀物)」なのかもしれません。
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2017/02/09
『全国の犬像をめぐる(仮タイトル)』を機にインスタグラム
『犬狼物語45話 全国の犬像をめぐる(仮タイトル)』を機に、インスタグラムをちゃんと始めました。
vino_12345
全国の犬像や、ヴィーノと風景の写真です。
#dogstatue のタグでポストしている人なんていないだろうと思ったら、いるんですね。自分で言うのもなんですが、変わり者も世界規模で見れば変り者でなくなるようです。
犬像が世界中にあることもわかりました。心強いです。
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2017/02/08
岡山市の桃太郎像にニット帽やマフラーが物議?
岡山県の桃太郎像が、ある騒動に巻き込まれています。
Yahoo ニュース:
冬のももたろう像に衣類 賛否は 岡山市「何もせず見守って」
それは市内にある桃太郎像に、ニット帽やマフラーが巻かれることがあり、それが許されるか、許されないか、というものです。一応、市の対応として、通報があったら、取るようにしているようですが。
俺も『犬狼物語』のために岡山市へ行きました。桃太郎に従っている犬像があるからで、今準備中の書籍でも桃太郎と犬像は取り上げています。だから一言、思いを書いてみます。
この問題は、像をどう考えるかで変わってくるのではないでしょうか。
「アート」と考える人は、作品のオリジナル性や芸術性から、よろしくないと考えるだろうし、一方、「現代版お地蔵さん」と考える人は、寒そうだからニット帽やマフラーを巻いてあげようという気持ちの問題があります。
ただ、誰でも見れる、触れる公共の場所に立っている像は、すでに製作者や設置者の思いを離れ、みんなのものと考えた方がいいのではないかと個人的には思います。
「これをアートとみるべきだ」とか「お地蔵さんとみるべきだ」というのは、それこそおせっかいなことで、みんなそれぞれ自由に接すればいいことでしょう。俺はどちらかというと、問題の像に関しては、「お地蔵さん派」ですが。
東京都麹町に「甲斐犬像」があります。こちらも、時々、お金がお供えされたり、ネックレスを掛けられているそうで、みんな頭を撫でるのでてかてかに光っています。でも、この像を見て、そして、像を建てた関係者に話を聞くうちに、現代版のお地蔵さんだなと思ったのです。
犬像が地域の人たちを見守り、また、地域の人たちから犬像が見守られ、お互いに育っている感覚が、いいなぁと思いました。
アートって、そんなかしこまって、崇高で、敷居が高いものなんでしょうか。違うと思うんですけどね。もっと身近でいいと思います。
ただ、以前、明らかにいたずらされたという経緯を考えれば、桃太郎像の管理者として、ニット帽もマフラーも取らざるを得ないのもわかります。
だからニット帽やマフラーも、心の中でかけてあげればいいのではないでしょうか。それで思いは伝わると思います。
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2017/02/07
【犬狼物語 其の百十五】 埼玉県さいたま市 西堀氷川神社のお犬さま
埼玉県さいたま市の浦和駅の西方、住宅街に丘があります。鎌倉時代、この丘に城が築かれたという。今、西堀氷川神社が鎮座しています。
境内には、秩父三峯神社と武蔵御嶽神社の摂社もあります。三峯神社の前にはお犬さまが鎮座しています。これは意外と新しく、と言っても、約30年前に奉納されたお犬さまです。
御嶽神社にはお札が貼られていた痕が残っていました。よく見ると「大口真神」と読めます。
また境内の社務所の隣に「ご神木」がそびえたっています。楠の大木ですが、看板が掲げられていて「ご神木の息吹を戴いてみませんか」とあります。パワースポットになっているらしい。
ところで、西堀氷川神社を上の宮、田島の氷川神社を下の宮というそうです。
『浦和市史 民俗編』(昭和55年)によると、
「この二社は姉妹であるが、下の宮が姉である。ところが、この姉妹は大変仲が悪い。上、下が逆であるほか、社殿も妹の方が立派であるのである。それで、この二社の祭礼(下の宮は十月五・六日、上の宮は同六・七日)の三日間はきまって雨が降るという。人びとはこのことを「西堀・田島の泣き節供」と呼んでいる。」
と、あります。
2017/02/05
映画 『ルーシー/LUCY』 脳の機能を100パーセント使うこと
前から観よう観ようと思っていた『ルーシー』をようやく観ました。
ルーシーという女性が、ある事件に巻き込まれ「CPH4」という薬を摂取してしまい(その摂取のしかたも大変なのですが、ここでは省略して)、それが脳の活性化を促し、最後は100パーセント脳の機能を使う、というものです。
脳の機能を100パーセント使う映画として、『リミットレス』というものもあり、こっちはすでにブログに書いています。
どうしてこういう映画のテーマが生まれるかというと、もともと、人間の脳は10パーセント(あるいは20パーセント)しか使われていないという説があり、じゃぁ、100パーセント使ったら、スーパーマンが生まれるのでは?という、期待というか願望があるからなのでしょう。
でも、『リミットレス』の時にも書きましたが、10パーセント(あるいは20パーセント)しか使っていないということ自体俗説だという話です。仮にそれが本当だとしても、10パーセントしか使わないのは、使えないからではなくて、使わない方がいいからそうなっているのではないかと想像します。それを進化というのかどうかはわかりませんが。
もし100パーセント使ってしまったら、もはや「人間」とは呼べないんだろうな、別な生き物になってしまうんだろうなと思うからです。
そして『ルーシー』では、実際そのように描かれていて、『リミットレス』よりはリアリティを感じる話になっています。
こんなふうなセリフが、脳の活性化が70パーセントほどに達していたルーシーの口から出ます。
人間は自らの「独自性」を存在論の根拠としてる。
単位の基準は、「1」だが、本当は違う。
人間は理解しやすいように存在や情報を単純化する。
それは楽な尺度で物事を考え、無限の深淵を忘れるため。
「時」が存在の証となる。
「時」だけが真実の尺度である。
「時」が物質の存在を明かす。
「時」なくして何物も存在しない。
ルーシーの説明を聞いて、科学者は最後に、「時が支配する」と自分に言い聞かせるように言うのです。
この映画では、物が存在するように見える(感じる)のは、「時」があるからだということになっています。科学的にはどうかわかりませんが、映画としては面白い話です。
そしてルーシーの脳の機能が100パーセントに達してしまったとき、もう物質で存在する必要もなくなったルーシーは消えてしまいます。
いや、消えてしまったわけではありませんでした。普通の人間の目には見えなくなっただけで、「私はどこにでも存在する」のでした。
これを単なるSFの話だけではないところが面白い。たとえば、普通の人間には見えないもの、聞こえないものが現実にたくさんあります。
「見える」「聞こえる」「匂いがする」などの感覚は人間の能力の範囲内だけの話です。犬が嗅いでいる匂いを人間は気が付けません。魚が見ている色もわかりません。イルカの聴こえる音も聴けません。人間は知らないことだらけです。
でも、知る必要がないから、そういう程度の能力で充分なのでしょう。ルーシーが言うように「人間は理解しやすいように存在や情報を単純化する」のです。それは悪いことではないかもしれません。でないと、生きられないからです。
動物の究極の目標が、生きて、子孫を残すことなら、脳を100パーセント使うなどという、膨大なエネルギーは使わない方がいいだろうし、物事を単純化したほうが生き延びるチャンスは増えます。たとえば、画像を扱う人ならわかると思いますが、JPGデータを可能な限り圧縮した方が扱いやすいということと同じように。
だから、これで人間なんだろうなと最後は思うわけです。能力と環境は程よいバランスを保っているのではないかなと。
逆に言えば、バランスを保っているから人間が存在できているということでもあるのでしょう。あえて脳の機能100パーセントを使わないことで。
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2017/02/04
今日は「新年立春」
二十四節気「立春」です。春の初めです。
まだ寒さは続くので、これから春に向かう、春の兆しを感じられる季節といったほうがいいかもしれません。
旧年12月(または閏12月)の立春を「年内立春」、年が明けてからの立春は「新年立春」といいます。先日の1月28日が旧暦の元日でした。だから今日の「立春」は「新年立春」です。
立春と元日が重なるのは珍しく、「朔旦立春」といいますが、1992年にあった以降は、ずっとなくて、2029年までもなさそうです。(Wiki参照)
春の初め、「立春」期間中の七十二候は次の通り。
●初候 東風解凍(東風が厚い氷を解かし始める)
●次候 黄鶯睍睆(鶯が山里で鳴き始める)
●末候 魚上氷( 割れた氷の間から魚が飛び出る)
2017/02/02
山形の実家で縄文時代へタイムトリップ
私用で山形の実家に行ってきました。
先日の大雪は少し融けて、思ったほどの雪は積もっていませんでしたが、でもやっぱり雪国です。今朝はふたたびけっこうな雪になっていました。
実家で飼っているのは猫。俺も子供のころから猫好きでしたが、今は、どちらかというと犬好きになってしまったかもしれません。
実家のツバキは、6歳くらいでしょうか。顔はそうでもないですが、腹が出ていますね。
ところで、昔の俺の部屋をいろいろ物色していると、「沢畑 お月山古土器 昭和四十七年」と書いた箱を発見しました。
思い出しました。これは14歳の時に「お月山」という縄文時代の遺跡や、他の遺跡から見つけた土器や石器です。
お月山遺跡が大学調査が終わったあとに、友達と行ったらまだ遺物が落ちていたので拾ってきたものでした。
その後、土器と石器というものが気に入って、図書館の郷土誌から遺跡の場所を探して、いろいろなところへ行って、崖の中から見つけたものもあります。「トレンチ」の掘方なども調べて、将来は考古学者になろうかなどとも思ったくらいです。
実家は河北町の谷地というところですが、地名「谷地」でわかるように、昔は湿地だったようです。遺跡は、山際にあるので、湿地との境に縄文時代の集落は点在していたのでしょう。
土器や石器が実際崖から顔を出しているところなどを見ると、子どもながらに不思議な感覚と、古の時代へとタイムトリップする快感を覚えました。
これは2段階のタイムトリップですね。1段目は、現在から44年前へ。2段目は、縄文時代へ。
黒曜石や水晶の矢じり、縄文土器の渦巻き状の装飾部分には感動します。それを実際手に取った時、何千年前の縄文人が、同じように手にもっていただろうことを想像するとぞくっとしますね。
文字がなかった時代からのメッセージは、「形」にこそ表れるということでしょう。
現在が過去と遺物でつながる瞬間です。
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