映画 『ルーシー/LUCY』 脳の機能を100パーセント使うこと
前から観よう観ようと思っていた『ルーシー』をようやく観ました。
ルーシーという女性が、ある事件に巻き込まれ「CPH4」という薬を摂取してしまい(その摂取のしかたも大変なのですが、ここでは省略して)、それが脳の活性化を促し、最後は100パーセント脳の機能を使う、というものです。
脳の機能を100パーセント使う映画として、『リミットレス』というものもあり、こっちはすでにブログに書いています。
どうしてこういう映画のテーマが生まれるかというと、もともと、人間の脳は10パーセント(あるいは20パーセント)しか使われていないという説があり、じゃぁ、100パーセント使ったら、スーパーマンが生まれるのでは?という、期待というか願望があるからなのでしょう。
でも、『リミットレス』の時にも書きましたが、10パーセント(あるいは20パーセント)しか使っていないということ自体俗説だという話です。仮にそれが本当だとしても、10パーセントしか使わないのは、使えないからではなくて、使わない方がいいからそうなっているのではないかと想像します。それを進化というのかどうかはわかりませんが。
もし100パーセント使ってしまったら、もはや「人間」とは呼べないんだろうな、別な生き物になってしまうんだろうなと思うからです。
そして『ルーシー』では、実際そのように描かれていて、『リミットレス』よりはリアリティを感じる話になっています。
こんなふうなセリフが、脳の活性化が70パーセントほどに達していたルーシーの口から出ます。
人間は自らの「独自性」を存在論の根拠としてる。
単位の基準は、「1」だが、本当は違う。
人間は理解しやすいように存在や情報を単純化する。
それは楽な尺度で物事を考え、無限の深淵を忘れるため。
「時」が存在の証となる。
「時」だけが真実の尺度である。
「時」が物質の存在を明かす。
「時」なくして何物も存在しない。
ルーシーの説明を聞いて、科学者は最後に、「時が支配する」と自分に言い聞かせるように言うのです。
この映画では、物が存在するように見える(感じる)のは、「時」があるからだということになっています。科学的にはどうかわかりませんが、映画としては面白い話です。
そしてルーシーの脳の機能が100パーセントに達してしまったとき、もう物質で存在する必要もなくなったルーシーは消えてしまいます。
いや、消えてしまったわけではありませんでした。普通の人間の目には見えなくなっただけで、「私はどこにでも存在する」のでした。
これを単なるSFの話だけではないところが面白い。たとえば、普通の人間には見えないもの、聞こえないものが現実にたくさんあります。
「見える」「聞こえる」「匂いがする」などの感覚は人間の能力の範囲内だけの話です。犬が嗅いでいる匂いを人間は気が付けません。魚が見ている色もわかりません。イルカの聴こえる音も聴けません。人間は知らないことだらけです。
でも、知る必要がないから、そういう程度の能力で充分なのでしょう。ルーシーが言うように「人間は理解しやすいように存在や情報を単純化する」のです。それは悪いことではないかもしれません。でないと、生きられないからです。
動物の究極の目標が、生きて、子孫を残すことなら、脳を100パーセント使うなどという、膨大なエネルギーは使わない方がいいだろうし、物事を単純化したほうが生き延びるチャンスは増えます。たとえば、画像を扱う人ならわかると思いますが、JPGデータを可能な限り圧縮した方が扱いやすいということと同じように。
だから、これで人間なんだろうなと最後は思うわけです。能力と環境は程よいバランスを保っているのではないかなと。
逆に言えば、バランスを保っているから人間が存在できているということでもあるのでしょう。あえて脳の機能100パーセントを使わないことで。
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