今日は、二十四節気「小満」、七十二候「麦秋至(むぎのときいたる)」
今日は、二十四節気「小満」、七十二候「麦秋至」です。
Wikiによれば、麦秋とは、麦が熟して、麦にとっての収穫の「秋」であることから、名づけられた季節だそうです。
写真は、北海道富良野で撮影した麦畑です。
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今日は、二十四節気「小満」、七十二候「麦秋至」です。
Wikiによれば、麦秋とは、麦が熟して、麦にとっての収穫の「秋」であることから、名づけられた季節だそうです。
写真は、北海道富良野で撮影した麦畑です。
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練馬区の八坂神社を参拝しました。
階段を上って行くと社殿が現れますが、境内の社務所横には、目立つ巨木2本、「練馬の名木」が立っています。
1本は銀杏で、高さ26.5m、幹の太さ3.7m。練馬区内では銀杏としては有数の大きさを誇るという。もう1本はカヤです。高さ25m、幹の太さ2.7m。これも区内有数のカヤの木で、「練馬の名木」に指定されました。境内の樹木を折ると熱病にかかるという言い伝えがあるそうです。
この練馬の名木に見守られながら、御嶽神社は、拝殿の左手に鎮座しています。大口真神社の御札が納められていました。
1対のお犬さまがいます。大きくはないですが、鋭い目つきで、何かを守っているような威厳と存在感があります。シルエットだけ見ると、「ゴジラ」のようにも見えます。
冗談ではなく、意外と「お犬さま」と「ゴジラ」には共通性があるのかもしれません。自然と人間の仲立ちをする「神使い」として、あるいは「神」そのものとして。
「お犬さま」はもともとオオカミ信仰ですが、農作物を害獣から守ってくれるという感謝の思いだけではなく、山に棲む得体のしれないものに対する畏れもあったような気がします。つまりそれは、自然そのものに対する感謝と、畏れそのもの、ということなのでしょう。自然を象徴する存在としての「お犬さま」。そんな風に見えます。
一方の「ゴジラ」も、アメリカ映画が描く、ただ単に人間に害を与える怪獣とは、ちょっと感覚が違うような気もします。
たしかに日本の都市は何度も破壊されました。でも、それは台風や、地震や、津波と同じような、たとえて言えば、「ゴジラ」が日本で暴れるのは、自然災害のようなところも感じます。
だから単に、「ゴジラ」を殺せばハッピーエンドか、というと、そうでもなく、来てはほしくないけど、いなくなったら嫌だ、みたいな。ということは、「ゴジラ」も自然を象徴しているのかなとも思ったりします。
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東京都練馬区の土支田八幡宮を参拝しました。
鳥居を入り参道を進むと、正面の拝殿の左側に、「太平洋戦碑」があり、その奥に「御嶽山大々記念碑」がありました。
さらに奥が、石積みの塚と小さな祠の御嶽神社の境内社です。ここに1対の狼の像が鎮座しています。右に鎮座する「阿」像には修復された跡がありました。
うっそうとした林の中にあり、静寂の中、木漏れ日が枯れ葉を照らし、神秘的な雰囲気です。いわゆる、鎮守の森です。瞑想にふけりたい気分ですが、ただ、蚊も多く、長く撮影していたら、手と顔を刺されて大変なことになりました。
「土支田八幡宮の社叢」ということで、この林は特徴的らしく、説明看板によると、
境内に植えられているのはスギとヒノキが主な樹種だそうで、練馬区内の神社の社叢としては比較的広くて、高木が多いことが特徴だそうです。
都会の中に、このような鎮守の森が残っているのは貴重です。そして鎮座する狼像がこの森を守っているようにも見えてきます。
狼は、昔はシカ・イノシシなど害獣を防いでくれる農耕の神様ですが、現代的な意味としては、都会の中の自然の守り神のような存在かもしれません。
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東京都練馬区の土支田北野神社は、閑静な住宅街の中にある小さな神社です。
鳥居をくぐって参道を進むと、右側に拝殿があり、左手に小さめの鳥居があって、その奥が境内社の御嶽神社です。
お犬さま像が一対鎮座していますが、それぞれが鉄柵に囲まれています。近づいてよく見ると、修復しているところもあって、誰か触ったりしてこれ以上壊されるのを避けるためなのか、それとも、盗難防止かわかりませんが、とにかく、カメラマン泣かせであるのは間違いありません。
これはどうしようもないです。全体を撮るには柵の外から撮るしかないし、柵の間からは顔のアップしか撮れません。
ただ造形的にはすばらしく、拝むだけなら、それほど気にならないのかもしれません。
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最初見たのは半年前ですが、最近、また同じような夢を見たので、これは今の心の状態と何か関係があるからまた見たということなのでしょう。なので、夢からのイメージを意識化してみます。
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俺は浅田舞に、犬が地面に「巣穴」を掘って眠ることを説明している。
「犬が左回りで寝るだろ? でも、北半球と南半球では周る方向が逆向きになる」
と俺は言いながら、いいところに気が付いたなと内心思った。
彼女はあまり信じていないようだった。
実際目の前の茶色い犬が、くるくる回って地面の穴に寝るのを二人で見ていた。
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犬が巣穴を作って寝ることを知ったのは、東南アジアの地域犬たちを見たときでした。
やっぱり犬も動物なんだなと思ったのです。日本のように家で飼われることが多くなったところでは、犬も、巣穴を掘る必要もなくなり、巣穴を見る機会はなくなりましたが、ただ、座布団に横になるときなどは、くるくる回転してから落ち着きますよね。
あれが毎日同じところで繰り返されると、地面が「穴」のように窪んできて、ちょうど良い具合に体にフィットするらしく、だから安心できるのでしょう。動物にとって、安心して眠ることができるというのはかなり大切な環境です。
さて、この回転ですが、排水溝に流れ込む水の渦巻きが、北半球と南半球では逆向きになる、という話を聞いているので、犬の回転にもそういうことがあるのでは?と、俺は夢の中で想像しているわけです。そしてそこに気が付いた俺を浅田舞に自慢しているのです。
(掲載写真の犬も右側を下にして寝ています。左回りで寝ています。偶然でしょうが、うちのヴィーノも右を下にして寝ることが多い気がします。実は俺も右を下にして寝ることが多いです)
浅田舞の登場は、しいて言うなら、先日引退宣言が印象的だった浅田真央のお姉さんなので、むしろ本質は浅田真央の中にある、「舞的なもの」の表現かなと思います。
では、「舞的なもの」とは何なのか? トリプルアクセルにこだわってきました。真央の方は、ストイックで真面目です。もちろん、そこが彼女のすばらしさであり、魅力なのですが、そのこだわりが、自身を縛ってもいるんじゃないかなと俺は感じているらしい。
だからたまには「逆でも良いのでは?」と。真央の今までのイメージの「逆」が「舞的なもの」なのではないのかなと思います。
そこに気がついて自慢しているところは、俺自身がそうでありたいという願望なのかもしれません。
いつも「左回り」で生きることが、固定化してしまい、それが自由を奪っているところがあるのではないかな。
たまには「右回り」を生きてみる、ということ。
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富士山に登ってきました。
と、言っても、富士塚です。埼玉県川口市の 鎮守氷川神社にあります。
江戸時代には富士・浅間信仰が流行りましたが、富士山まで行けない人のために作られた小型富士山の「富士塚」。ここに登ると、実際に富士山に登ったのと同じ御利益があるという考え方です。
鎮守氷川神社の富士塚は、「月三講」という講社が万延元年(1860年)に築造したものです。
富士山をご神体とする富士山本宮浅間大社と同じ、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が祀られています。木花開耶姫命は安産の神様でもあり、山に登ることで、安産・子育て・家内安全・厄除・病気平癒などの願いがかなうと言われています。
高さは、境内敷地から5mほどでしょうか。参道はコンクリート製で階段もあって登りやすい。てっぺんに奥宮と、黒い「撫で犬」の像が横たわっています。解説看板によると、
撫でると
母犬・ ・ ・安産
子犬・ ・ ・子育て・子宝
親子・ ・ ・家内安全
のご神徳があらたかです。
と、あります。
東京の水天宮にも安産に御利益があると言われる「子宝犬」が鎮座していましたが、犬も、多産・安産を象徴するものです。各地の「犬塚」も「安産」と結びついているところが多いようです。
なお、境内には、4畳ほどの広さの「神餞田(しんせんでん)」があります。秋の新嘗祭の時に神様にお供えする稲を育てる場所で、神聖な田んぼです。田植えが行われたばかりのようで、高さ10cmほどの苗がゆらゆらと揺れていました。
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中国で拘束されている日本人のニュースです。
俺も軟禁されたことがあるので、他人事ではありません。怖さがジワーッと蘇ります。
天安門事件の翌年1990年、雲南省でのことでした。今とは事情が違っているでしょうが(インターネット、コンピュータも導入されている)、ただ、同じ部分もあるのではないかと想像します。
中国では、「身分外活動」でも捕まってしまいます。たとえば、観光ビザで入った観光客が、市場で物の値段を聞いたりしたとき、「取材活動」とみなされるようなときです。観光ビザで入って取材や仕事をしてはいけないのは日本も同じことなので、この点では、中国独特とはいえないかもしれません。
何が中国独特なのかというと、問題は、その「取材活動」の範囲があいまいなことです。あいまいで、堺がないから、逆に誰でも拘束されてしまうという恐ろしさがあります。要するに、捕まえようと思ったら、どんな理由でもできてしまうということなのです。
しかも最近は反スパイ法もできて、密告制度もあるということなので、じゅうぶん注意しないとだめでしょう。反スパイ法の中には、「その他のスパイ活動」という項目があります。つまり「何でも」ということなのです。
軍事施設などを撮影するのは論外ですが、独龍江に行ったとき、ガイドを付けていたのですが、貧しい村や村人の写真は問題なかったのに、地層などが含まれる風景はダメだと、注意されたことがありました。
自分では単なる独龍江の風景写真のつもりで向けたカメラを制止されたのは、河岸に地層が見えていたからでした。あと特別な植物もダメだったように記憶しています。
そういう体験から想像すると、今回拘束されている日本人の中で、温泉探査に関わる仕事をしていた日本人がいるので、そこはかなり神経質になる部分かなと思います。これをスパイ活動とみなされると危ない。拘束された日本人は、どんなビザで中国へ行っていたのでしょうか。
そして俺が軟禁されたのは、こんな状況でした。
たしかにミャンマーの国境にも近かったので、祭りの写真を撮りに行ったことがスパイ活動ではないかと疑われたようでした。パスポートを取り上げられて、2日間、公安局の隣の旅社に軟禁されました。
実は、神経質になっていたのは、前年の天安門事件に関係した学生が雲南からミャンマーに逃げるルートでもあったらしいのです。
だから俺の日記を見て、あるページに「学生」とあり、どこか別なページに「民主化」という漢字を見つけて、公安はむりやり2単語をくっつけて「お前は、民主化の学生と関係しているんだろう?」というのです。
取り調べでは、「正直に言わないと、日本に帰れないぞ」と脅されたことが、一番の恐怖でした。あとで冷静に考えれば、そんなことはないと分かるのですが、取調では厳しい公安Aと、優しい公安Bが、交互に質問してくるのです。厳しい方のAが席を外した時、すかさずBが優しく自白を強要するのです。
まるで刑事ドラマと同じだなと思いましたが、優しいBから、「あの人(A)だって、悪い人じゃない。正直に言えばすぐ日本に帰れるんだから」と言われると、思わず、「関係ある」と認めてしまいそうにもなりました。
よく日本でも自白して冤罪を生むことがありますが、よくわかります。情報を遮断され、厳しいAから「帰れなくなるぞ」と脅され、優しいBに「早く帰りたいでしょう?」と(偽りであっても)同情される、これが永遠に続くのではないか、本当に帰れなくなるのではないか、と思い込むようになっていくのです。そして、ついBの優しさにホロッとしてしまう。これは心理学的にも、今なら俺も理解できます。
助かりそうだと思ったのは、こんなことを言われたからでした。
「お前の日記を読めるコンピュータが中国にはあるんだ。嘘をついてもわかるんだ」と脅された時、「あぁこれははったりだな」と確信しました。汚く崩した俺の日記の文字を読めるコンピュータなんて、どこににもないからです。たぶん、いまだにないでしょう。
公安は攻める部分がなくなってきたので(学生と関係あるという証拠が出てこないので)、こんな苦し紛れのことを言い始めたんだろうと、俺は内心、安心したのでした。
実際、スパイ容疑は晴れたのか、3日目には開放されました。ただ中国を出国するようにビザの期間を短縮されました。雲南の奥地だったので2週間の猶予期間をくれたのは、当時の中国だからでしょう。今なら、2日で出国できます。
こんなふうに、「スパイ活動」かどうかは、現地の公安の判断次第ということなのです。どんなことでも「スパイ活動」にされてしまうという怖さが中国にはあります。
観光客だからと言って安心できません。とくに「観光ビザ」だけの場合は。「スパイ活動」ではなくても「身分外活動」で捕まる可能性もあるからです。
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2017年の「東北お遍路写真コンテスト」の募集チラシです。
締め切りは、2017年8月31日です。募集条件で昨年と大きく違うのは、テーマ(被写体)が「東北お遍路にまつわる写真」になったことです。裏面の「東北お遍路巡礼地一覧」を参考にしてください。それ以外、大きさや応募票の貼り付けなど、基本は同じです。
それでは、作品お待ちしています。
東北お遍路の公式HPはこちらです。巡礼地を確認できます。またチラシ裏側の応募票をプリントする場合は、こちらからお願いします。
http://tohoku-ohenro.jp/media/files/_u/topic/file1/2dzac1bm6r.pdf
ポスターを持って行ったら、犬像イベントを行う予定のギャラリーのオーナーが、骨董の「ニッパー」像を探し出してくれました。
オーナーが、これを手に入れたのは、10数年前です。何年前に作られた像かはわかりませんが、前の持ち主も首をボンドでくっつけようとしたらしく、首の周りには大量のボンドが残っています。
今は瞬間接着剤もあるし、なんとか元通りに直るのではないでしょうか。
色もところどころはげて、いい味を出しています。銅像、石像の犬像もそうですが、時間経過とともに、深みが増してくるのはどうしてでしょうか。像とはそんなものなのかな。
Wikiによると、ニッパーは、
「絵画『His Master's Voice』のモデルとなったイヌ。蓄音機に耳を傾けるニッパーを描いたその絵画は、日本ビクター(現・JVCケンウッド)やHMV、RCAなどの企業のトレードマークとして知られる。」
とあります。
犬像を撮影するようになってから、いずれビクタースタジオ前のニッパー像も、と思っていたのですが、なかなか機会がなくて、いまだに撮っていません。
そしたらその前に、骨董のニッパーに出会ってしまいました。
犬像のイベントでは何か犬像を飾ろうと思っていたので、これを借りられそうです。
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二十四節気「小満」とは、「万物がしだいに長じて満つる」という意味です。
そして七十二候の「蚕起食桑」は、桑の葉がたくさん茂り、蚕が食べるころです。
世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の一要素、史跡 田島弥平旧宅の解説看板によると、
「島田弥平旧宅は、幕末から明治にかけて、優良な蚕種を生産する養蚕技法「清涼育」を体系的に完成させ、規範となる養蚕に適した蚕室を発案し、近代養蚕飼育法の確立を図った田島弥平(1822-1898)の旧宅である。」
と、ありました。
旧宅のそばにも桑畑がありました。養蚕は、日本の近代化に大きく貢献しました。
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A4のチラシができました。同じデザインで、A2のポスターも作りました。
本で使用した写真を正方形にトリミングして合わせてみました。日本全国にはこんなにたくさんの犬像があるのか?という驚きが、この本を作ったきっかけでもあるので、それを表現したデザインです。
もし書店など、どちらかで掲示していただけるところがあれば、印刷できる解像度のデータを用意しましたので、こちらからダウンロードしてプリントしてください。A2くらいの大きさのプリントには十分に対応できます。(約13MBあります)
http://asia-photo.net/inuzouA2.jpg
なお、青弓社やアマゾンのQRコードを消してほしい場合は、連絡ください。修正してお送りします。
また、A4チラシの場合、大量に必要な場合は現物(印刷物)をお送りできますので、ご連絡ください。
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宮城県村田町の白鳥神社に狆の狛犬像があると知って訪ねました。(「狛犬の杜」のHP参照)
拝殿の両側に一対の狛犬像が鎮座しています。たしかに垂れ耳、鼻ぺちゃ、狆のような顔の狛犬ですが、由来がわからないそうで、はっきりしません。少なくとも「普通の狛犬」とは違っているようですが…。
右側に鎮座する狛犬の顔は、どこかで見たんですよね。誰かと似ています。誰だったか思い出せません。目が若干青い。外国人だったか、どうだったか。
ところで、ちょうどこの日(先週の日曜日、5月14日)、「奥州の蛇藤まつり」で、俺は「もってるな」と思ったわけですが、狆の像も可愛くて良かったのですが、舞台で披露されていた日本舞踊もなかなか良かったのです。とくに「藤娘の舞」は。
「奥州の蛇藤」とは何か?
鳥居のところに、参道をふさぐような形で、大きな藤の幹が、うねるように横たわっています。樹齢800年以上、長さ約25mの巨大な藤の木です。これは村田町指定天然記念物の藤で、解説看板によれば、
「平成4年、日本樹木保護協会により樹勢回復の治療が行われた。 前九年の役の際、源義家が父頼義に従って東征し、この付近で敵軍に追い込まれ窮地に陥った時、このフジが大蛇に化けて敵兵を敗退させたという伝説から「奥州の蛇藤」と言われている。」
とあります。高いところにも藤の花が咲いていたので、全体を見るために参道入り口まで下がりました。見事な藤の木です。
蛇藤の横には樹齢3000年とも言われる大けやきの巨木もそびえています。
小太郎ケ渕は箒川の支流にある淵で、塩原温泉郷から山道に入り、国道400号から県道56号を約1.5kmほど上ると、右手に未舗装のラフな道があるので、それを300mほど下ったところにありました。
みずみずしい新緑が覆い、清流の涼しげな水音がなんとも心を落ち着かせます。
草だんごが名物の、小太郎ヶ渕茶屋があります。まだ時間が早かったので開店前でした。
茶屋の入り口近くに、犬の石像が2体立っていました。ネットで見て想像していたよりも小さい、高さは25cmくらいでしょうか。渓流を挟んで、対岸に祠がありますが、これと関係あるのでしょうか。
垂れ耳の子犬のようにも見え、ヴィーノの小さいときとそっくりです。まさか、ビーグルの幼犬ではないでしょうが。姿は「お犬さま」のようです。狼像かもしれません。まぁ、どっちでもいいですが、造形的な面白さと苔むした感じが、時間経過を感じさせるところが良いですね。
小太郎ヶ渕には伝説があります。
「領主の塩原小太郎が親のかたき討ちを果たせず家臣に追い詰められ、この渕に身を投じたという伝説が残る」(塩原温泉郷公式ページHPより)
というものですが、それと犬像は直接関係ないようです。もう少し由来を調べてみたいと思います。
それはともかく、静かで新緑が美しく、いいところです。紅葉のシーズンはまたいいでしょうね。
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「こまちの通り道 -オオカミ像を求めて-」というHPに、大田原神社にお犬さま(オオカミ)像があると知ったので、大田原市を訪ねました。
栃木県神社庁のHPによると、
「大田原の歴史と文化発祥の大田原神社は、市の中心を流れる蛇尾川の辺、大田原城跡と並ぶ龍体山々上の清く静かな別天地の鎮座する。」
と、あります。
駐車場から鳥居をくぐると、まっすぐな参道が社殿まで続いています。
夕方だったということもありますが、樹齢百年以上もの杉の古木が立っていて、薄暗くひっそりした境内は幽玄な雰囲気でした。
社殿の右側に鎮座するのが三峯神社です。その狛犬は神使いであるお犬さま(オオカミ)像です。
耳がピンと立ち、上を向いた姿は、力強さを感じさせる堂々としたものでした。
右側、阿像のお犬さまは、残念ながら上あごと耳がなくなっていますが、これは地震で壊れたのでしょうか。壊れた部分が足元に置いてありました。
茨城県石岡市の八郷地区にある「こんこんギャラリー」を訪ねました。
妻の知人が手作りジャムを出品しているというので、山形への途中寄ることになったのでした。「こんこんギャラリー」の名前は、地名の「狐塚」からとったものだそうです。
筑波山を望む高台に、クラフトマン 有機農業者 画家、ログビルダー、デザイナーなど、もの作りに携わる人たちが、地元の郵便局長 設計家の協力を得て建てた手作りのギャラリーです。
床が学校の体育館の床板を再利用するなど、手作り感がすばらしい。ベランダは気持ちがよくて、リラックスできます。イチゴのジャムをごちそうになりました。
ギャラリーを後にして、栃木県茂木町の石畑の棚田を訪ねました。半分くらいは田植えが終わった状態でした。
天気が良かったら、田んぼの水に満月を映して「田毎の月」の撮影をするつもりでしたが、雲がかかっていたのであきらめました。
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茨城県のJR石岡駅西口前の広場で新しい犬像の除幕式が行われたのは、2017年4月15日のこと。
「みんなのタロー」という犬像です。以前から駅の待合室には忠犬タローを紹介する写真パネルが掲げられていましたが、今回、この物語を語り継ごうと、犬と子どもたちのブロンズ像が建てられました。
タローとは、どういった犬だったのでしょうか。
1964(昭和39)年、石岡市立東小学校に1匹の犬が迷い込んできました。その犬はタローと名付けられ、学校で飼われることになりました。
その後、タローは、学校から2km離れたJR石岡駅に通うようになりました。地元の人たちは、誰かを待って駅通いをしているのでは、と思っていたようです。
81年の夏、タローが亡くなりました。学校で追悼式が行われ、石岡市には動物の墓地がなかったので、20kmほど南にある土浦市内の墓地に葬むられました。
その後、奇跡は起こります。
同小創立50周年記念誌にタローの写真が載りました。その写真を見て、元の飼い主である女性から連絡がありました。当時彼女は自宅のある玉造から、石岡の幼稚園に電車で通っていたのですが、45年前に石岡駅で別れてしまった愛犬のコロに間違いないと。
毎日忙しい両親に代わってコロが自宅から玉造駅まで見送ってくれていました。頭をなでると、自宅に帰っていたのですが、その日、頭をなでるのを忘れたのか、コロは電車を降りずに、そのまま石岡駅までいっしょに来てしまいました。
石岡駅では、「お嬢ちゃんの犬?」と、改札口で駅員に聞かれました。犬を乗せたことを怒られると思って首を振りました。それでコロは追い払われてしまいました。それがコロとの別れになってしまいました。
彼女はショックで熱を出し、10日間寝込んでしまいました。家族は石岡駅周辺へ6回も捜しに行きましたが、見つかりませんでした。
そして45年後、コロの消息を知ったという奇跡の物語です。
最近、この像に、花やお賽銭がお供えされるようになっているそうです。手を合わせていく人も多いそうです。現代版、お地蔵さんですね。
東京都麹町にある「甲斐犬の像」もそうでした。こういうものができると、供養碑・慰霊碑のような感覚を持つのが日本人なのでしょうか。手を合わせたくなるのです。いや、手を合わせる物が欲しいのかもしれません。
ただ残念なことに、500円玉はすぐになくなってしまい、1,5、10円玉だけが残されているんです、という話を聞きました。
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四谷にある須賀神社を参拝しました。
そしたら、けっこう参拝者が多く、アジア系外国人たちも急な階段で写真を撮っているし、なぜかな?と思ったら、ここは「聖地」だったんですね。
去年話題になったアニメ映画『君の名は』のラストシーンとポスターに、この階段が登場するのだそうです。映画を観ていないので知りませんでした。
須賀神社を訪ねたのは、かっこいい狛犬像があると聞いたからでした。
その狛犬は、祖霊社の横、社務所へ向かう通路の両側に1対鎮座していました。
高さは40cmくらいでしょうか。そんなに大きくはないのですが、造形的にすばらしい。たしかに、かっこいい狛犬です。ちょっと東南アジア的な匂いも感じます。どういうルーツなんでしょうか。
ただ、これは「犬像(オオカミ像)」ではないかもしれないので、【犬狼物語】として取り上げるのは例外です。
ところで、須賀神社は、「三十六歌仙繪」でも有名です。
三十六歌仙繪は、天保七年に描かれ、それぞれの歌人の肖像画に代表作一首を書き添えたもので、鎌倉時代から江戸時代にかけて隆盛をみたそうです。戦時中、金庫の中に納められていたので災火を免がれ、残ったそうです。
本物は本殿内にありますが、境内にはその絵の写真と解説が展示されています。
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この狼像(お犬さま?)を前もってネットで知っていたからわかったものの、何の予備知識もなく訪ねて、この像を見て「狼」だと気が付いたとしたら、よほどの狼像通と言えるんでしょうね。そういう人は、認知心理学でいう「ポップアウト効果」で、「目に飛び込んでくる」はずです。
俺にはまだ無理でした。予備知識があっても、見過ごしてしまいそうでした。腹のアバラでかろうじて「これだ」とわかった程度です。
代々木八幡の拝殿の右側に出世稲荷社があります。
出世稲荷社の案内板にはこのようにありました。
「第二次大戦末期の昭和二十年(一九四五)五月二十五日夜、このあたりは米軍の空襲により大きな被害を受けた。幸い神社は焼け残ったが、周辺は一面焼け野原となり、その焼跡には家々で祀っていた稲荷社の祠や神使の狐などが無惨な姿をさらしていた。それらを放置しておくのはもったいないと、有志の人々が拾い集め、合祀したのがこの稲荷社の最初で戦災の記憶と平和の大切さを偲ぶよすがともなっている。」
赤白の幟旗が立って、真っ赤な鳥居をくぐります。赤いよだれかけをかけたキツネ像がたくさんいました。稲荷神社と言えば、キツネ像。この中に一体だけ狼像があるというんですが・・・
稲荷社の右側に富士講などの山岳信仰の碑がありました。「登山四七度」とあります。
その碑の左わきに、光線の加減でアバラが現れた像があったのです。これがネットで探した神使いと思われる狼像でした。
これも空襲で焼け残った像なのでしょうか? ちょっと年代はわからないので、なんとも言えませんが、おそらくそうなんでしょう。
ところで、ここもパワースポットであるらしく、次から次にお参りする人がいました。「出世」という名前がいいのかもしれません。神社はパワースポットになるような営業努力もちゃんとしているんだろうなと思います。
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(青海省玉樹藏族自治州雑多県莫雲郷 メコン河源流域で暮らすチベット人家族)
『メコンを流れる』が電子書籍化されることになり、あらためて校正しながら読み直しました。
NTT出版から単行本として出たのは1996年です。もう21年も前です。
メコン河をテーマにし始めたころは、東西冷戦が終わった直後で、そのために、ベトナム、ラオスなどにも外国人が旅行で入れるようになってきたころでした。
ただ、まだ自由に旅行することはできなくて、ガイドといっしょに周った思い出があります。その後、あれよあれよという間に経済発展と自由旅行が同時進行し、風景と人々の様子が一変しました。
その激動の時代を、メコン河の源流から河口まで旅した旅行記です。同時に出版したのは写真集『メコン河 アジアの流れを行く』でした。
メコン河の源流に行ったのは、アメリカのナショナルジオグラフィックの記者・カメラマンの次でした(日本人としては初めてだったかもしれません)。現地に行ったら「だれもメコンの源流を探したことがない」ということを初めて知ったのです。1992年の夏でした。
黄河や長江(揚子江)の源流は調べられていたのに、1990年代半ばまで、メコン河の源流は調べられていませんでした。もちろん現地チベット人は源流で暮らしていましたが、彼らは現地で「ザナチュ」と呼ばれている川が、大河メコンだと、それほど意識していたとも思えません。
どうして1990年代まで調べられていなかったかというと、中国人(漢族)にも、メコンは少数民族が住む地域を流れる秘境で、経済的、文化的価値はほとんどなかったのでしょう。
今では、東南アジアに向けての、交通路と捉えられて価値が出てきましたが、昔は違いました。だから中国人も、メコン河の源流がどこかなんて興味を持たなかったようです。(植民地時代、フランス軍が下流から雲南を目指して遡りましたが、チベット高原までは行っていません)
1992年(あるいは1994年。2回行っているので、どちらだったか)の夏、源流域から戻ったザードゥ(雑多)の町では、これから源流を科学調査するという日中合同隊と出会いましたが、俺の存在ははあまり良く思われていなかったようで、後日、彼らが書いた週刊誌の記事には、「我々の先に来ていた日本人(俺のこと)が現地の物価(たぶんウマやヤクのレンタル料)を値上がりさせた」といった内容の、批判めいた文章を書かれました。
でも、俺はひとりで来ていたのに、彼らは大所帯なんです。彼らのグループが、地元に与えている影響は、俺と比べて歴然の差でしょう。「探検隊」というのは、なんて大げさなんだと思ったものです。それに引き換え俺はなんて身軽なんだと。
たぶん、俺がいたことで、彼らが「一番乗りした日本人」ということを公言できなくなったことに対しての、恨み節だったのではないかなと、悔しいので、そう思うことにしました。
別に、彼らが「一番乗りした日本人」を自称しても、俺は文句は言いません。
そんなことを思い出しながら読みました。
「日本遺産」の認定地が増えたというニュースです。
「文化庁は28日、地域の有形、無形の文化財をテーマでまとめる「日本遺産」に、北海道から福井の7道県にまたがる「北前船寄港地・船主集落」や三重、滋賀両県の「忍びの里 伊賀・甲賀」など23道府県の17件を新たに認定した。」(毎日新聞WEBより)
新たに認定された日本遺産の中で、行ったことのあるところは、
(1)北海道江差町: 江差の五月は江戸にもない-ニシンの繁栄が息づく町
(3)山形県鶴岡市: サムライゆかりのシルク 日本近代化の原風景に出会うまち鶴岡へ
(5)三重県伊賀市、滋賀県甲賀市: 忍びの里 伊賀・甲賀-リアル忍者を求めて
(10)和歌山県湯浅町: 「最初の一滴」醤油醸造の発祥の地 紀州湯浅
(11)島根県出雲市: 日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る
(13)福井県越前町、愛知県瀬戸市、常滑市、滋賀県甲賀市、兵庫県篠山市、岡山県備前市: きっと恋する六古窯-日本生まれ日本育ちのやきもの産地
(14)高知県安田町、奈半利町、田野町、北川村、馬路村: 森林鉄道から日本一のゆずロードへ-ゆずが香り彩る南国土佐・中芸地域の景観と食文化
(15)山口県下関市、北九州市: 関門“ノスタルジック”海峡~時の停車場、近代化の記憶
だいたいは犬連れ日本一周したときで、どこも面白い。バリエーションがあっていいですよ。
「日本遺産」については、文化庁のHPに掲載されています。
「日本遺産(Japan Heritage)」は,地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を,地域が主体となって総合的に整備・活用し,国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより,地域の活性化を図ることを目的としています。」とあります。(文化庁「日本遺産(Japan Heritage)」について)
2020年に開催予定のオリンピック・パラリンピックに向け、訪日外国人旅行者数が増加しつづけることが見込まれるので、日本全国に旅行者を導いて、地域の活性化に結びつけたいという目的のようです。だから一カ所に集中させず、全国にちらばるような形で観光地を作りたいということなのでしょう。
リピーターにとっては、次の観光地が欲しいのです。あまりまだ知られていないところ。しかも、「ストーリー(物語)」があるところ。
文化庁では、日本遺産を2020年までに100件程度認定していく予定だそうですが、第1弾には18件、そして今回は17件が選ばれています。
外国人がそのストーリーに興味を持ってくれるか、というところがカギになるかもしれません。意外なものがうけたりします。外国人の意見も参考にしたほうがいいかもしれません。
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東京都亀戸天神は、今、「藤まつり」の最中で、藤の花が見ごろです。藤棚と東京スカイツリーを同時に見れる橋の上は、大混雑です。
拝殿の右側へ進むと、御嶽神社がありますが、そのわきのところに目的の「おいぬさま」像が鎮座していました。
塩がかけられています。足元にも塩がたまっていました。言い伝えによると、この塩を擦り込むと、祈願が成就するらしい。
ただ、この像自体の由来ははっきりしていないようです。「おいぬさま」と聞かないと、形も崩れていてよくわからない石像です。
御嶽神社があるので、もしかしたら、その「おいぬさま」だった可能性はあるかも?と期待しましたが、残念ながら違うようです。大宰府御嶽山より勧請され、「亀戸妙義社」と呼ばれていました。
太皷打ち、富田和明さんが主宰する太鼓アイランド20周年記念『打っ手歓暦2017』公演が昨日行われました。
会場は、東京都江東区のパルシティ江東レクホール。一段高くなった舞台ではなく、お客さんと同じ床での演奏なので、より親近感がわき、とても暖かい雰囲気の公演となりました。
富田さんの思いがこちらのブログ「打っ手歓暦2017終わりました!」に書いてあります。
富田さんも歓暦(還暦)を迎えました。と、思ったら、なんと、これから『浜から島へ~富田歓暦歩き打ち2017』と銘打って、東京から自身の故郷、淡路島まで約635kmを歩くそうです。
富田さんは18歳の時、1975年4月、淡路島から横浜に上京してきましたが、太皷芸能生活40周年を記念して、その路を辿って還る、歩き打ちです。
5月21日には、成田山深川不動堂で、朝9時からの護摩祈祷を受けたあとに出発します。
深川不動堂(地下鉄 門前仲町駅から徒歩5分)は、富田さんが長くお世話になっているお寺で、1日5回お護摩祈祷のときに打ち鳴らされる太鼓と読経は圧巻だそうです。時間のある方は、お見送りしたらいかがでしょうか。
そして静岡、名古屋、京都、明石を経由して、6月18日には、淡路島洲本市市民交流センター『ビバホール』で、淡路打ち上げコンサートが行われます。
自分の二本の足で、大地を打ちながらの歩きだそうで、大地はどんな響きかたで富田さんに答えてくれるのでしょうか。
以前、俺も旅は、白いキャンバスの上に軌跡を描く絵画(アート)のような感覚だと書きましたが、富田さんの場合、絵画という視覚芸術というよりは、二本の足で大地を響かせる音の芸術作品と言ってもいいかもしれません。そこはやはり長年太鼓打ちとして生きてきた富田さんの真骨頂といっていいのだと思います。
それにしても、このバイタリティには頭が下がる思いです。
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