【犬狼物語 其の二百三】 山形県鶴岡市 忠犬ハチ公像の石膏試作品が鶴岡市に来た奇跡話
渋谷の忠犬ハチ公を有名にしたのは、斎藤弘吉さんでした。斎藤さんが昭和7年10月4日、東京朝日新聞に寄稿した「いとしや老犬物語、今は世になき主人の帰りを待ちかねる7年間」という記事が反響を呼び、無名の犬は、一躍有名犬になり銅像にまでなったのでした。
そして、この斎藤さんの故郷が山形県鶴岡市なのです。
明治32年生まれの斎藤さんは東京美術学校(現東京芸術大学)に進学しました。昭和3年、日本犬が絶滅の危機にあることを知って日本犬保存会を創立、昭和23年には日本動物愛護協会を設立し理事長として活躍しました。
現在鶴岡市のJR鶴岡駅の構内に忠犬ハチ公の石膏像と、藤島城址そばの藤島ふれあい広場には、忠犬ハチ公像が置かれています。
なぜでしょうか?
普通に考えれば、「忠犬ハチ公を有名にした斎藤さんの故郷だから」とj答えるのは自然のことでしょう。俺もそうだと思っていました。
ところが、答えはブブーッです。違っていました。
これがまったく不思議な話なのです。偶然が偶然を引き寄せ、斎藤さんと忠犬ハチ公の石膏像が奇跡的に鶴岡市で出会うことになったのです。
「奇跡的に」と書きましたが、すべては偶然です。でも、この偶然に意味を見出し、そして面白いと思った人物がいます。その人物が「奇跡」を生み出したと言ってもいいのかもしれません。
この奇跡に気が付いた人物は、市内で薬屋を営む薬剤師 高宮宏さんです。高宮さんを訪ね、石膏像が鶴岡にやってきた経緯を伺いました。
話は敗戦直後にさかのぼります。
渋谷駅前の忠犬ハチ公像は、戦時中金属供出されたので、今あるのは2代目です。1代目を造ったのは安藤照さん。そしてその息子である安藤士さんが今の2代目を造ることになりました。
士さんの自宅は空襲で焼失したので、被害を免れた別の家を借りて造ったのが試作品の石膏像です。1947年(昭和22年)のことです。
でも、士さんは気に入らなかったので、それはそのままにして、再建された自宅アトリエで、少し大きめの次の試作品を造りました。これが現在の渋谷の像の元になりました。
その後、この借家を買ったのが女優 三條美紀(本名 佐藤幹子)さんです。残されていた家財道具の中にこの試作品の石膏像もありました。
石膏像はそのまましばらく三條美紀さんの家に置いてありましたが、東栄村(藤島町を経た後に鶴岡市)出身の、俳優で大映の部長も務めた彼女のお父さん、佐藤圓治さんがこれを譲り受け、今度は彼の同級生であった湯野浜の佐藤新五郎さんが譲り受け、冨士屋旅館のマスコットとして大切にされました。
そして20数年、月日は流れ、冨士屋旅館が廃業することになりました。藤島町に住んでいた土建会社の会長 太田角之助さんには骨董趣味があり、廃業した冨士屋旅館からこの石膏像を譲り受けました。
太田さんが保管していましたが、1985年(昭和60年)、藤島町役場竣工記念として、太田さんはこれを町に寄贈したのでした。なので、しばらく藤島町役場庁舎に展示されていました。
2005年10月1日に、合併によって藤島町は鶴岡市になりました。このことも大きな偶然と言えるでしょう。合併がなかったら、「鶴岡市」ではありませんでした。
像の台座に「士1947」と刻んであるのに気付いた高宮宏さん。「これは忠犬ハチ公の試作品ではないか」と思い、実際、安藤士さんにも連絡し確認したところ、士さんが造った石膏像であることがわかったということです。
2006年(平成18年)11月3日には、「鶴岡ハチ公像保存会」が設立されました。初代会長が高宮さんです。
藤島ふれあい広場の忠犬ハチ公像の除幕式には、作者の安藤士さんも招待されて出席したそうです。
このようにして石膏像が鶴岡市にやってきた、という話です。偶然て、面白いですね。
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