【犬狼物語 其の二百二十三】 神奈川県箱根町 駒形神社の犬塚明神
駒ヶ岳の地主神 駒形大神を祀る古社である駒形神社は、箱根町の芦ノ湖南岸に鎮座する。
神社境内を進むと、拝殿の手前、右側に犬塚明神の祠がある。祠には新しい犬像もあるが、祠の横に、見るからに古い犬像が置かれている。左の像は形がよく残っていて目らしい彫も見える。一方の右の像は、頭が無くなっている。
向かいに休憩所があり、中に入るとおばあさんが番をしていた。
「どうぞ当たってください」と言ってストーブを指さした。訪ねたのは1月中旬で寒かったが、
「正月はあまり雪はないですが、2月、3月には雪が積もります。箱根の冬本番はこれからです」
と言って、お茶とあんこの入ったまんじゅうを出してくれた。
壊れた犬像について尋ねると、大正12年、昭和5年に、ここで大地震があったので、そのとき壊れたのでは?という。大正12年(1923年)は関東地震、昭和5年(1930年)は北伊豆地震のことだ。
おばあさんは神社の氏子で、参拝客に御朱印を出したり、お茶を出したり、管理人のようなことをしている。
駒形神社の御朱印を頂戴した。そこへ氏子たちが何か会議でもするのかぞくぞくと集まってきて、その中のひとりが以前役場に勤めていたらしく、犬塚明神について知りたいなら資料館で聞けばいいということで、電話してくれた。電話を替わってもらって、詳しい話を聞きたいと伝えると、こちらには資料もあるので、寄ってくださいという。
箱根新道を30分ほど車で走り役場の向かい側の資料館を訪ねた。職員の方が資料を示しながら解説してくれた。
この犬塚明神についての伝承は、次のようなものだ。
『新編相模国風土記稿 第二巻』 (昭和55年2月5日、雄山閣)の記事を現代語訳で要約したものが、田代道弥著『あるく見る 箱根八里』(1991年3月31日、神奈川新聞社)に載っているので、その本から引用する。
「犬塚明神社。芦川町民家の北背に小祠があって、そこの巨石の下に石棺があったという。箱根宿を開設した頃、この地には狼が多く人々を悩ました。そこで相談の上役人に陳情したところ唐犬二頭が渡された。二匹の犬はよく狼と戦いこれを喰い殺したが、ついにこの犬も斃れた。人々は哀れんでここに埋葬し、やがて神に祀ったという」
今でも、地名として「小田原町・三島町」が使われている。そして駒形神社(江戸時代は駒形権現社)があるところは「芦川町」といって、2町よりもっと古い歴史があるようだ。室町時代にさかのぼるかもしれないという。そういう記載が『新編相模国風土記稿』にも載っている。
職員によると、犬塚明神についての資料は、これだけとのこと。だから古い犬像がどういった由来のものかはまったくわからない。もしかしたら駒形神社の古い狛犬だったかもしれないし、どこかにあったものが移された可能性もあるとのこと。犬像と犬塚の伝承は別にして考えた方がいいのかもしれない。
箱根宿というのは、元和4年(1618)、行政的に小田原と三島からそれぞれ50戸づつ移住させて宿場を作ったのだという。峠越えをするに便利なように意図的に作られた宿場だったとは驚きだが、犬塚明神の話はその時期のことらしい。いかにも山の峠の伝承らしい。全国的にも「峠」には「狼(山犬)」がつきもなのだ。
唐犬とは洋犬のことで、狼に対抗するには、大型の洋犬がふさわしかったのだろう。人のために戦ってくれた犬たちに対する感謝と慰霊のために犬塚明神に祀ったという箱根宿の人たちの気持ち。どれだけ苦労して山の上に町を作ったかが偲ばれる。
旧東海道は、箱根の関所跡から駒形神社へと続いているが、神社を過ぎると100mほどで上り坂になっている。この「向坂」、「赤石坂」など、「箱根旧街道」として国指定史跡に指定されている。江戸時代前期、街道整備の一環として敷き詰められた石畳が今でもよく残っている。芦川の石仏群などもあって、歴史を感じさせるところだ。摩耗した石畳が続いている先は、道の駅 箱根峠の南側、国道1号線に出るようになっている。
にほんブログ
| 固定リンク
コメント