【犬狼物語 其の二百二十七】 神奈川県南足柄市 大松寺の「老犬多摩の墓」
神奈川県南足柄市の西側に位置する大雄山最乗寺は600年以上の歴史を持つ関東でも有数の修験道の霊場だ。創建に貢献した道了という修験道の行者が、寺の完成と同時に天狗になり身を山中に隠したと伝えられることから、道了尊とも呼ばれる。
その道了尊仁王門から南へ100mほどの高台から市内を見渡すことができた。朝靄がうっすらと市街地を覆っていた。
境内に「老犬多摩の墓」がある大松寺はこの市街地の中だ。多摩の話にはこの大雄山が関係している。
大松寺の山門を入ると正面に本堂が構え、左側に古い碑や墓石が置かれている。その一角に多摩の墓があった。風雪にさらされた墓石には「信忠玉犬」という戒名が記されている。傍らには墓を見守るように可愛らしい小さい犬の像がお座りしている。住職によると、多摩がどんな犬種だったかもわかっていないので、あくまでもこれは多摩のイメージ像とのこと。
タウンニュース(2011年12月17日号)には、長年の風雪のために由来がわからなくなっていた大松寺の石碑の漢文を地元の郷土史研究グループ・足柄史談会の調査で明らかになったと、ニュースになっている。
きっかけは、足柄史談会が市民文化祭に参加した『文化財展』で、この石碑のレプリカを展示することになった。そのとき、石碑の文字を解読して内容がわかったという。
その内容に、忠犬ハチ公以前の明治時代にも、こんな名犬がいたんだなぁと驚いたそうだ。
墓石正面の文字は「老犬多摩墓 如是畜生歸依三寳 發菩提心」と刻まれている。
「是れ畜生の三寳に歸依し菩提心を発するが如し(これは本当に畜生が仏の教えを信じ、仏の道を求める心を持ったと云える)」とあり、裏面には犬の略歴が彫られていた。
墓の左隣には、略歴の要約された解説文の碑が置かれている。ここから引用すると、
武蔵野国多摩郡北見方村の長崎七郎が明治11年富士山に登った。帰路犬をつれ大雄山に詣ったが犬は数十里歩き、足の疲労で主人と返れず、大雄山に預かってもらい、寺の衆がよく世話をし数日で家に帰った。
後日、主人が大雄山に詣り犬への恩情に感謝した。この際、犬が大雄山の内外をよく警備したことを話された住職の畔上禅師は、そのめずらしさと偉さを讃え、犬に子供があればもらい受け飼いたいと申し出た。
後に主人は、明治12年3月、一匹の子犬を大雄山に渡した。寺の衆は子犬を可愛がり育てた。同年12月子犬が大松寺へ行き、日夜寺の内外を警備、本当にすばらしい信頼と忠誠である。
しかし、明治21年11月病魔に犯された。犬の信忠に応えて診察し薬を与えても効果なく、明治21年11月25日に亡くなった。アア悲しいかな。犬の命が絶えた時、一人の僧侶茂野が立ち寄り、犬のために戒名を授けた。この犬の信忠のすばらしさを思い石碑を建て、犬の後生の幸せを祈るものである。
当時「三山参り」というのがあり、富士山、大雄山、大山を巡っていたという。富士山から大雄山に参詣したというのはそのことらしい。冒頭で紹介した大雄山最乗寺が、長崎七郎の犬が疲労回復のため数日過ごしたところだ。
大山も霊山として古くから人々の信仰を集めてきたが、江戸期には大山詣りが盛んだった。大山と富士山の御祭神は、父娘の関係にあたるため、大山に登らば富士山に登れ、富士山に登らば大山に登れと言われていたそうだ。
また記事によると、大雄山の寺の衆の中でも特に子犬を可愛がったのは橘和尚だった。大松寺は橘和尚の自宅だったので、多摩の晩年はここで過ごし、橘和尚の身辺を警護し名犬ぶりを発揮したが、和尚が亡くなった直後に多摩の命も絶えたという。
墓石の裏面の最後にはこのように刻まれている。
「獣歟非獣 人歟非人 信忠勝人」
獣は獣なんだが獣ではない時がある。
人は人なんだが人でない時もある。
その(犬の)信頼と忠誠の心は人に勝っている。
犬に対する思いは、昔の人も同じようで、犬といっしょに暮していると、つい、「獣は獣なんだが獣ではない時がある」というのを実感するときがある。
忠犬ハチ公のような派手さはないし、橘和尚も後世の人に伝えたいという強い意志があったわけでもなさそうで、ただ、自分の愛犬だから丁寧に弔ったという自然さに好感が持てる話だ。
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