



有田川に架かる明恵大橋の欄干の両端には、像が据えられている。明恵上人の座像と、向かい合っているのは、明恵上人の愛犬がモデルとされる犬像だ。
この犬像は、京都の高山寺にある木彫の子犬の像を模したもの。明恵上人はこの像を座右に置いて時々撫でていたのかもしれない。垂れた耳で、少し体を傾けてちょこんと座っている姿がとても愛らしい。
志賀直哉も、そばにおいて可愛がりたいくらい優れた作品だと語ったそうだ。運慶の長男・湛慶の作ではないかと伝わっている。
しかし、外に飾ってある犬像全般に言えるが、鳥の止まり木に利用されることも多く、この明恵大橋の犬像にも鳥の糞が付いて涙のように見えたので、まず、雑巾で拭いてからの撮影になった。
明恵上人について、個人的には生涯夢日記をつけていたお坊さん、ということで興味をもっていた。
明恵上人は19歳から、死ぬ一年前の59歳まで夢を記録し続け『夢記(ゆめのき)』を書いた。
明恵上人には、動物を慈しんだというエピソードも数多い。『夢記』には、自然や動物などが多く登場する。その中でも犬は頻度が高いそうだ。また、伝記によると、子犬を不用意にまたいでしまった後、もしかしたら亡くなった父や母ではないかと思い、引き返して子犬を拝んだという逸話も残っている。
明恵は有田川町で承安3年(1173)に生まれた華厳宗に属する僧侶だ。8歳の時、両親と死別し、16歳で僧侶になり、世俗化した仏教を避けて、山に引きこもりひとりで暮らした。34歳の時、後鳥羽上皇から高山寺を賜ることになった。
明恵は,一途なあまり狼に食われて死のうとしたり、耳を切ってしまったり,テレパシー(透視)が使えるようになったりと,一言で言えばかなり変わったお坊さんだったようだ。確かに「宗教家というより芸術家」という印象も受ける。
明恵が説く「あるべきようわ」は、『明恵上人』の著者・白洲正子氏は「それぞれの天性を知り、その天性に忠実であるべきだ、それが生きることである」と解釈している。現代風に言えば、自己発見だったのでは、という。
夢を重要視した心理学者ユングも、フロイトとの決別の後、6年間、方向喪失の時期があり、この間自分の夢を記録しイメージを絵に残している。偶然にも自分が描いた幾何学模様が、チベット密教の曼荼羅と似ていたということも知る。
ただ、ユングの方向喪失時代は、心理的な危機でもあったが、同時に、「創造の病」と呼ばれるような、次の段階に成長する時期でもあったのだ。まさに夢を使って自己発見した明恵と共通するものがあるのではないだろうか。
昔、夢は「神様のお告げ」だと思われていた。『日本書紀』にも、天皇が後継者を決めるために、息子である兄弟の見た夢によって判断したことが記されている。長谷寺や清水寺などでは、人は篭って夢のお告げを待って病を治療していた。
「なんて非科学的な」と思われるかもしれないが、夢(無意識)と現実を切り離すことなく、自然に生きていたことが感じられる。
白洲氏は、明恵の夢は「信仰を深めるための原動力であって、夢と日常の生活が、不思議な形で交じり合い、絡まり合っていく様は、複雑な唐草文様でも見るようです」と書いている。
明恵は黒い犬の夢を見ている。一匹の黒い犬が足にまとわりついてきたときに、明恵は「この犬を年来飼っていたのだ」と思う夢だ。
子犬の像がこの夢と関係あるのかわからないが、子犬には固有の名前がないようだ。これは明恵が夢や現実で愛した犬(動物)全般のイメージであるのかもしれない。

にほんブログ村
最近のコメント