「国」というものの不思議
先日の金正恩が韓国に歩いて入った歴史的瞬間は、ある意味感動的でした。
もちろん感動的というのは、歴史の転換点を生で見ているという自分に対する感動です。
一歩引いてみれば、この金正恩なる人物は、自分の兄を殺し、側近を殺している(かもしれない)男なのです。そういう人物と、にこやかに握手をし、抱擁をする韓国大統領の図は、おぞましい地獄絵を見るような気もします。
でも、そういう殺人者かもしれない黒い部分は、「国」というものが薄衣のように黒さを覆い隠してしまいます。
それと同時に、今まで悪の権現と目されていた人物が、その反動を利用して、一転「いい人間」にさえ見せる、心理学的な巧みさが光ります。そういう意味では、金正恩というのは、かなり頭のいい人物なのでしょう。
とにかく、不思議なのはこの「国」という仕掛けなのです。戦争で人を殺すこともそうですが、「国」」という仕掛けに頼れば、なんでもできてしまうのです。殺人も許されてしまうようです。
そう考えると、人間の倫理観というのは、どこに足場を置くかで変わってくるということなのでしょう。そこがひっかかります。
個人の殺人は「悪」でも、「国」の殺人は、必ずしも「悪」ではない。そんなことは百も承知なのが政治家というものなのでしょうが。
殺人の罪悪感を薄めてくれる、あるいは、無くしてくれる装置が、「国」というものであるらしいのです。
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