日本の死刑制度と杉田水脈議員の「生産性」発言
(フランク・パブロフ著『茶色の朝』。20年前西ヨーロッパ全体に広がっていた極右運動への危機意識から書かれた物語)
最近のニュースから、2つについて。
駐日欧州連合(EU)代表部およびEU加盟国の駐日大使ならびにアイスランド、ノルウェー、スイスの駐日大使が、「日本で死刑が執行されたことを受けた、現地共同声明」を出しました。
https://eeas.europa.eu/delegations/japan/48869/node/48869_ja
確かにこの声明にあるように「死刑は残忍で冷酷」かもしれないですが、日本人が感じる死刑というものとは、なんとなく違う感覚を覚えます。
その違和感は何なのか。
「切腹」などのように(腹を割って身の潔白を示すという意味もあるでしょうが)、失敗や罪を死をもって償う(償わなければならない)というメンタリティが、死刑制度の廃止に後ろ向きな日本人が多い理由ではないのかとも思うのです。
ヨーロッパ人が主張する「死刑は残忍で冷酷」というのは、執行する側から見た感覚なのではないでしょうか。日本人は(少なくとも俺は)、死刑制度を、犯罪を犯した犯人側から見ているところがあります。それだけのことをしたんだから、死をもって償わなくてはならない、ということです。それが残忍に見えようが、冷酷に見えようが、関係ないのです。
それと、突っ込みを入れてしまいたくなりますが、ヨーロッパでテロが起こった時、テロリストと銃撃戦になってテロリストをその場で殺してしまうのは「残忍で冷酷」ではないのか?という疑問がわきます。「絶対生きたまま捕らえて裁判にかける」という意思は感じません。テロリストはその場で殺されてもかまわないという感じです。
こんなことと比べるのも不謹慎かもしれないですが、「エビを生きたまま熱湯で茹でるのは残酷だ」というのと、似た匂いを感じます。これも食べる人間側からの見方です。
ただ、冤罪には注意しないといけないとは思います。少なくとも「犯人の確実な自白」は必要かなと。
余談ですが、クリント・イーストウッドが製作・監督・主演した『トゥルー・クライム』という映画がありました。死刑執行直前、最後のインタビュー取材を行ったジャーナリストが、死刑囚が無実であることを確信し、奔走するという話です。この死刑囚も死刑になることはあきらめてはいても、最後まで無実を訴えていました。、
それと、今回のオウム死刑囚の大量同時死刑執行には、なんとなく国家というものの怖さを感じます。見せしめですかね。これは死刑制度とは別の問題ですが。
国家を守るため、国家存続に障害になる「毒」は徹底的に排除する。根絶やしにするというような怖さです。
国家に「毒」と思われたら、俺も排除されかねません。
実際、杉田水脈議員のLGTBに関する発言にもあるように、俺たちには子供もないし、ただ旅をして、写真を撮っているだけで、「生産性」はないので。杉田水脈議員の理想とする国にはあまり必要ない人間でしょうね。
なんだか最近の日本はナチスと似てきたのでは?
ナチスによるホロコースト(大量虐殺)は、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)、同性愛者、精神・身体障害者、重病者、反ナチス派など約500万人もの人間がターゲットになりました。(大山泰宏著『人格心理学』参照)
これは何度も書いてきたことですが、ナチズムはこのホロコーストで批判されますが、ナチズムは、ある意味人間の理想形を求める思想でもあったのです。
タバコやアルコールの害について啓蒙し、健康増進運動を展開、菜食主義や自然に親しむこと、子供を母乳で育てることの勧めなど、これだけ聞けば、なんて理想的な社会を目指しているんだろうと思ってしまいます。でも、それとセットになっているのが理想形から外れたものの排除です。
つまり杉田水脈議員の「生産性」発言は、まさにこの思想と同一線上にあるものではないでしょうか。しかも今の自民党の一部には、彼女の発言を容認するような雰囲気があるということでしょうね。二階幹事長の「いろんな考えがありますから」で済まされたら、なんでもいいということになってしまいます。
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