【犬狼物語 其の二百八十八】 鳥取県鳥取市 国分寺の犬塚と浜坂犬塚
鳥取市の国分寺の犬塚についてはネットで知りました。犬像の情報はありませんでしたが、せっかく近くを通るので軽い気持ちで訪ねたのでした。
ここには奈良・平安時代に因幡国を治めていた役所の跡、因幡国庁跡(国指定史跡)があります。東西150m、南北200mの規模で、正殿跡なども発見されています。
ところで、肝心の犬塚の場所がわからず、近くの因幡万葉歴史館を訪ねたところ、学芸員の方から詳しい情報を得ることができました。
俺が犬像にこだわって訪ねていることを話すと、「犬の像ならここにあります」という。なんと資料館の庭園に、この伝承をモチーフにした石像があったのです。がぜん興味がわきました。
犬像は、伝承を多くの人に知ってもらうために1994年の開館に合わせて制作されたもの。子連れの犬像になっていますが、伝承には「母犬」や「子連れ」としたものはないので、アレンジした姿のようです。
因幡国庁跡の南数百メートルのところに犬塚の石碑はありました。横に立っている解説看板によると、これは哀れな犬の伝承でした。解説文を要約すると、
奈良時代に、因幡国の国分寺と国分尼寺の両寺にどちらにともなく飼われていた一匹の犬がいて、朝晩の食事どきに鳴らす鐘の早い方へ行っては残りものの飯を食べていた。
ある時、両寺の坊さんと尼さんが示し合わせて同時に鐘を鳴らしたところ、犬は国分寺に行こうか、尼寺に行こうか迷って、ついに両寺の中間で倒れて死んでしまった。哀れに想った坊さんや尼さんたちは、塚を造って犬を葬ってやったそうである。
その後、塚は荒れて弔う人もなくなってしまった。江戸時代になって法花寺の大庄屋福田彦左衛門が再び塚を造り、「犬塚」という石碑を建てて供養した。
国分寺と法花寺(国分尼寺)は、直線距離で600mくらい離れていて、犬塚はこの国分寺と法花寺の中間に位置しています。
犬は困ったのでしょうか? 両方に可愛がられていて、どちらかを選べず、ついに倒れてしまったというのです。
このあたりの犬の苦悩(?)について、1795年(寛政7年)の『因幡史』には「中途彼方此方と往返して狂い悶へけるにや遂に死しけるに」とあります。
ほかにも一カ所、犬塚を教えてもらって訪ねました。鳥取市内の犬橋のたもとに「浜坂犬塚」という石碑がありました。解説文を要約すると、
昔、浜坂の農民が旅人の難儀を見かねて、一本橋を大きな橋にかけ替えたいと考えた。そこで、橋建設の勧募趣意書の木札と竹筒を自分の飼犬の首につけて放した。旅人や村人が竹筒に銭をいれ、こうして集まった募金で新しい橋が建設され、旅人の難儀を救ったという。
この犬が死ぬと村人は、橋の近くに墓を造り犬塚として祀り、また、この橋を「犬橋」と呼びようになったという。
この話を聞いて、タイの首都バンコクでのことを思い出しました。今から20年以上前のことですが、繁華街の歩道橋に物乞いの犬がいたのです。隣には人間の物乞い(もしかしたら飼い主か?)もいたのに、通行人は、お金を入れてもらうカップを前に、お座りしている犬の物乞いの方にお金を入れていました。正直言うと、俺もついお金を入れてしまった口です。
もちろん、犬はうなだれるような恰好でお座りすることを教えられていて、カップのお金も結局は人間の手に渡ることはわかってはいても、犬の物乞いという意表を突く手法に通行人はみんな乗せられていたのでした。
『因幡史』にも「行人之を奇とし人々一文銭を彼の筒中に投せしに」とあります。やはり珍しくてついお金を出したのは、昔の人々も同じだったようです。
犬の物乞いは良い例ではないかもしれませんが、人間がやるよりも犬がやることで、自然と物事が進んでいくような魅力がやはり犬という動物にはあるようです。
一方で、国分寺の犬の例もそうですが、犬は人の命令に従順なところがあり、そこを、良いようにも悪いようにも、人間が利用してしまうという面もあるということでしょう。
救われるのは、伝承の坊さんや尼さんたちは、そのことを反省して犬を丁寧に葬っていることではないでしょうか。
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