『水を掬う』で、松田くんとふたりのギャラリートーク
昨日は『水を掬う』の会場で、松田くんと俺で、ギャラリートークを行いました。
お越し下さった方々(遠くは埼玉県からも)にはお礼を申し上げます。
メコンの源流から河口までの水や、棚田の水の循環は、松田くんのテーマ「浮遊する水」と共通したものです。
それと、松田くんが話したのは、日本の美と西洋の美の違いで、西洋の美はシンメトリーをもって表現しますが、日本の美は不完全の美であること。
それで思い出した話は、ある小僧さんが、高僧から庭の掃除を命じられたので、落ち葉をすべてきれいに掃いたら、褒められるどころか渋い顔をされた。そこで、木の枝を揺らせて葉っぱを少し散らせたら、満足されたという話をしました。
また、西洋の科学的合理主義の下、夜の暗闇を無くし、曖昧さを無くし、白か黒に区切りをつけ、すべて白日の下にさらそうとしてきましたが、でも、それは限界であることも。
一方、古来から日本の美意識は、闇の世界をめでることにあること。闇の世界は、曖昧模糊としたもので、科学的には割り切れない部分を持っています。闇の世界は、無意識が活性化する世界でもあるのです。
「闇=無意識=異界」については、最近取材中の「狼信仰」が関わってくるのですが、「話は長くなるので」と言って、割愛しました。
松田くんの壁に架けた作品にはところどころ穴が開いています。この説明を聞くまで、正直、俺は気が付きませんでした。
完成した後に、あえて壊す作業を行っているのです。最初、穴を開けるのは勇気がいることでしたと、松田くんは言いました。
裏にも色彩を施してあります。そして、その穴を通して裏の色彩が少し見えるのです。裏の世界、無意識の世界をのぞいています。表と裏の世界はこの穴でつながっています。意識と無意識、すべて包含したもの、それはすなわち「自己表現」などではなく、世界・宇宙の表現と言ってもいいでしょう。
暗闇の美について俺は、「田毎の月」の話をしました。写真では、月はひとつしか映りませんが、真夜中の田んぼを月明かりを頼りに、自分自身が歩き回ることや、時間の経過とともに、月が移動をし、結果、すべての田んぼに月が映りこむのです。そのイメージが、広重などの浮世絵に描かれた「田毎の月」です。
多方向の顔が1枚の絵に描かれるピカソの絵を「嘘だ」と言わないのと同じように、「田毎の月」の絵も、時間を考慮した多視点の絵であり、絵師にとっての内的な現実の表現なのです。そしてすべての田んぼには、それぞれの宇宙が表現されています。
最後に質問に答えて、自分にとっての「写真」について話しました。基本、俺は「媒介者=メディア」です。だから、いい被写体があれば、それを変なテクニックを労せずとも、いい写真になると思っています。
ただし問題があります。その「いい被写体」に出会うことは難しいのです。じっくり観察して、その被写体が、一番輝く瞬間を待っているのです。
それには村人といっしょに暮らすこともそうだし、夜の田んぼで1晩中待っているのも必要です。どんなものでも食べ、どこでも寝れることも大切です。そうやって探し出して、辛抱強く待って映した写真は、ただし「事実」しか映っていません。(キャプションを変えるだけで、写真の意味が変わってしまうことを考えてもらえばわかると思います。「真実」はまた別です)
それでは「真実」はどこにあるかというと、「写真(被写体)+俺自身」なのです。「あの青柳さん」がそれを撮ったことを担保に、「事実」は「真実」になる、と俺は信じています。だから、当然、俺が撮った写真は、「俺の真実」であり、松田くんが撮ったら「松田くんの真実」です。人それぞれの「真実」があります。だからこそそこに「個性」というものが出てきます。
と、いった話です。
松田くんとは表現が違っても、求める方向性がいっしょだなと、昨日話をして、ますます確信しました。また機会があれば「二人展」をやりたいと思います。
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