【犬狼物語 其の三百三十】埼玉県長瀞町 野上下郷の犬塚
情報では、「石上神社の犬塚」とあったので、長瀞町の石上神社へ行ってみましたが、それらしい塚が見当たりません。光玉稲荷神社の狛狐像はありましたが。
近所のお宅から人が出てきたので尋ねてみると、犬塚はここではなく、ちょっと離れたところにあるという。
犬塚は観光パンフにも載っているそうで、それなりに、大切にはされているようなのですが、「解説看板なども立っていないしね」とのこと。わかりにくい場所にあるようです。
県道に突き当たるちょっと手前というので行ってみると、碑が立っていて、これのことだろうか?と思って近づいてみると、「馬頭観音」の文字が。
道を行ったり来たりしていたら、奥の家から女の人が歩いてきました。ちょうどいい、道を聞こうと思ったら、たまたま通りかかったわけではなく、さっき犬塚を聞いた人から電話があって、そっちに犬塚を探しに行く人がいるからと連絡があったという。なんと! 俺を案内するために、わざわざ家から出てきたというのです。
犬塚は、馬頭観音とは関係なく、民家の庭を30mほど上がったところ、畑の横にありました。そもそも、ここの地名が「犬塚」という小字だそうです。
たまたまその家には草刈りに来ていた男の人がいましたが、その家の息子さんだったらしい。もうここには誰も住んでいません。ときどき息子さんがこうして草刈りなど、手入れをするために帰っているのだそうです。今日はたまたまその日でした。
犬塚の板碑には、このあたりで多く採れる青っぽい石を使っていて、屋根掛けされています。この石材は、三波川結晶片岩帯に分布する「緑泥石片岩」といいます。「青石塔婆」とも呼ばれるそうです。板状に剥離する性質があり、加工がしやすいので、板碑に多く使われてきました。
近くに採掘跡があります。県指定旧跡「板石塔婆石材採掘遺跡」です。
息子さんによると、昔は文字も見えたそうですが、年々板碑は細ってきて、今はわからなくなっています。梵字が書いてあったらしいのです。
今でも12月のある日曜日に、念仏をやっているそうです。この念仏については、栃原嗣雄著『秩父の民俗: 山里の祭りと暮らし』に載っていました。
「犬塚耕地では毎年旧十月戌の日に、犬神様の念仏が行われている。
この犬神様は、鉢形城の軍用犬で、天正十八年鉢形落城と共に、主を失った犬は秩父方面の出城である天神山城、竜ヶ谷城、根古屋城、日尾城、高松城等を巡り歩いていたが、ついに力尽きて杉郷地内のシケンブチ(四犬淵)で水死したという。その犬を祀ったものが犬神さまと伝えている。
その犬の供養のため念仏講がつくられている。宿は回り番で小字のイノズカ、カラサワの十六軒もち回りである。米五合と小豆一合を出しあい宿番の家でボタモチをつくって出す(昭和四十五年からパック入りのスシ)
午後六時ごろから集まり、お日待ちをして念仏になるが、前の方に八匹の犬(オス五匹、メス三匹)が描かれた掛軸をつるし、お燈明を上げ、線香を立て、鉦たたきがその前に座って先導する。まず「犬の念仏」と称して、八匹の犬の名を唱えながら、八回くり返す。
オーゴー オーレイ ナムアミダ
ユウズマ フクズマ ナムアミダ
ツーツキ ツマブキ ナムアミダ
チユーヤ マンプク ナムアミダ
(略)
犬たちは、大切な文書を首にさげて走り回る伝令の仕事をし、「天正十八年鉢形落城」とは、豊臣秀吉軍の攻撃によるものだったらしい。当時北武蔵一帯を支配していたのは鉢形城の城主だった北条氏邦。氏邦は、約3500の兵で城を固めました。中山道を南下した前田利家、上杉景勝らの軍勢5万人と激しい攻防を1か月続けたましたが、ついに城は落ちました。秩父の出城も運命を共にすることになりました。
こうして主を失った犬たちはさ迷い歩き、この地で死んでしまいます。それを憐れんだ大沢藤左が自分の所有地に犬神様として葬ったのが「犬塚」だという。それから念仏講が作られました。
また8匹のうち、死んだのはツーツキ、ツマブキ、ユウズマ、フクズマの4匹だったとのことです。
息子さんは、犬が描かれた掛軸があったはずだといい、家の中へ探しに入ってくれましたが、「ありませんね」という。「犬の名前も、変わった名前だったし、狼犬だったのかなぁ」とのこと。念仏の時に掛けた8匹の犬が描かれた掛軸だったのかもしれません。
12月の念仏は、毎年日が変わるそうですが、その時に掛け軸は見ることができるのではないでしょうか。
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