【犬狼物語 其の三百六十四】 新谷尚紀著『神々の原像 祭祀の小宇宙』のしっぺい太郎の話
新谷尚紀著の『歴史文化ライブラリー92 神々の原像 祭祀の小宇宙』(2000年 吉川弘文館)を読みました。
この中に「しっぺい太郎」の話が出てきます。しっぺい太郎は、静岡県磐田市で、今は「しっぺい」という名のゆるキャラとして活躍していますが、その元になった見附天神社に伝わる伝説の犬(狼)のことです。
【犬狼物語】でも何度か紹介しています。
人身御供で差し出される村の娘の身代わりになって、怪物と戦って死んでしまいます。同じような伝説は全国各地にあって、犬の名前が違ったり、登場人物が違ったりしますが、物語の基本形は、このようになります。
娘ー旅人ー借りてきた犬ー怪物(狒々や猿など)
見附天神社のしっぺい太郎は、長野県駒ヶ根市の光前寺から借りてきたという犬で、一方の光前寺の伝説では、犬の名前が「早太郎」になっています。とにかく、借りてきた犬でなければなりません。
しかも、これ「犬」とは言っているんですが、ものによっては「山犬」であったり「狼犬」であったり「狼」であったりします。このあたりはあいまいです。ただ、何度も書いているように、日本の場合「犬」と「狼」は区別するのが難しく(時には狐とも混同があって)、現実にも山に棲むニホンオオカミと狼犬や野犬や家犬との区別は難しかったようっだし、ましてや伝説に登場する犬と狼が、きちんと描き分けられていることはないようです。
「この人身御供の伝説は、この見附天神社に限らず日本の各地に伝えられており、たしかに大林の指摘するとおり、年老いた猿や狒々、古狸などはいずれも山という自然と野生の世界の脅威を象徴的に表現したものと考えられる。そして、それを退治して人間の文化の領域が拡大されていく構図が描かれているといってよい。」とあります。
じゃぁ、なんでここに犬(狼)が登場するのでしょうか?
新谷さんはこう書いています。「その背後には、「自然・野生」と「人間・文化」という二項対立の世界観が存在し、娘と犬とにはその両者の境界を再確認する媒介項としての共通点があるということがわかる。」
「人身御供の物語に登場する犬について、それらが普通の犬ではなく、特別に大きな白い犬であったり、中には山犬であるとか狼であるとしている例があることに注意する必要がある。」
「大きな白い山犬」と聞くと、すぐ『もののけ姫』の白くて大きな三百歳の犬神、モロの君を思い出してしまいます。宮崎駿監督は、このしっぺい太郎の話を知っていたのでしょうが、モロの君と彼女に育てられた人間のサンは、ともに「自然・野生」と「人間・文化」との媒介者・仲介者でもあったようです。
『全国の犬像をめぐる――忠犬物語45話』では、京都府与謝野町に鎮座する大虫神社に伝わる「麻呂子親王の鬼退治と白犬」に因んで奉納された2対の犬像を取り上げました。この伝説の犬(山犬)については、「自然と人間との橋渡しをする」と書きました。
「犬(山犬)は昔から人間にとっては身近な野生であり、自然への案内人の役を担ってきたということでもあるのだろう」
このときはヴィーノと暮らしてきた体験から感じていたのでそう書いたのですが、『神々の原像』を読んで、あらためて、そうだよなぁと納得できました。
「日本の狼や山犬に対する霊獣観念は欧米の狼に対する害獣観念とは大きく異なり、「自然・野生」の領域と「人間・文化」の領域との間で人間と相互に接近しあう動物としてのイメージがある。そのような狼や山犬のイメージを基盤とする犬へのイメージにより、この人身御供の怪物退治の物語における主役の座が山犬や犬に与えられてきたものと解釈できるであろう」
このあたり、狼に対するイメージは、西洋とは違っていました。家畜を殺される西洋で、狼は「敵」でしかありません。でも、日本では、馬産地を除いて、狼は農作物をシカやイノシシから守ってくれる益獣だったのです。しかも、「送り狼」などでも語られているように、狼は特別の理由がない限り人間を襲うことはなく、むしろ「後ろから付いてきて、守ってくれる」というイメージさえありました。狼はだから、「自然・野生」でありながら、ある時は「人間・文化」に近い存在というふうに言えます。少なくとも「敵」ではありませんでした。
そしてもうひとつ、犬や狼が、安産のシンボルにもなっている点にも触れています。
「犬が女性の営為を守るという民俗の伝承の背景には、ここで確認してきた人身御供の物語における犬と安産祈願の犬との両方に通底する「自然・野生」と「人間・文化」の両界の媒介項としての犬と女性との共通性への観念が民俗の中に深く静かに伝えられてきているからではないかと考えられる。」といいます。
狼は神秘的です。たしかに自然を象徴する存在でもあります。ただ、「もういない」ということも関係あるのかなぁとも思っています。つまり、絶滅して、より「神」に近くなったというふうに感じるからです。
古来からの農事の神とし狼を崇めてきたのですが、明治になって、自然破壊が進むのと同時に、狼も居場所を無くして人間を襲うなど、「神(神使)」の座から「害獣」の座に引きずり降ろされた感があります。だから躊躇なく殺すこともできた、のではないのかと。
それがもう絶滅したとなれば、もう人間に害を及ぼすことは100パーセントないので、再び神の座に戻ったのではないかなどと考えるのです。
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