「何ちんたらやっているんだ!」は、「時間」を信じて発する暴言
“時間”はあと50億年で終わる?
(http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20101029003&source=mm125d ナショナルジオグラフィック ニュースより)
読みましたが、よくわかりません。
と、いうか、そもそも時間というのはあるのかな?という疑問もあります。いや、時間はあるんでしょう。ただし、それを「単位」にしてしまったところに人間の不幸がうまれたのではないかとも思います。
どういうことかというと、例えば、無我夢中で何かに没頭して作業しているときは、時間があっという間に過ぎた感じがします。そうじゃなくて、イライラして人を待っているときなどは、時間が長く感じます。嫌な仕事をしているときも長く感じます。
実際、感覚としての時間と、物理世界の時間は、違うのではないか、ということなんです。それを一律に物理世界の時間を単位にしてしまったことで、人と比べることになってしまう。
同じ物理的時間内に、ある人は仕事が終わり、ある人は仕事の途中だとすると、「どうして遅いんだ? どうしてもっと速くできないんだ?」と怒られる。俺の体験ですが、昔、若いころ工場のラインに入って、ある製品の組み立てをしていたとき、どうも俺は仕事が遅いらしく、何度か注意されました。
でも、その時、意外な感じがしたのです。自分では速くやっているつもりだったからです。むしろ、速くやりすぎているのではないかとさえ感じていました。でも、俺の外側の世界は違いました。俺の仕事は遅いのでした。少し愕然としました。これ以上速くはやれないとも思い、絶望的な気持ちになりました。このとき、人とは時間感覚が違うんだなぁと思いました。
だから、物理的時間を単位としてやる仕事は俺にはむいていないとはっきりわかりました。人と協力してやるとか、人といっしょにやるには、どうしても物理的時間を単位として、合わせなければなりません。それが苦手なのです。
もちろん、だからと言って、物理的時間を否定するのではありません。それによって、俺も恩恵は受けているので。電車や飛行機の時間が、個人的感覚時間だけで運用されていたら(そんなことは不可能ですが)、大混乱です。
養老孟司先生は、こう言っていました。
「時間というものは、人間の脳にしか存在しないということです。つまり、時間は人間だけがもつ幻想である、ということになります。」(https://www.1101.com/yoro_ikegaya/2019-05-13.html)
と、いうことは、「幻想」を「単位」にしているわけですね。これはおかしな話です。俺は「物理的時間」なんて書きましたが、「幻想」だとすると、ほんとにそんなものあるのかな?という感じです。
人間どおしでさえこうなんだから、種が違えばもっと時間の感覚は違っているのでしょう。ある人がこんな言葉を言っていた気がします。「かたつむりは、自分では走っているつもりなのかもしれない」というのです。
たぶん、これは「かたつむり」ではなくて「高齢者」に置き換えてもいい。
「何ちんたらやっているんだよ!」と高齢者に対する暴言は、この「物理的時間」を信じている(当たり前だと思っている)から発する言葉でしょう。
人間の脳内にある「幻想」なら、人間が滅んだら、50億年も待たずに、時間は消滅してしまうのではないでしょうか?
はっきり言葉では表現できないんですが、「時間」を単位にするというのは、何か、大きな勘違いを犯しているような気がしてなりません。
俺が普通の人より遅いことに対する言い訳でもある、というのは自覚していますが。
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