【犬狼物語 其の三百九十~三百九十二】 埼玉県川越市 川越八幡内の三峰社&六塚稲荷神社内の三峰社&広済寺内の三峰社
以前、川越市の氷川神社内の三峯社について書いたことがありましたが、川越市内には、たくさんの三峯信仰の祠や三峯講があることがわかりました。
『埼玉民俗 第35号』(平成22年)に西村敏也氏の「川越の三峰講」が掲載されています。それを参考に書いてみます。
川越も大火を経験してきて、その結果として、今では観光客で大賑わいの「蔵造りの町並み」ができたと言ってもいいようです。
寛永15年(1638)には、町の約半分や、川越城、喜多院も焼き尽くしました。明治26年(1893)の大火では、全戸の3割が消失しました。この大火で焼け残ったのが土蔵でした。防火の観点からも、川越では土蔵建造が推し進められました。土蔵を倉庫ではなく、店舗そのものに利用しているのが川越の特徴で、明治時代末期には、現在のような「蔵造りの町並み」になっていたとのことです。
三峯信仰は、農村部では、害獣除けとして、また作神として信仰されましたが、都市部では、火災・盗難除けとして信仰されたという経緯があります。このようなことから想像すると、川越の街も、大火があったことが三峯信仰を広げた要因の一つであったかもしれません。江戸と同じように。
川越八幡神社内にも、境内社として三峯の祠がありました。社殿の左側です。隣には「目の神様」というのがあって、シュールな碑が建っています。
また、「川越の三峰講」には、喜多町、元町、幸町などの三峯講の事例も紹介されていて、川越の人たちはどのように三峯を信仰してきたのか、おぼろげながらその概観が見えてきます。
「蔵造りの町並み」の北側、喜多町の広済寺を訪ねました。境内には三峯の祠があります。
喜多町には自治会による三峯講があるそうです。広済寺には借地金を支払い、三峰の祠を置かせてもらっています。ただ管理などは喜多町自治会が行っているそうです。
祠には三峯神社のお札が納められています。これは「講社御中」とあったので、講としてもらい受けたお札のようです。
ちなみに、この祠の隣には、百日咳や風邪を治してくれる、ちょっと変わった荒縄で縛った石仏、咳地蔵尊(しわぶきさま)などが祀ってあります。
次に元町にも三峯講があります。いや「あった」といった方がいいでしょうか。
というのも、三峯代参講は60年ほど前までは機能していましたが、今はないそうです。たまたま六塚稲荷神社にいた地元の人にも確かめたところ、三峯講はもうないとのことでした。ただ、個人的に仲間とお札をもらいに行ってくるというのは続けられているようです。
お札は、六塚稲荷神社内の三峯社の祠に納められます。このお札は、「元町2丁目」としてもらい受けてきます。集団としての講はなくなっていますが、一軒の家によって、三峯信仰がかろうじて守られているのが現状です。
なお、幸町の講については、氏神である雪塚稲荷神社の氏子会が元になった「雪塚会」の管轄で、三社講と呼ばれる三峯・古峰・妙義の講が江戸時代から続いています。毎年、いずれかの1社に代参し、残りは郵便でお札をもらっているそうです。
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