最近のあおり運転報道で考えた、危ない正義感
最近、ドライブレコーダーで撮られた映像がニュースで流れますが、あおり運転して、最後に車から降りてくるシーンとセリフが全部似ていて、同じドライバーかと勘違いするくらいです。「オラーッ!」「降りてこい!」などなど。
それと、これって、わざと相手を怒らしているんじゃないか、といった動画もありますね。前後の経緯を見せずに、相手が車から降りてきて怒っているところだけを切り取って見せられたら、まるで「ひどい奴」に見えてしまうので。そこだけは事実ですが、全体の流れからは真実ではない、ということも十分にあり得ます。もちろん、常磐道であおり運転した宮崎文夫容疑者の動画のことを言っているのではなくて、その後、類似の動画を目にした時、違和感を覚えるものがあったので。たぶん、良く解釈すれば、これだけあおり運転が社会問題になっているんだから、あおり運転を無くす貢献をしようという正義感から動画を撮影するのかもしれません。
それにしても、宮崎文夫容疑者と犯人蔵匿・隠避容疑で逮捕された喜本奈津子容疑者の続報が続くのはどうしてでしょう? まぁ、殴ってる映像が衝撃的だというのがあるかも。でも、こんな傷害事件、日本にたくさんあるでしょうが、やっぱり「あおり運転」がセットだからみんなの関心が高いということなんでしょう。良く解釈すれば、あおり運転はやめようとの啓蒙の意味もあるんでしょうか。これもマスコミの正義感ですかね。
でも、少なくとも喜本容疑者はどうですか? 殺人犯をかばったわけでもありません。俺だって家族や友人なら、かくまうと思いますよ。
犯した罪に比べてこの社会的制裁の大きさは何だろうと思います。まるで極悪非道の罪人扱い。しかも舞い上がった人たちは、まったく関係ない女性を喜本容疑者と勘違いして、糾弾するという異常ぶりです。
血を求めた野獣のようです。こっちの方が怖い。むしろ、宮崎容疑者さえ(喜本容疑者はもちろん)可愛く見えてしまうくらいです。デマを流した人間には法的措置を取ると、喜本容疑者に間違われた女性は言っています。
「祭」、いや「血祭」を求めているんだろうなと思います。「イベント」はあっても、「祭」がなくなってきた社会では、当然のなりゆきかと。表で発散できない負のエネルギーは、裏で爆発する、ということなんでしょう。
でも、やっかいなのは、その血を求めている人たちは、自分が血を求めていることは自覚せず、むしろ社会のためと思っていて、正義感いっぱいなのです。そこですね、一番やっかいなところは。
デマを拡散させた人の中には、子煩悩なお父さんや、SNSでは可愛い赤ちゃんを自慢するお母さんもいるそうです。表では善良な市民なんですよ。「裏」は「無意識」でもあり、よほどのことがないかぎり、自分で気が付くのは難しいということもあります。
正直、俺も負のエネルギーはあります。それを「正義感」を御旗にして発散させることはないように注意はしていますが、たまに、「正義感」を振りかざして発散させてしまいますね。「正義感」を振りかざすのは、気持ちがいいからです。「正しい」ことに反対するのは「正しくない」と単純に思い込むことができるからです。
普段から俺は自分を「良い人間」や「善良な市民」とも思ってないのに。どうして時々「正義感」が襲ってくるのでしょうか。自分が正しいと思う瞬間です。でも、その正しさは、自分中心主義なのです。自分の中での正しさを、他人もそうだと思い込む、ということ。社会は、そう単純に「善悪」に分けられることがないと、頭ではわかっているんですが、面倒くさいので、物事を単純化して見てしまうのです。
「正義感」はけっこう危なくて、快感が伴っているので、なおさら扱いはやっかいなものだと思いますよ。
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