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2020/09/23

【犬狼物語 其の五百二十二】 痼魯難(コロナ)収束祈願のお犬さま(狼)、183体

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「痼魯難(コロナ)収束祈願のお犬さま(狼)」 として、全国の狼像をアップしてきましたが、半年(183日)経ったので、ここで区切りをつけたいと思います。

この半年で新型コロナウイルスの性質もわかってきて、ウィズ・コロナの新生活をしていかなければならないことを悟りました。

つまり「終息」はないということです。そして、ワクチンなり特効薬が開発されて、普通のインフルエンザや風邪のように、みんなが気にしなくなった時点で「収束」するウイルスのようです。

昨日までの4連休の全国各地の様子を見ていると、「収束」と言ってもいいような雰囲気ですが、内実は、ウィズ・コロナの新様式を守っていて、まだ完全な「収束」とはいきません。

これはもはや「災害」ではなく「環境」と言ってもいいようなものです。コロナが日本でも流行り出したころ、俺は『ウォーキングデッド』状態と書きましたが、やっぱりそうなりましたね。周りにゾンビがいても、ゾンビの性質を知り、近づかなければ、何とか生き残れます。(ゾンビの首を落とすという行為は必須ですが) 『ウォーキングデッド』でのゾンビが周りにいるのは「環境」です。その「環境」に適応できる人間だけが生き延びることができます。それが新型コロナの蔓延する世界では、ウィズ・コロナ。

これからまた波が来ることが予想されます。だから「コロナ収束祈願のお犬さま」を再開することもあるかもしれません。

 

 

 

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2020/09/22

今日から二十四節気「秋分」、七十二候「雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)」

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今日から二十四節気「秋分」、七十二候「雷乃収声」です。

秋分の日は、昼夜の長さが同じです。ただし、厳密には地球の空気の屈折のせいで、平均14分くらい長いそうですが。

「雷乃収声」は雷が鳴り響かなくなる(遠雷の)季節です。

雷に関しては、とりあえず、今年のシーズンは終わったということなのでしょうか。

ところで「稲妻」ということば、雷が落ちた田んぼの稲はよく育つところから生まれたそうです。

 

 

 

 

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2020/09/15

【犬狼物語 其の五百二十一】東京都葛飾区 葛西神社の犬の群像

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葛西神社をふたたび参拝する機会がありました。

前回は富士塚を見たのですが、今回はたまたま境内に犬の群像があることに気が付きました。

神社の人に伺ったところ、犬好きの氏子の方が奉納した石像だそうです。「親子」と言ったので、よく見たら、たしかに5匹のうち、右2匹は大きく作ってあり、左3匹は小さい子犬のようです。

「狼」ではないということでした。そうです、どう見ても犬像です。(念のため確かめただけです)

でも、横一列に並ぶ親子犬像を見たのは初めてです。犬に対する思いが伝わってきます。そのうち、詳しい話を聞いてみたいと思います。

ところで、前回書くのを忘れましたが、葛西神社は、葛飾地方に古くから伝わる郷土芸能のひとつ、葛西囃子の発祥の地だそうで、境内には石碑も建っています。 

 

 

 

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2020/09/13

二十四節気「白露」、七十二候「鶺鴒鳴(せきれいなく)」 

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昨日から二十四節気「白露」、七十二候「鶺鴒鳴」です。


昨日、雨が降って日中の気温が26度くらいだったので、その前の日が暑かったせいもあって、だいぶ涼しく感じました。


これから暑さも和らぎ、過ごしやすくなるのですが、今の時期に、夏の終わりの名残、寂しさなんかも感じますね。


鶺鴒鳴(せきれいなく)は、セキレイが鳴く頃という意味です。


セキレイは、「恋教鳥」という異名もあります。それは日本神話のイザナギとイザナミがセキレイに交わり方を教わったからです。セキレイが、尾を上下に振る動作を見て知ったというのですが、これで日本が生まれたんだからたいへんな鳥です、セキレイは。


 


 


 


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2020/09/08

【犬狼物語 其の五百十九~五百二十】埼玉県春日部市 春日部八幡神社の御嶽社&粕壁神明社の三峰神社

287a1033_20200908074801(春日部八幡内 御嶽社)

287a1036(春日部八幡内 御嶽大神の石碑)

287a1035(春日部八幡内 御嶽社)

287a1220(春日部神明社内 三峰神社)

287a1227(春日部神明社)

 

春日部の総鎮守の神社、春日部八幡神社を参拝しました。

境内社も多く、稲荷神社、氷川社、天神社などといっしょに御嶽社も鎮座します。社の手前に「御嶽大神」の石碑もありました。神社のHPによると、御嶽社は、火災・盗難除けの神さまとして信仰されているとのことです。

この一帯は、春日部市八幡公園になっていて、遊歩道やちょっとした広場、遊具なども点在し、市民憩いの場でもあるようです。

そのあとは、春日部駅にもほど近い、粕壁神明社の三峰神社を参拝しました。

春日部は、三峯信仰の痕跡として、市内には複数の江戸時代の「三峯」の石碑や石祠が残されていて、以前それを撮影してブログにアップしていますが、ここにはそういったものはなさそうで、ただ社が建っているだけです。講があるのかどうか。

解説看板によると、神明社は天明年間に、竹藪から出てきた厨子に入った神体と鏡を祀ったのが始まりとのことです。神明社の例祭は年2回行われていますが、もともとは伝染病が恐れられていたときに「疫病封じ」として始められたようです。

境内には、じっとして動かない白いお猫様が・・・。

 

 

 

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2020/09/07

今日からは、二十四節気「白露」、七十二候「草露白(くさのつゆしろし)」

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今日から二十四節気「白露」、七十二候「草露白」です。

台風10号が現在(5:00am)九州の近くを北上中です。多くの人達が事前に避難しているようですが、被害が拡大しないことを祈っています。

「露が白し」という表現が秋の気配を感じさせるもので、写真を撮っていると納得できる表現です。

「草露白」は、朝夕気温が下がり、草の上に結んだ露が白くみえるようになる状態だそうです。

また和泉式部が詠んだ句には、「白露も夢もこの世のまぼろしも たとへていえばひさしかりけり」があり、白露は、夢・この世・まぼろしと同義語として括られています。(びお・七十二候より)

朝夕の白く見える露も長い時間ではなく、夢のようにすぐに消えてなくなってしまうものなのですね。
 
 
 
 
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2020/09/04

「思い出」は「物語」

03_20200822074101 (タイ・パーテム Pha Taem 壁画の魚)

 

『中国辺境民族の旅』など、今年になってから昔の日記や原稿を読み返しましたが、人の記憶は当てにならないなぁとつくづく思います。記憶のいい加減さについては、心理学でも勉強したので、今さら驚きもないのですが、けっこう自分の都合のいいように変わっているのを感じます。

つまり、思い出というのは、けっしてその人の「客観的史実」ではなくて、どちらかというと「物語」に近いのではないでしょうか。すでに何度か書いていますが、「物語」が人の心には必要なのだということでもあるのでしょう。

昔、アメリカ映画で『ビッグ・フィッシュ』(2003年)というのがありました。

エドワード・ブルームが語るお伽話でみんな幸せな気分になるのですが、彼の息子だけは、単なるホラ吹きだと思って嫌っていました。でも、父親の余命わずかとなったとき、ホラじゃなくて事実もたくさんあったんだ、そして父親の生涯が幸せなものだったんだと知り和解する話。父親が家を留守にしがちだったのは、母親のほかに、外に女がいるからだろうという誤解も解けるのでした。いい映画でした。

それにしても、エドワード・ブルームの、話を大きくして語る性格は、とってもわかります。事実を事実としてだけ話をしても、つまらないと俺も思うようなところがあります。教科書じゃないんだから、多少の誇張はあってもいいと思うし。ただ、行き過ぎると、「嘘」になってしまうので、そこのバランスは難しい。どれくらいまでが「ビッグ・フィッシュ(大きな魚)」と言っていいものか。

タイのパーテム国立公園には、古代の壁画があります。ここに大きな魚の絵もあります。人型と比べると、かなり大きな比率で描かれています。「ビッグ・フィッシュ」です。(海ではないのでクジラではなく、せいぜい河イルカかもしれませんが) でも、たぶんこれを描いた古代人のイメージとしては、こういう感じだったのでしょう。「大きいなぁ」というイメージ。比率的には「嘘」かもしれませんが、古代人の心の中では真実です。

正直言うと、俺もノッテくると、「おおげさな話」から「嘘の話」になっていく微妙なところがあります。言ったあとに「おおげさだったな」と内心後悔しながらも、相手が信じてしまっているのを、今さら否定するのもなんだなぁと考えて、そのままにしておくと、聞いた人の誇張なども追加されて、話に尾ひれが付き(それこそビッグ・フィッシュですね)、そのことが俺を縛ってしまって、辛くなるという悲劇も起きます。

ただ思うんですよね、というか、半分言い訳ですが、物事の真実を伝えたいと思ったとき、嘘を言ったほうがいいときもあると。たとえば、小説なんかも、考えてみれば「嘘」なわけで。そういう「嘘」でしか伝えられない「真実」というものもあるような気が・・・・。

同じことなら、楽しく、面白く生きたいなと思っているだけです。現実は、ドラマチックでもありません。その淡々とした日常に耐えられない「弱さ」といったらいいか、それもないと言ったら嘘になるかもしれませんが。

俺たちは日々物語を生み、それを蓄積しながら生きているんだなぁと思います。 都合の悪い部分は忘れ、都合のいい部分は強調して、話を自分の中で構成し直し、新しい物語を作っています。楽しい思い出だけじゃなくて、辛い思い出、悲しい思い出も、たぶん、自分にとっては大切な物語なのだと思います。

 

 

 

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