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2021/01/13

【犬狼物語 其の五百三十四】 文明と野生、意識と無意識の境界を行き来するオオカミやイヌのイメージ

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『犬からみた人類史』の中のコラム、石倉敏明氏「文明と野生の境界を行き来するイヌのイメージ」には、オオカミとイヌのイメージの連続性が語られています。俺もこの連続性にひかれているようなところがあります。

とくに日本では、オオカミとイヌの区別がはっきりしていないことがあります。それは、もともと大陸のオオカミと違って小型であること、牧畜業が盛んではなかったのでオオカミの被害が少なかったこと、そして実際、オオカミとイヌとの交配も起こっていたことなどから、見かけ上も、生物学的にも、オオカミとイヌを完全に分けることが難しいことがあります。

先日も書きましたが、上野の国立科学博物館に展示されているニホンオオカミの剥製を見て、これをオオカミだとすぐに判断できる人はそれほどいないと思います。イヌだと思うでしょう。もっとも剥製の製作者が「可愛らしく」作ってしまったということも原因かもしれませんが。

ここにオオカミからイヌへのイメージの連続性が見て取れます。オオカミが「ヤマイヌ」「オイヌサマ」と呼ばれることにもそれが表れているのではないでしょうか。

石倉氏はこう書いています。

「オオカミ、ヤマイヌ、イヌといった動物は、奥山、里山、人間界(里・町)という大きく三つに分割された地理的な文化コードを行き来することによって、人間の生活圏の境界を超えた穢れや聖性といった性格を獲得している。現代、日本のアーティストが作り出す豊かなイヌのイメージも、こうした異種間の想像力と無縁ではありえない。イヌは神話的な動物素として、多種多様な方法でイメージ化されてきたのだ。」

文明と野生を行き来するのがイヌとオオカミのイメージというのに加え、俺にはもうひとつ、心理学的な面からのオオカミとイヌの連続性が感じられます。

これは前から何度か書いていることですが、オオカミとイヌを対比すると、

オオカミ:無意識・夢・裏・陰・闇・夜・死などなど

イヌ:意識・現実・表・陽・光・昼・生などなど

といったイメージです。境界を超えて向こう側へ行ったものがオオカミ、境界のこちら側にいるのがイヌ。そして両者は、区別されるものではなく、境界を行ったり来たりしている「何ものか」なのです。俺にはそう感じられます。

実際、イヌは現実の動物として存在していますが、ニホンオオカミは明治時代に絶滅し(まだ生存を信じる人たちもいますが)、あちら側へ行ってしまいました。いなくなってしまったからこそ、オオカミはよりカミへ近づいたと思います。オオカミがカミの眷属であることは自然なことのようにも思えるし、オオカミによって人は向こう側へ連れていってもらえるということです。

それは普段は意識していない、自分の内面に残っている野生性に気が付かせてもらうことでもあります。

 

 

 

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