水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ
田んぼの水が美しい時期です。
3年前、山形県寒河江市で、二人展『水を掬う』を開きました。
どうして「水を掬う」というタイトルを付けたかというと、高校の同級生であった松田重仁くんは「生命の大切さ」や「浮遊する水」をテーマにした彫刻作品を制作してきましたが、俺も「メコン」や「棚田」で、水の循環をテーマに写真を撮っていました。
松田くんは、
「「浮遊する」というのは、重力からの解放と同時に、事物は止まることなく常に変化し移り変わることを表しています。例えれば、山の懐に湧き出た水が川となり、やがて大海に注ぎ、それが雲になり、また雨として大地に帰るということです。」
と書いています。
なんという偶然だろうと思いました。これもユングの「共時性(シンクロニシティ)」と言っていいのかもしれませんが、松田くんも、俺も、高校を卒業してからは、まったく連絡もなく、2003年ころ、新潟県の越後妻有アートトリエンナーレのイベントで、松田くんは彫刻作品を展示し、俺は関連イベントで棚田の写真展を開催中で、このとき消息を知るまで、お互いがどんなことをやっているかさえ知らなかったのです。
それなのに、俺はメコン河を源流から河口まで旅し、山(チベット)に降った水が、大海(南シナ海)に注ぎ、ふたたび龍神となって空に舞い上がり、チベットの聖山に水を降らせるという、水の循環と人々の暮らしを写真に収めていたのです。メコン河だけではありません。棚田も水の循環において存続できる生業です。水が生命の根源という、松田くんと同じようなことをテーマにしてきました。
それで二人展の企画が出た時、タイトルは『水を掬う』にしたのです。そのとき、この言葉が頭にありました。そしてその思いを書こうとしていましたが、ずっとそのまま3年が過ぎてしまいました。
コロナ禍で、あらためて混沌とした世界になって、この言葉を思い出しました。
「掬水月在手、弄花満香衣」―水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ―
この禅語は、もともとは中唐の詩人「于良史(うりょうし)」の『春山夜月』という自然を愛でる詩の一節を引用しているものです。
いろんな解釈がありますが、禅語として用いられる場合の意味としては、両手で水を掬えば、天空の月さえも掌の中に入って自分と一緒になる。一本の菊の花でも手に持って楽しめば、その香りが衣服に染み込んでくる。自分と月、自分と花とは別物でありながら、簡単に一つになることができる、真理を手にできるという意味らしいのです。
ただし、そこにはアクションが必要です。手で水を掬わなければならないし、花を手に持たなければなりません。
つまり、真理にたどり着くには、アクションが必要だということです。でも、そのアクションは難しくありません。ただ、水を掬ったり、花を手に持つだけです。
このコロナ禍の混沌とした世界、何を信じていいのか、何を疑ったらいいのか、それが分からなくなっている今、トンネルの先に光が見えたとしたら、それに向かってひたすら進んでいけばいい、ということになります。まわりがどんなに騒いでいても。
その光が見えないのは、かえって 難しく考えているからかもしれないですね。水を両手で掬うくらいの簡単なアクションでわかるはずなのです。
今は、やらなければならないことを、毎日淡々とこなす、ということしかありません。
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