(河口湖)
(善応寺の狼塚)
(塚石の一番上の文字)
河口湖の北東に位置する善応寺の狼塚も、書籍にはまだ載せていない話です。
塚は寺の境内の入り口にあります。よく石碑を見ると、「狐塚」の上に、読めない一文字も刻んであります。
これは、解説看板によると、
「塚石の頭文字は犬(いぬ)と読む。辞書にも無いが、此の文字が通用していた時代があった事も想像される。河口に古くからの言い伝えによれば、此の寺の坊さんが朝まだき薄暗い頃、裏山で狼の苦しむ声を聞きつけ、そばに行ってみると、骨がノドにささり、苦しんでいたので、衣の袖を手に巻いて抜いてやったのを、狼が恩義に思って、数日後寺の庫裡に兎を置いて行ったとの事。其の後も時々山鳥を咬えて来ては、坊さんに御恩を報じたということです。何年かの後その狼が年老いて死ぬるとき、庫裡に来て、一声呼んで死んだので、恩義を忘れぬ狼の心情を哀れに思い、此の地に埋葬、狼塚を建て、供養したと言い伝えられております。
何故狼塚の表題に此の文字を使ったのは定かでないが、塚を地蔵堂の傍に建てたというから、寛永年間以後の事でしょう。村では子供の遺体を埋めた上に、棒を三本打って、上を縄で縛り石をつるして狼よけにした風習が、大正の初め頃迄ありました。此の話は村の古老本庄魁平(九十歳)さんのお話です。 昭和五十七年四月一日建之 河口 善応寺運営委員会」
この伝説も「狼の喉から異物を取ってあげると、お礼に獣肉が届けられる」という狼報恩譚です。このパターンの話は全国的に多く存在します。
スウェーデン生まれでオオカミ研究家のエリック・ツィーメン著『オオカミ』に、興味深い民話が載っていました。
オオカミの歯に挟まった木切れを取ってあげるとオオカミが恩返しをしたという話です。オオカミの報恩譚です。
「オオカミは善良で、ほとんど神に似た存在であり、たしかに少々ずぼらで、性急で熟慮に欠けるところがあるが、つねに親切で、思いやりがあり、賢明であった。有名なトーテムポール、ギットラテニクスのトーテムポールには、くり返し脚色されて話される一つの物語が語られている。ある男が、臼歯の間に木切れがはさまってしまったオオカミを助けた。オオカミはのちに、男とその部族が困窮しているときにシカを殺してやることで、返礼をしたという。
実際オオカミは歯の間にはさまった木切れのために大変苦労することがある。ネースヒェンが四か月の自由な生活をして戻ってきたとき、たしかにたくさん食べはしたが、やがて病気の兆候を示しはじめた。獣医が診察したが、何も見つからなかった。それで獣医は、ネースヒェンの衰弱は逃走期間中の食料不足が原因だろうと考えた。けれども、このオオカミの体調はますます悪くなっていった。口臭もひどかった。そしてついに私はこの口腔に病気の原因を発見した。上顎の奥歯の間にはさまっていた木切れである。これを取り除くと、数時間以内にネートスヒェン(まま)は元気になった。」
というのです。ひとつは、オオカミの報恩譚。もうひとつは、オオカミの歯に物がはさまると大変だということ。そういえば、ヴィーノもたまに歯に物が挟まるときがあり、手指の形、機能上、自分ではなかなか取れなくて苦労しているときがあります。その様子はたしかに印象に残りますねぇ。なんだか間抜けな感じで、ユーモラスで、オオカミならなおさら、普段は精悍で威厳のある姿と、そのギャップ萌えもあるかもしれません。
著者のエリック・ツィーメンは、オオカミは人の助けを借りて「イヌ」になったという犬起源譚か?とも思ったらしいのですが、残念ながらそうではなく、イヌは中央アジアでオオカミから分離したらしいし、ネイティブアメリカンの民話でも犬起源譚ではなかったそうです。
オオカミの報恩譚は日本では、いろいろパターンを変えてたくさん存在するのですが、エリック・ツィーメンは欧州人だし、報恩譚はカナダのネイティブアメリカンの話で、まったく日本とは関係ないところで、こんな話があると、報恩譚の方は、まぁオオカミと接していた人たちがオオカミと友好的な間柄であれば、恩返しの話も自然と生まれるんだろうなと想像できます。
ただ、「狼の口」と「挟まった物を取ってあげる」という組み合わせは、日本にもネイティブアメリカンにもあるとすると、オオカミの何か特徴に関わっているのかな、それともオオカミの口から物を取ってあげなければならない理由があるのかと、想像がふくらみます。それを考えてみようかなと。
まずは、日本での狼報恩譚を紹介します。埼玉県坂戸市の北大塚という地域に伝わる民話をテーマにした公園があります。公園に設置されている解説プレートからこの民話を要約すると、
「昔は、この辺りにもたくさんの狼がいた。その中にどん吉といういつもお腹をすかした、のろまな狼がいた。ある日、どんぐりの木に隠れて獲物をねらっているとおばあさんがやってきた。狼はおばあさんを食べずに、家まで送っていった。おばあさんは、そのお礼として魚をお供えした。狼たちは喜んで魚を食べた。どん吉はあまり急いで食べたので、骨を喉につまらせた。そこへ酔った大工さんが通りかかり骨を取ってくれた。大工さんはそこで寝てしまった。夜中、目を覚ますと周りには狼がいっぱい。食べられると思った大工さんは「わしは、一日にどんぐり5個しか食っとらんからまずいぞ」 すると狼は「さっきはありがとう。忘れた道具箱を届けにきました」 それから毎朝大工さんの家の前には、どんぐり5個がおいてあったとさ」
次に、東京都東大和市中北台公園にも「藤兵衛さんと狼」という話を元に平成5年に設置された長さ2.2m、黒御影石の「狼のベンチ」があります。東大和市のHP「藤兵衛さんと狼」には、その狼の伝説が掲載されています。
「今は多摩湖になってしまった石川の谷に、昔、藤兵衛さんという腕の良い木こりの親方が住んでいました。ある朝、いつものように仕事場へいこうと笠松坂(狭山丘陵の中にあった)を登っていくと、大きな口をあいて苦しんでいる狼が見えました。口に手を入れて、骨を取ってやると頭をひとつさげ森の中へ行ったそうです。それからというもの、狼は藤兵衛さんを朝晩送り迎えするようになりました。藤兵衛さんは、狼が御嶽神社のお使いで大口真神(おおぐちまがみ)といわれていたので、自分を守ってくれた狼のためにお宮を造り、朝晩拝んだそうです。 -東大和のよもやまばなしから-」
これも「狼が口から骨を取ってもらって恩返しする」という話です。
他にも、「民話 狼の恩返し」で検索すると、多くの似たような民話がたくさん出てきます。
「狼の恩返し」まちづくり葛生株式会社(栃木県佐野市葛生の民話)
「狼の恩返し」YAMANASHI DESIGN ARCHIVE(上野原市秋山遠所に伝わるお話)
「狼(おおかみ)の恩返(おんがえ)し」フジパン株式会社(大分県の民話)
「狼の恩がえし」伊豆の民話と昔話(静岡県伊豆の民話)
狼信仰について、しばしば参考にさせていただいているのが、菱川晶子さんの『狼の民俗学』ですが、狼の報恩譚についても論じられています。菱川さんが調べた結果、同様の民話は、北は岩手県から南は大分県まで分布しているという。
1:ある人が、口を開けた様子のおかしな狼に山で出会う。
2:みると狼の喉に骨が刺さっているので抜く。
3:狼が鹿などを礼に届ける。or それ以後山を通るたびに狼が送る。 or 山道を歩いていると狼が出てきて着物の裾を引き、藪陰に隠して狼の大群に襲われるのを防ぐ。
多くの報恩譚の1と2の部分はほとんど同じですが、「狼のお礼の仕方」の3の部分は、3パターンほどあるようです。
1と2の部分は、中国から入ってきた「虎報恩譚」が元になっているようです。日本には虎はいなかったので、虎が狼に変わった可能性が高いようです。
カナダのネイティブアメリカンの「狼」、日本では「虎」→「狼」と、じゃっかん変化はしていますが、どちらにせよ「猛獣の口から挟まったものを取る」というとんでもなく危険なことをやっているわけですね。下手したら食べられてしまうかもしれない恐れもあります。そんな危険を冒してまでも、どうして挟まってしまったものを取ってあげなくてはならないのか、ということですね。
そんなことを考えているとき、この一文が目に入りました。
「オオカミという生き方」という平沼直人氏(弁護士,医学博士)のコラムです。
「◆医療の本質
送り狼の民話には,医療の本質を見て取ることができる。
本来,治療行為は,生命に対する畏れなくして行えるものではない。
患者はただ医師に身をゆだねているだけなのだろうか。感染は医師の専横に対する患者の無言の抑止力ではあるまいか。
傷つきあるいは弱った人がいれば助け,助けられた人は感謝する。
そんな当たり前のことが忘れられている。」
なるほどなぁと思います。
平沼さんは医師なので、治療行為はどうあるべきかを言っていますが、人によって、この民話をどのように受け取るかは、それぞれ違ってもいいのでしょう。
そこでここからは俺個人のとらえ方です。
平沼さんの一文にヒントを得て、狼のイメージをもっと大きくとらえ、「自然」を象徴するものと考えると、自然に対する接し方ととらえることはできないでしょうか。自然との緊張関係を感じさせます。下手したら死んでしまう(殺されてしまう)かもしれない、命をかけた関係を表現しているのかなと。
つまりそれなりの危険を冒さなければ、自然の中では獲物は得られないと取ることもできるのではないかということです。あるいは、命あるものを獲物として得るためには、こちらも命をかける必要があるということです。
獲物だけではありません。農作物だってそうでしょう。時に自然は、風水害などで田畑をダメにしてしまうこともあります。自然は恵みをもたらしてくれるだけではなく、半面、恐ろしいものでもあるという両面性の表現であるかもしれません。
それでも人はその自然の恐ろしさに打ち勝って生きていかなければならない。そういった人間の覚悟の物語なのかもしれません。
ところで、この狼の報恩譚は、狼に対する相反する人間の気持ちの一面ではないかという気がしてきました。「狼の口に手を突っ込む」ということは、 「狼を助ける」とまったく反対のことも意味していたようなのです。
平岩米吉著『狼 その生態と歴史』には、次のような話が載っていました。
それは狼を殺す方法です。「付記 狼の口に手を突っこむ」には、
「このようにして、狼の口に手を突っこんで殺したという話は、この他にもいくつもある。前述(八)信州佐久の少年、亀松の話をはじめ、(一一)信州上諏訪の次郎兵衛の話などもそうだし、さらに「遠野物語」には同村飯豊(現在、遠野市の一部)の鉄という若者の話があげられている。(略)ある年の秋、飯豊のものが、六角牛山(一二九四m)の麓の岩穴で狼の子を見つけ、二匹を殺し、一匹を持ち帰ったところ、その日から、狼が馬をおそうようになった。そこで、狼狩をすることになり、なかでも力自慢の鉄という男がひとりで野に出かけて行った。すると雌狼がいきなり飛びかかってきたので、鉄はワッポロ(上羽織)をぬいで腕に巻き、狼の口の中に突っこんだ。それを狼が荒れ狂って咬むので、人を呼んでも、誰も恐れて近よらず、鉄はとうとう腕を狼の腹まで押し込んで殺した。しかし、鉄も腕の骨を咬み砕かれ、助けられて帰ってから間もなく死んだ。(略)なお、手拭いなどを腕に巻いて狼の喉へ突っこみ殺したという同じような話は羽前(山形県)や丹波(京都府)にも伝えられているという。」
「アメリカにも同じような話がある。一九〇〇年ごろ、グレッグGreggという男がミズーリ州の僻地で大きな灰色狼に出会ったとき、何も武器を持っていなかったので、棍棒で狼をなぐったところ棍棒が折れてしまった。そこで、すぐに大きな黒い帽子を取って、それを大きく開いた狼の口の中に突っこんだら、狼はぐるぐるまわって後退した。それでグレッグも助かったのである。(略) 猟師は狼を見つけると、馬で追い詰め、棍棒で背骨を打ち砕くのが普通だが、時には勇敢な男があって、馬から狼の体の上に飛びおり、手袋をはめた手を狼の口の中に突っこみ、その舌の根元を押さえてしまうのである。すると、狼は咬みつくことができず、そこを素早く、太い短い棒を口にかませて両顎といっしょに縛りあげてしまうのだそうだ。こうして、生捕りにした狼は家に持ち帰って、犬の闘争の稽古台にして殺すのである。(ウィニペグの辺で狼を犬の喧嘩の稽古台につかったことはシートンも描いている。)」
なんだかすさまじい話です。実際、狼に襲われたときは程度の差こそあれ、日本でもすさまじい、凄惨な場面になったことは想像にかたくありません。
「狼の口に手を突っこむ」ことの二面性。一方は狼と人間の良い関係を語り、もう一方は狼との緊張関係、殺し殺されるという壮絶な関係。
同じことでも、見方によって相反する話として伝わっている例は、九州筑後市の「羽犬塚伝説」でもそうでした。「愛犬」と「暴犬」という相反する伝説が同じ「羽犬塚」に伝わっているのです。
「羽犬塚」は古くから宿場町として栄え、その地名の由来は400年前から続くふたつの伝説にあるそうです。
どちらも犬を塚に葬ったというのが由来ですが、ひとつは、天下統一を目指す豊臣秀吉の行く手を阻んだ羽犬が仕留められたという説と、秀吉の病死した愛犬が羽が生えたように素早かったという説です。
小学校の隣の宗岳寺に残されている石塔には、「犬之塚」と彫られています。犬に名前がないことから、秀吉の愛犬説はむずかしいかなと思います。どうして愛犬に名前がないのか不思議です。だから不特定の犬の供養塔だったと考える方が自然でしょう。
「羽の生えた犬を探して」というHPでも、こんな推測をしていて、なるほどなぁと思います。
「この「塚」は一体何なのか? これについては、昔このあたりで殿様が狩りの練習のため「犬追い」をしていて、その際に追われた多くの野犬の霊を弔うために立てられた犬塚が地名として残ったのではないかという推測を見つけました。」
秀吉も信長同様、鷹狩りを好んだそうで、鷹狩用の犬である「鷹犬」は「御犬」と呼んで大事にされましたが、反対に、野犬は鷹の餌にされて殺されたという話もあり、この犬之塚も、そんな犬たちの供養のためのものだったのかもしれません。
伝説は過去の事実がそのまま伝わることもあるでしょうが、その話が地元の人にとって何か有益なことがあれば、尾ひれがついて、変わっていくということは考えられることです。
心理学者・大場登著『精神分析とユング心理学』には、神話について、
「その国・その文化圏の人々の心が一致して「受け入れてきた」、その意味で個人を超えた、文化的、あるいは普遍的な「世界観」の表現とみることもできる。人々の心によって受容されないものが歴史を超えて残り続けることはほほとんどありえない」
と言っています。伝説は神話より、もっと具体的な物語ですが、残り方としては同じでしょう。
そう考えると羽犬塚の伝説も、多くの野犬を殺してしまった事実は、そのままでは辛すぎるので、暴犬の話になってしまったり、豊臣秀吉の島津氏討伐という大きな歴史的な出来事に便乗して、愛犬の話に変わっていったという可能性もゼロではないのではないでしょうか。
現在でも物語は刻々と変化しています。良し悪しは別として、物語も生きているのだから時代とともに、人が望むように、変わっていくのは自然なことなのでしょう。
伝説に、「暴犬」と「愛犬」という一見矛盾するような2つの伝説が同時に伝わっていることも、心理学的な面から見たら、人間の心の葛藤をそのまま表しているような気がします。「野犬」と「鷹犬」の、あまりにも両極端な2つの犬の立場そのものが伝わった結果なのかもしれません。
この羽犬塚の例のように、「狼の口に手を突っこむ」ということに関しても、ふたつの伝説があること自体、人間の狼に対する相反する「人間を守ってくれる山ノ神の神使」「恐ろしい動物」という気持ちが表れているのではないかなと思います。このふたつがあるからこそ、また畏敬の念もわき、神や神使として崇めることにもつながっているのだと思います。
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