【犬狼物語 其の五百七十三】 東京都あきる野市 正勝神社/大口真神社
東京都あきる野市の正勝神社を参拝しました。
隣には東海大菅生高校があります。境内の「サカキ」は、あきるの市の天然記念物に指定されています。
御祭神は大山祇命で、明治2年(1869)、旧称山ノ神を正勝神社と改称したようです。
この境内には大口真神社の祠があり、御嶽神社の大口真神のお札が祀られています。
高さ60センチほどの立派なお犬さまがいて、台座には「天保十」との銘があります。
天保十年といえば1839年です。東京都内のお犬さま(狼)像の中でも古いものです。奥多摩の丸っこい、はじめ狛犬のようなお犬さまの系統は宝暦年間で古いものですが、その後のもっとリアルなお犬さま像では、これが東京都内では一番古いものになるかもしれません。先日紹介した24区内で一番古い足立区千住神社/三峯神社のお犬さまは、弘化2年(1845年)なので、それよりも6年ほど古いものです。
『多摩のあゆみ 第38号』( 昭和60)の「山上茂樹翁ききがきノート 第五十一話 管生のお犬さま」には、正勝神社のお犬さまと狼に関する話が載っています。
「正勝神社からさらに奥に入った大沢にはオオカミクボという地名さえ残っている。今、細谷花火工場の倉庫のあるところで、明治のはじめのころ、元多西村々長であった村木鉄蔵さんの父文吉さんと弟久太さんが、このオオカミクボへ草かりに出かけた。狼などいるわけがないと、たかをくくっていたところ、穴の中から、太鼓をたたくような音がする。突如、その穴から狼が 飛び出し、北の方を向いて、ひとうなりうなって谷を飛び越えて、北に向かって飛び去った。ふたりはあまりの恐ろしさに、ほうほうのていで逃げ帰ったという。」
明治初めころはあきる野市でも狼が目撃されていたようです。
「これは私の祖々父がつたえた話。祖々父が御嶽山へ講中で行く途中、大沢のオオカミクボ付近まで歩いて 行ったとき、狼が祖々父の前に立ち、口を開けてこちらを向いている。見ると、のどへ骨がつかえている。祖々父は喰いつかなければ骨をとってやるといってと り除いてやったところ、喜びいさんで、どこかへ消えさったという。翌々日、その狼が家の庭先へやってきて、ひとうなりうなったあと、縁側へ「ドタン!」と いう大きな音を残し去った。出てみると、ウサギが縁側に置かれていたというのだ。」
これは先日、山梨県富士河口湖町善応寺の「狼塚」でも触れた狼報恩譚とほぼ同じです。だからこれは事実というより、この民話がこのあたりでも伝えられてきたということでしょう。
「むかしはどこの村にも村境ちかくに馬捨場などとよばれる動物の死骸を埋めた場所があった。牛や馬などが死ぬと、捨場に埋める。数日後、その場へ行ってみると、狼か犬か知らぬが、大きな穴が掘られ、死骸はむさんにも喰いあらされていたなどという光景はしばしばで、私も子供のころ実際に目撃したこともある。 人もまた土葬であったので、こうした被害から守るため、「狼除け」とよぶ仕かけがつくられた。今でも秋川流域一帯にかけて行なわれている。葬儀のときの四本旗の竹を三本切り、ゆわいて石を吊す。三本以外は穴の中へ放り込んで狼や犬などが死者に近づかぬようにする。瑞穂町長岡では、もっと丁寧に、四、五本まるいて真中に石を吊す。古くは西多摩全域の習俗だったらしい。」
これには「西多摩全域の習俗」とありますが、平岩米吉著『狼 その生態と歴史』を見ると、この風習はもっと全国的な広がりがあったようです。
「秋田県仙北郡中川村や雲沢村(現、角館町)の辺では、狼が新しい墓を掘りかえすのを防ぐのに、土饅頭の上へ鎌を立てておく風習があったというし、また、それより南の方の豊川村(現名不詳)では、夜は太い藁松明に火をつけたり、弾力のある小枝を籠目に刺しておいて、狼が掘ると、強く弾ける仕掛けをしておいたりしたという。(武藤鉄城氏記載)
栃木でも、これに似たやり方があり、孟宗竹の三尺(約一m)ぐらいのを割って墓にたて、その一片を曲げて地に刺しておく。すると、狼がきて墓を掘ると、それがはねて目をつぶし仕掛けであった。この風習は明治の末頃まで残っていたという。(高久平四郎氏・日本犬の飼い方)
東京都西多摩郡秋多町では、新墓の土饅頭の上に、青竹を三本組合せ、そこから、荒縄で大きな石をつるした。(甲野勇氏・東京の秘境、秋川渓谷)」
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